第1章:砂の揺りかご
「世界をどう見るかは、自分自身が決める」
過酷な現実(砂漠や戦争)の中でも、想像力と信念という「物語の力」を持つことで、人は暗闇の中に光を見出し、歩き続けることができるのだろうか……
初投稿です。短編ですがよろしくお願いします。
※この作品は小説家になろう、カクヨムで同時掲載しております。
空は、不吉なほど濁った朱色に染まっていた。
アミラの耳に残っているのは、逃げ惑う人々の叫び声ではない。炎が建物を食らう際の「ミシミシ」という、巨大な怪物が骨を噛み砕くような音だ。つい数時間前まで、そこには彼女の日常があった。窓辺の水差し、母親が焼いたパンの匂い、学校で習ったばかりの詩。それらすべてが、いまや黒い灰となって、熱風とともに空へと昇っていく。
「アミラ、止まってはいけないよ。前を見るんだ」
祖父の掠れた声に、アミラは弾かれたように顔を上げた。街の境界線、ひび割れた石壁の陰。祖父の掌はひどく熱く、そして壊れた時計のように小刻みに震えていた。彼の呼吸は砂を噛んだ歯車のように重く、一歩進むごとにその命がこぼれ落ちていくのがわかった。
二人は、崩れかけた壁の影に身を潜めた。祖父は力なく壁に背を預けると、震える指で首にかけた紐を解いた。その先には、涙の雫のような形をした、一つの琥珀が揺れている。
「これを……持っていきなさい」
アミラの小さな手に握らされた琥珀は、夕陽を吸い込んで、冷たい蜂蜜のような輝きを放っていた。
「これはね、木が流した涙が長い時間をかけて宝石になったものなんだよ。ほら、中に小さな蝶がいるだろう? この子は数千年も前から、ずっとこの中で平和な光を抱きしめて眠っているんだ」
祖父の節くれ立った手が、アミラの頬を優しく撫でた。その手からは、かつての仕事場と同じ、懐かしい木の粉の匂いがした。
「もし、世界が暗闇に包まれて道が見えなくなったら、この蝶を光にかざしなさい。大人の言葉を信じるな。地図も信じるな。お前の中に住む、蝶の羽ばたきだけを信じるんだ。西へ行け。西には、この光が導く『黄金の国』がある……」
それが、祖父の最後の言葉になった。彼の瞳から光が消え、繋いでいた手の温度が、砂漠の夜気に吸い込まれていく。アミラは叫ぼうとしたが、喉は砂を吸い込んだように乾き、音にならなかった。
一人になったアミラは、祖父の亡骸に一度だけ額を合わせると、夜の帳が下り始めた砂漠へと踏み出した。
後ろを振り返れば、故郷が巨大な篝火のように燃えている。前を見れば、月明かりさえ届かない、深い闇の海だ。恐怖で足がすくみ、膝が震えた。
その時だった。
握りしめていた琥珀が、ふわりと、心臓の鼓動に合わせて発光した。
琥珀の奥深く、閉じ込められていた小さな蝶の影が、月の光を反射して、砂の上に細く、眩い黄金の糸を引いたのだ。
「……行かなきゃ」
アミラはその光の糸を追いかけるように、最初の一歩を踏み出した。サンダルの中に砂が入り込み、足の裏を擦る。けれど、彼女の瞳には、冷たい死の砂漠ではなく、蝶が舞い降りるたびに砂粒が黄金に変わっていく、不思議な道標が映り始めていた。
アミラが砂漠の冷たい夜に震えていると、握りしめた琥珀のぬくもりが、記憶の扉をそっと押し開けた。
それは、戦争の足音がまだ遠い雷鳴のようにしか聞こえなかった、去年の夏の終わりのこと。
祖父は腕の良い木彫り職人だった。彼の仕事場には、いつも削りたての木の香りと、窓から差し込む午後の柔らかな光が満ちていた。
「アミラ、この石をごらん」
祖父は作業の手を止め、アミラを膝に乗せると、首から下げた琥珀を光にかざして見せる。
「これはね、木が流した涙が長い時間をかけて宝石になったものなんだよ。ほら、中に小さな蝶がいるだろう? この子は数千年も前から、ずっとこの中で眠っているんだ」
アミラが小さな指で琥珀に触れると、石は太陽の熱を吸い込んで、まるでお日さまの欠片のように温かかった。
「もし世界が暗闇に包まれて、道が見えなくなったら、この子を光にかざしてごらん。木々が太陽を求めて枝を伸ばすように、この蝶も必ず光のある方へ導いてくれる。この琥珀の中には、どんな嵐も消すことのできない『永遠の午後』が閉じ込められているんだから」
祖父はそう言って、アミラの頭を大きな、節くれ立った手で撫でた。その手にはいつも木の粉がついていて、少しだけくすぐったくて、何よりも安心できる匂いがした。
「アミラ、お前は光の子だ。どんなに夜が深くても、お前の中にある光を消してはいけないよ」
その時の祖父の穏やかな微笑みと、窓の外で揺れていたオリーブの木の葉の音。
……今、砂漠の砂を噛むような風の音の中で、アミラはその「永遠の午後」の記憶を必死に手繰り寄せる。
祖父の温かい手はもうない。頭を撫でてくれたときの木の香りも……
けれど、アミラが琥珀を強く握りしめると、石の奥で眠る蝶が「大丈夫だよ」と囁いたような気がした。彼女は、頬を伝う涙を拭うことも忘れ、琥珀の奥に見える小さな黄金色の宇宙をじっと見つめ続けた。
ここまで読んでいただきありがとうございました。
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