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わたしは呆然としていた。
なんで? マユがわたしを騙してる? まさか。嘘をつくなんて、できない子だ。だってそれは、悪いことだから。
『みっつん、どこいるの?』
深呼吸。
よし、覚悟決めろ自分。そもそも、マユに怒られて、絶縁される予定だったんだ。大丈夫だ、いけ。
『そこにはいない』
クエスチョンマークを浮かべたスタンプ。だよね。信じてそこまで行ったんだもんね。
でもごめん、わたしはそこにいない。
『きさらぎ駅にいるって、嘘ついた。それは謝る。でもマユ、ここから先がだいじだからね。きさらぎ駅っていうのは、本来、存在しない駅。ネットの書き込み、作り話の怪談に登場する名前。だから、マユはそこにいたら、ダメ。帰って来て』
――早く納得して、マユ。
そして、戻って来て。怒り狂ってわたしを責めるためでもいいから、戻って来て。
できるでしょう? わたしを探しにそこまで行ったなら、同じように、わたしに会うために戻って来ることができないはずがない。だから――。
返事が来るまで、暫く時間があった。
『そっか。みっつんは、今どこにいるの? 家?』
『自分の部屋』
『そうなんだね。よかった、じゃあ、みっつんは変な場所に入り込んだわけじゃないんだね』
マユが怒らない――それが、ひどく不気味に感じられた。
だって、絶対に。マユは悪いことを許さない。
わたしが今日までマユの友だちでいられたのは、彼女のその規範に従っていたから。マユが悪と断ずるようなことさえしなければ、平穏な日常を送れたから。ひょっとすると、わたしの日々はマユに守られていたから。
――そのルールを破ったのに、なぜ?
『マユ、わたしのこと怒ってもいい。でも、わかって。助けてもらわなきゃいけないような状況じゃないの。だからマユ、帰って来て』
『それはね、無理だと思う』
『なんで』
『何回か、話したことあるよね。わたし、この世にいてはいけないんだって』
もちろん、聞いたことはある。
それは、頻繁に持ち出される話題だった。またその話をはじめた、と思う程度に。
『でも、なんでかは知らない』
『そだね。話してないし。これを知ったら、絶対みっつんのためにならないから、詳しいことは話せないけど』
そんな、ネットの胡散臭い怪談書き込みみたいな。実話を標榜する作り話みたいなこと、いわないでほしい。
マユだったら、それは作り話じゃないって確信できるから。どんなに荒唐無稽でも、きっと現実だから。
でも、マユはつづける。
『わたしは、ママの願いでできてるんだ。願いっていうと、きれいだけど。ほんとは、恨みかもしれない。ママはちょっとヤバいことをして、無理やりわたしを産んだ。それでね、いつか迎えに来るっていわれてたの』
『誰が来るの』
『ん〜、鬼みたいなやつ。だから、良い子にしてないと鬼が来るぞって、ずっといわれてて。完璧な良い子なら、鬼もなかなか拐えないんだって。ほんとかわからないけど、思ったより長いこと、ママの良い子でいられたよね』
『ねぇマユ、意味がわからない』
電車はまだ停車中だろうか? それとも、もう発車してしまっただろうか。
きさらぎ駅に残るのは、あきらかにまずい……でも、もし電車に乗ったとしても、きさらぎ駅の次に停まるのは、どこ? 現世の駅に、戻って来られるだろうか?
『わからなくていいよ。とにかく、えーと……わたし、ふつうの子とはちょっと違うんだ。たとえば、みっつんは、電車に乗ってたらいつも同じ駅に着くじゃない? 皆もそう。だから、突然知らない駅に着きましたなんて、あり得なくない? だけど、わたしはそうじゃないんだ。この世にいるべきじゃないから、ちょっとした拍子に、この世じゃないところに紛れ込んじゃうんだよね。それで、できるだけ出歩かないようにってママにいわれてたんだ。でも、ママもう死んじゃったから』
初耳だ。
いつ? なんで? あ……いや、それはあとで聞こう。
『マユ、戻って来て』
『だから。ママはもういないから』
『わたしがいるじゃん! わたしのとこに、戻って来てよ!』
縁を切るつもりだった相手を全力で引き止めてるの、ウケる。
でも、わたしってそういう人間なんだ。
だってマユのこと、イライラするけど嫌いじゃないもの。なにをいってるのかわからないし、正直不気味だなって感じることもあるけど、でも、どこか好きじゃなかったら、こんなに長いあいだ友だちでいたりしない。
『みっつんのそういうとこ、ほんと好きだった。だから、助けてあげたかったんだ。かっこいいとこ見せたかったな』
『だから! 帰って来てってば! できるんでしょ!』
『わたしさ、ママがいなくなったら、もうこの世に繋がりなんもないなって思ってたんだ。でも、みっつんがちゃんと繋がってくれてたんだね。あと……なんかさ、みっつんが嘘ついたの、前だったら絶対許せなかったと思うんだけど、今、なんにも気にならないの』
なにか返事をしなきゃと思うけど、なにをどういえばいいのか、わからない。
マユがこの世にいるべきじゃないって、なに?
簡単に、この世じゃないところに迷い込んじゃうって、どういうこと?
だからわたしを救いに来れると思ったとか、全然わからない。
『それが……よかったな、って思う。わたし、許すってことを知ったんだなって。今までそれ、わからなかったからさ。ちょっと、びっくり』
『ねぇマユ、かっこいいとこ見せるなら、ちゃんと見せに来て』
『こっちがさ、わたしの故郷だから。なんか……懐かしいや。鬼に拐われるの怖かったけど、ほんとはそんなことないんだな……わたしは、わたしに戻るだけだね』
『マユは良い子にしてたんだから、こっちで生きててもいいんじゃないの? 駄目なの?』
『でも、どうやって戻るの? 今までは、ママに呼ばれたら戻れたんだけど、ママはもういないし。線路をたどって戻ってみる?』
わたしはくちびるを噛んだ。それは駄目だ。きさらぎ駅の原典をそのまま辿ってしまっている。
『線路は駄目! 電車は来ないの?』
『電車は乗っても意味ないよ。隣の駅がないんだもん。そう、駅がないんだ……あの電車はね、ずっと回ってるんだね』
それは無人の環状線。途中にトンネルがあって、あとはただ真っ暗な中を走る電車の光を想像して、わたしはなんだか胸が痛くなった。
その電車は、ごく稀に現世の電車と重なりあって、乗客を拾ってしまうのだ。
行き先は、たったひとつ。きさらぎ駅。
『駅舎はどうなってるの? 誰もいないの?』
『なんにもないし、誰もいない。トンネルが見えてる。それから……足が一本しかないおじいさんがいるよ。わたしを見て、怖い顔してる』
笑うべろべろりんのスタンプが押された。
なんで笑うのか、意味がわからない。間違い? いや、間違いならマユは即座に訂正する。わたしが知っているマユなら。
『マユ、ほかに道はないの?』
『ないよ。ここはさ、みっつんがいるこの世とは違うから。あるとかないとかも、そうじゃないんだ。ああ……なつかしいなぁ……』
――マユが幸せなら、それでいいのかもしれない。
わたしが追いやってしまった場所が、彼女にとって悪夢の地ではなく、帰るべきどこかなのだったら。在るべき場所なのだったとしたら。
無理に戻らせる必要は、ないのかもしれない。
『怖くないの?』
『怖くはないかな。ママはずっと嘘をついてたんだね。ママはここからわたしを盗んだんだ。こっち側から。子どもが欲しかったから。ひどいことをしたんだね、ママ。そりゃ、あんな死にかたもするよね。当然だ。こんな素敵な場所を、わたしから奪ったんだもんね。最低』
『おじいさんから逃げなくて大丈夫?』
『逃げる? なんで?』
なんでって……。ことばに迷っているあいだに、次のメッセージが来た。
『そうだ。みっつんもこっちにおいでよ』
つい一瞬前まで。
マユを取り戻したくて息苦しいほどだったのに、わたしはぞっとしていた。取り落としそうになったスマホを、あわてて持ち直す。
メッセージはつづく。
『わたしが戻る必要ないよね。みっつんがこっちに来てくれればいい』
『わたしは、そっちの生まれじゃないから無理だよ。ふつうに電車に乗ったら、ふつうに駅に着くもの』
『ねぇみっつん、寂しいな』
そのとき、スマホの画面が真っ暗になった。
バッテリーが切れたのだ。あまりの事態に動揺して、消耗していることに気がつかなかった。
あわてて、わたしは充電用のコードを探した。あわて過ぎて、足の小指を机にぶつけて悶絶することになったけど、捻挫や骨折には至らなかった――マユを陥れておいて、この程度で済むならラッキーだ。
完全に電池を使い切ったスマホは、なかなか再起動しない。
じりじりしながらスマホが息を吹き返すのを待っていると、ぱっ、と画面が明るくなった。
そこには、べろべろりんのスタンプ。スタンプ。スタンプ。スタンプ。スタンプ。
『みっつん、寂しいよ』
わたしは悲鳴をあげてスマホを放り出した。電源コードがはずれて、スマホの画面はまた真っ暗になった。
マユの話は、これで終わり。
彼女はやっぱり、わたしを許してなんかいないと思う。
真っ暗な山に囲まれて、トンネルを抜けた先にぽつんとある駅に向かって走る電車が、きっといつか、わたしを迎えに来る。日常の隙間からあらわれて、非日常の、マユがいう「あっち側」へ連れ去るだろう。
それが明日なのか、それとも何年も先なのかはわからない。でも、わたしはそうなることを確信していた。
だって、マユ――。
わたしも、寂しいんだもの。