第6章
「比嘉〜!」
声の主は浩伸だった。階段を下りる足を止めて、振り返る。浩伸はこの前見たユニフォーム姿じゃなくて、制服姿だった。
「石川。あれ、制服…。試合は?」
「おいおい、何言ってんだよ!あの後北谷西には勝ったけど、その後の尚学園にコールド負け!それで俺達の野球部生活は終わったんだよ!んで、これから数学の補習に行くってわけだ。お前は行かないのかよ。」
あぁ、気がつけばもうそんな時期か。壮太のこと、あの人魚のことで頭がいっぱいで、そんな歳月が過ぎ去っていたことなど、すっかり忘れていた。
「そっか…もう、そんな時期か…。」
「あ?おいおい、大丈夫か?ぼさっとするなよ!おまえらしくねぇな!」
真由は苦笑いするのが精一杯だった。すると浩伸のほうから切り出してきた。
「まぁ、無理もねぇか。やっぱり大変だったよな…嶺井のこと。」
「え?」
「親父に聞いたんだ。嶺井が北谷西の試合の帰りに倒れて病院に運ばれたって。そのとき比嘉もいたんだろ?」
真由は言葉を詰まらせた。浩伸は前とは違う真剣さで、空気が冷たく曇る。なんだかんだ言って浩伸は、何かと真由のことを気にかけているのが、真由にもよくわかっていた。しかし、今の真由の頭は完全に沖縄の海原を自由に泳ぎまわる、あの人魚のことで支配されていた。
「人魚…。」
真由はそうつぶやいてしまった。
「はい?」
とりわけ真剣にたずねて返ってきたのは「人魚」。何のことかさっぱりわからない浩伸は面食らって、真由の顔を凝視した。
「何言ってんだ、お前…。」
「ねぇ、石川。あんた、合宿の時、浜辺で走り込みしたんでしょ?詳しく教えてくれない?」
状況を呑み込めないで当惑している浩伸のことなどすっかり無視している。浩伸は何のことかさっぱりわからないで、目を丸くしている。
「へ?お前大丈夫か?熱でもあんのか?」
「いいからお願い!」
「っ、あぁ…。」
浩伸は渋々合宿先の八重山の浜で走り込みした時の様子を語った。地下足袋を履いて走りこんだこと、砂浜は見慣れた白だったこと、波の音、ボートの音がひたすら走っている身には少しうらめしく聞こえたことなど…。
「ありがと、石川!」
「え?おい、比嘉!」
真由は猛然とダッシュをかけ、一気に階段を駆け下り、あっという間に見えなくなってしまった。状況を呑み込めない浩伸は呆然と階段で立ち尽くすしかなかった。
「何なんだ、あいつ…。」
それが浩伸の率直な気持ちを表していた。一方の真由はというと、あっという間に校舎を飛び出て、おもろまちの大通りをダッシュで走っている最中だった。もう随分走ってきていて、制服のシャツは汗でびっしょりなのに、不思議と不快感は感じない。
人魚の物語は、新たな展開を見せていた。自宅に帰ると、ただいまも言わずに部屋へと駆け込んだ。そして、手にしたのはシャープペンシル。走ってきたために荒い呼吸を落ち着けるべく、真由は深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。そして、ゆっくり目を閉じて、精神を統一する。
青い潮騒が聞こえる。人魚は大海原を泳いでいた。今日は八重山の辺りだ。潮の匂いでどこを泳いでいるのか、彼女にはだいたいわかる。好奇心旺盛な彼女は今日もとびうおのように跳ねながら、見事なゆるいウェーブの金髪を陽光に輝かせる。少し落ち着けて、遠い水平線を眺める。船の汽笛が遠くに響いていた。豊かな珊瑚礁は色とりどりの幻想的な世界を描き、見事な芸術作品に仕上がっている。見慣れたとは言え、いつ見てもすばらしいものだった。もう一度もぐって、潮の流れに逆らいながら陸地に近づけば、おそろいの運動着をきた50人ほどの少年達が猛然と浜辺を走り回っている。
「用意、行け!」
若い、がっちりした身体の少年が黄色い旗を振り上げた瞬間、4、5人の頭を丸めた若い青年達がいっせいに走り出した。50mほど走り抜けた先にはまた頭を丸めた青年が時計のようなものを持って立っている。一体何をしているのか、彼女にはさっぱりわからない。
「こら!スタートが遅いぞ!それじゃ牽制アウトを取られるぞ!」
指導教官の厳しい声が飛んでいる。少年達は汗にまみれながら、必死でダッシュをかけている。どの子も顔は日に焼け、真っ黒に焦げている。海がこんなに近いのに、どうしてみんな海で泳いだりしないのかしら…彼女にとって、それは不思議な光景だった。砂浜にそって泳いで見ると、一人の老人が海に足を浸しながら腰を下ろしていた。頭は見事に禿げ上がり、丸みを帯びた頭のフォルムが見事に太陽に映えている。
「およ?人魚姫とは珍しいこともあるっちゃのぉ。」
老人は笑って言った。
「こ、こんにちは。」人間に声をかけられることに慣れていない彼女は少しはにかみ、肩をすぼめた。「用意、行け!」という、さっきのかけ声がこちらでも聞こえてくる。人魚の彼女は思わず声のほうに顔を向けてしまった。
「おぉ、那覇東高校の野球部の練習じゃよ。」
「なはひがしこうこう?やきゅうぶ?」初めて耳にする彼女にそれは戸惑い以外の何物でもなかった。
「野球というスポーツがこの沖縄では大人気でな、あの子達はその野球をするんじゃよ。」
「やきゅう?」
「このボールを相手に打たれんように投げるんじゃ。これがピッチャー、そして打ってはこのベースと呼ばれるダイヤモンドの上を走るんじゃよ。右から一塁、二塁、三塁とな。打ったボールがこの塁に戻らないうちにベース間を走り抜けなければならない。じゃないとアウトになるんじゃ。それから外側にはライト、センター、レフトという三人の番人がおってな、この3人に売ったボールをバウンドせずにキャッチされてもアウトなんじゃ。」
「難しそう…。」
「そうじゃのう。やる側も見る側も奥が深くて楽しいスポーツなんじゃ。沖縄の人間はみんな野球が大好きなんじゃよ。」
「へぇ…。」人魚は目を輝かせた。人間の世界にはこんなに面白いものがあることを初めて知ったのだ。後ろを振り返れば、ボートが一艘、通り過ぎていった。
「あれは?」
「ボートじゃよ。」
「ぼーと?」
「あぁ、わし等は人魚のように泳ぎ続けることはできんからのぅ。ああやってボートで海の上を移動するんじゃ。」
「人間って本当にいろんなことを考え出すのね。」
「まぁ、いいことばかりじゃないがのう。」
老人の言うことに小首を傾げつつも、両親に人間は野蛮だ、忌々しい存在だと聞かされ、育ってきた彼女だが、初めて知る人間の一面に心躍らせた。燦々と太陽が照りつけていた。もう一度、走り込みをする野球部の練習風景に目をやる。でもそこに、あの男の子はいなかった。少しつまらなさそうに、彼女は老人に礼を言うと、八重山の浜をそっと後にした。