第17話「嬉しくて、ムカつく」
朝。日曜日の光は容赦なくカーテンを透かして寝室を白く染めた。
手はいつの間にか離れていた。レイはベッドの反対側を向いて寝ている——というより、半分落ちかけていた。長い足が毛布からはみ出している。
時計を見れば午前十時。静かだった。珍しく、女の連絡も来ていないのかスマホも沈黙している。
湊が起き上がるとマットレスが軋んだ。
その振動でレイがもぞりと動く——が、目は開かない。毛布を手繰り寄せて丸まった。
「んー……あと五分……」
返事を待たずにまた寝息に変わった。銀色の短髪が枕に散らばって、朝日を受けてきらきら光っている。
普段の王子様然とした姿からは想像もつかない無防備さだった。口が半開きで、眉間にうっすら皺が寄っている——何か夢でも見ているのか。
キッチンから冷蔵庫の低い唸りだけが響いている。
湊は静かにベッドを離れた。
リビングに出ると朝日が窓から差し込み、昨夜のクッションがそのままソファの上に残っていた。テーブルには食べ終わったピザの空箱——朝の景色は夜とはまるで別物だった。
冷蔵庫を開ければ卵が四つ、ベーコンのパック、しなびかけたレタス。買い置きの食パンが二袋。
トースターにパンを入れる小気味いい音。フライパンに油を引く音——日曜の朝が動き出した。
卵を割る音、パンの焼ける匂い。シンプルな朝食が形になっていく。
そのとき、スマホが震えた。リビングのソファに置きっぱなしのレイの端末。通知音ではなく着信——画面に表示された名前は「美月」。
三コール、四コール。やがて留守電に切り替わった。
直後にLINEの通知音。「おはよ〜昨日の続き今日しない?」
寝室からは相変わらずレイの寝息。何も知らない。
スマホはまた光った。「ねえ〜起きたら電話して」
パンが焼けた。チン、という音。
寝室のほうで布団が擦れる音。ようやくレイが起きた気配がした。
のそのそとレイがリビングに現れた。寝癖だらけの銀髪、だぼだぼのTシャツ。目が半分しか開いていない。
髪を掻きながら椅子にすとんと座った。
「……いい匂い」
テーブルの皿を見て目をしばたたかせる。焼けたトースト、目玉焼き、ベーコン。
フォークを持って食べ始めながら。
「キミが作ったの?」
「そうだよ」
「ふーん」
素っ気ない返事。しかし食べるペースは早かった。
そのときレイの視線がソファの方へ流れた。自分のスマホが光っているのが見えたのだ。
「レイ」
「なに」
「僕、束縛気味だったかも。ごめん。気をつけるよ」
フォークが止まった。
一瞬、空気が変わる。
「は?急になに」
「昨日の通知、気にし過ぎだったのかなって」
レイはしばらく黙っていた。
頬杖をつく。
「気をつけるって何。我慢するってこと?」
「束縛って嫌がられるじゃん」
湊は目を逸らした。
指先がテーブルを無意味に叩く。
「レイも友達と飲みに行くくらいあるよね」
舌打ちが落ちた。
椅子の背にもたれて腕を組む。
「束縛なんかされてないし。勝手にそう思ってるだけでしょ」
「うん、嫌われるかと思って」
「嫌う?」
レイの眉がひそまる。
「ボクがキミを嫌うわけないじゃん」
さらっと出た言葉だった。
だが、その重さに本人は気づいていない。
立ち上がってスマホを掴み、ソファに放り投げる。
「めんどくさい話やめ。冷める前に食べて」
「ごめん、そうだね」
朝食は静かに終わった。
レイはソファでだらだらしていたが——スマホに手を伸ばさなかった。
テレビをつけながら。
「今日どうする」
「映画行こう。お詫びに何でも奢るよ」
「何でも?」
「うん」
レイが鼻で笑う。
「ほんとキミ変だよね」
だが断らなかった。
――――――――――
駅前のシネコン。日曜で賑わっている。
「あれがいい」
レイが指差したのは話題のアクション映画。
チケットを買い、ポップコーンとドリンクも購入。
シアターに入り、席に座る。
爆発音。銃撃戦。スクリーンが光る。
三十分ほど経った頃。
レイの手が、そっと湊の膝に置かれた。
何も言わない。
ただ、指が絡む。
ぎゅっと力が入る。
クライマックス。
エンドロール。
照明が戻る。
「まあまあだった」
そっけないが、満足そうだった。
――――――――――
フードコート。
「腹減らない?」
「どこか行く?」
「あそこでいい」
ハンバーグ専門店。
レイは一番高いメニューを即決した。
食べながら。
「ねえ」
「?」
「さっきの話」
ナイフの音が響く。
「束縛のやつ」
真っ直ぐ見つめる。
「キミが我慢すんのは違う」
「僕の自業自得だよ」
「それ言うのやめて。ムカつく」
低い声。
「ボクが変えなきゃいけないことでしょ、それは」
沈黙。
「もうこの話いいよ」
レイはそれ以上言わなかった。
――――――――――
食後。
「今日を楽しもう。何でも命令して」
「命令?」
「うん」
レイがにやっと笑う。
「じゃあ今日一日、“レイちゃん”って呼んで」
一瞬の沈黙。
「……ダメージないし」
「面白い?レイちゃん」
フォークが落ちた。
耳が真っ赤になる。
「……やっぱ今の無し」
――――――――――
その帰り道。
「レイくーん!」
美月が駆け寄ってきた。
甘い声。笑顔。
「LINE返してくれないから心配しちゃった!」
そして湊に気づく。
「あ、湊くんも一緒なんだ〜」
「レイの友達?」
「うん、友達!」
空気がわずかに歪む。
美月が腕に触れようとした瞬間。
「ごめんね、僕のレイだから」
空気が止まった。
美月の笑顔が固まる。
「あはは、冗談きついなぁ」
「あはは、冗談じゃないよ」
目が笑っていない。
「じゃあ、お邪魔だったね」
去っていく背中。
一瞬振り返る目には、明確な敵意があった。
――――――――――
静寂。
「さっきの」
「なに?」
「人前で言うなよ」
「ごめん、苛ついて」
レイが足を止める。
「なんで?」
「勝手だから」
「勝手じゃないでしょ」
真剣な目。
「キミ、いつもそう」
しゃがみ込む。
「怒ってない」
ぽつり。
「ボクが怒る権利ないし」
「あるよ」
レイが顔を上げる。
「怒っていいよ」
沈黙。
そして。
「……キミに“僕の”って言われて嬉しかったの、ムカつく」
「どういうこと?」
「わかんないならいい」
「忘れないよ」
レイの拳が震える。
「ボクだって——キミのこと……」
言葉が出ない。
髪を掻き乱す。
「——キミだけだよ。こういうの」
そう言って、額を押し付けた。
人目も気にせず。
「……人見てる」
「帰ろっか」
小さく頷く。
――――――――――
夜。
ベッドの上。
「今日、楽しかった」
「そうだね」
「ねえ」
「?」
「今日は——ここにいて」
「うん」
体を寄せる。
「あったかい」
小さな声。
静かな時間。
やがて眠りに落ちる。
「……明日も、こうして」
「うん」
返事を聞く前に、レイは眠っていた。
無防備な寝顔。
ただの、二十歳の女の子の顔。
スマホが一度だけ光る。
美月からのLINE。
——既読はつかなかった。




