green grass
箸休めです
「え? いや、もうメルクリオ様にバレてるし。今からボートが帰ったって怒られるのは決定だからさ」
一緒に怒られてよ、と、漏斗を取りつけた乳鉢めがけ卵を割り入れながらコーネリアスは笑った。
大教室での講義中、隣の友人と顔を見合わせて、くつくつと声をひそめて笑う背中が好きだった。分厚い教本を席に立てて読みこむふりをしながら、気付かれないようにちらちら盗み見ていたっけ。あの人が師匠の研究室で、領主家の姉弟と同じように調剤器具で朝食を作っているなんて、何度でも新鮮に感動してしまう。
漏斗の脚から卵白が落ちきるのを待って、少年は乳鉢を新しいものに差し替える。黄身の抽出の仕方が完全に分離実験だ。鍋からすくった熱いエールを混ぜて溶いたりする手癖は厨房の見習いみたいで、生きていく中で身につけてきたんだろうなと思う。
「ハリエットは干し葡萄食べれる?」
「大好き!」
天井近くの小引き出しから香辛料を取り出していたハリエットは、風魔法を停止し音もなく床へ降り立った。瀟酒な陶器の小壺をいくつか抱え、ふんわりとした生成りの裾を翻して小竈に歩み寄る。
動きに合わせて、胸のすぐ下で結んだ象牙色のサッシュリボンがひらひらと揺れた。楽なのに私的な来客の訪問ぐらいは受けられる、裁縫室長アルケ謹製・お気に入りの一着だ。
裁縫室を辞し故郷リベルタに戻った針子ペリーヌからの手紙にあった、かの国の王統の女性のみが身につける宮廷服から着想を得たものだった。「受胎告知」の聖母の衣装を模したという腰高仕立てのラインは、領主館にその情報をもたらしたアルケ本人も全く知らないところで、いつの間にか爆発的な人気を得ていた。若き日の落馬事故の後遺症が未だ残るというヌーボルニュ公アンヌに、タリスカルの王室仕立て屋が贈った一般参賀向けのドレスが流行のきっかけである。
最新の絵姿を見て、さしもの(服に興味のない)ハリエットも感嘆のため息が出た。
成人した子が三人もいるとはとても思えない、妖精のような佇まい。トゥニカのようなゆったりとしたラインのドレスは、よく見ればシルクなどの薄く上質な布を重ねた繊細なドレープ構造になっている。胸元を幅の広いサテンのサッシュで軽くまとめ、ヌーボルニュの象徴であるワインレッドで染め上げたシフォンのショールを肩にかけていた。サッシュの色は目の覚めるようなパッヘルベルクの紺碧だ。
高位貴族の夫人など、「働かないことをステータスとしている」種類の貴族にはいまだに補正下着で胸を潰して押し上げたり、ウエストを強く絞ったりという拘束具のような様式が流行しているが──爵位や公的地位を拝することが当たり前の女たちはそうもいかない。
アンヌの体現する美しさと機能性、華やかさと軽やかさが同居したアンビバレントなスタイルは、間違いなく女性のワードローブの新たな一画を担うだろう。それだけの説得力があった。
宗教画に端を発するとされ、女権の弱いリベルタの王室で細々と受け継がれていた有職故実を、自立した女性のための革新的な盛装に塗り替えた職人の名をドナート・フエンテという。やや荒くたいが、技能階級にもかかわらず絵姿が出回るほどの美男である。タリスカルの国王夫妻に見習いの頃から仕え、シーナ王女とも親類縁者のような気安い間柄だとか。
王位継承権を持ち、今や即位すら望まれている王女の仕立て屋が、聖国随一の大領主であるヌーボルニュ・ド・アンヌ、通称“富裕公”に贈った希望のドレス。釣鐘状の優雅な花のシルエットになぞらえて、機に敏な高位女性の間で「ガウン・ラプンツェル」と呼び慣らされている。
母と婚約者の間に、こんなに美しい交歓が成立しているというのに──あのストーカーの頭の中はどうなっているのだろう。さっさと正気に返って結婚して欲しい。沿道の人混みの中までなら祝福に行くのに。……
「ハリエット?」
「はいっ?」
スパイスの壺を抱えたままボーッとしていたハリエットは、「大丈夫?」と呼びかけられて慌てて我に返った。心配そうに覗きこむコーネリアスの傍らで、器用に後ろ脚で立ったボートが「クルルゥナン?」とやっぱり心配そうに声をあげた。
なにこれかわいい。かわいすぎる。猫語なんかカケラもわからないけど、確実に彼の言いたいことはわかった。「どうした? 大丈夫か?」だ。
「ごめんなさい! ボーッとしてたわ。わっ、おいしそう!」
カラフルな錫釉陶器の耳つき鍋で、白パンの残りを煮詰めたビール粥がふつふつと軽く泡を立てている。差し出されたスパイスの壺の中からシナモンとナツメグを抜き取った少年は、慣れた様子で目分量をぱらぱらと摘み入れた。「残り物整理にはいい」と身も蓋もないことを言って笑う。うーん、生活者の目線。
「私も料理はするけど、たぶんコーネリアスのほうが上手だわ」
「そう? ハリエットのスープもうまかったけど」
「野営で憶えた料理だから、いまいち大味なのよねえ……」
「そんなことないと思うけど、気になるなら練習すればすぐ上手くなるよ。あれは実験だし調合だと思う」
鍋を覗き込む少女の背後で、ぱたぱたと軽い足音がした。背の高い鉢植えの葉の向こうに、人影が見え隠れする。程なく火の前に戻ってきた少年は、いくらか摘んできた葉を手に持っていた。たんぽぽの葉、パセリ、チャイブ。ほろ苦くて香り高い、間違いのない青物たちだ。
ナイフで軽く刻んで、耳つき鍋にたっぷりと散らす。
「こんなもんかな。香りがすぐ飛んじゃうから、食べよう」
「そうね、いただきましょう!」
「プルルルゥ」
「そういえばおまえ、何食べるの? 普通の猫とおんなじでいいのか……?」
green grass/Meadow & 田辺玄
リベルタの宮廷服
https://ncode.syosetu.com/n7462km/98/
富裕公アンヌ
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ハリエットの野営スープ
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