奇跡は
久しぶりに様子のおかしいハリエットを書けたな
チリッ……
漏斗の傍に置かれた、東方由来の香水瓶もかくやという精緻な装飾の携帯時計がⅢを示した。
蒸留装置やハーブバックが無造作に置かれた机の片隅で、ハリエットは手紙を書いている。いろいろな感情が渦巻いて、とても眠れそうになかったからだ。
壁灯の芯が、ぱち、ぱち、と不規則に小さな破裂音をあげる。
不意に足元にふさふさしたものが当たった。いつの間にか窓辺の丸テーブルを降りてきた女神の大猫だ。普通の猫みたいに、額を擦りつけながら脚の周りをぐるぐるしている。分厚い毛皮越しでもほのかに温かいほど体温が高い。
「どうしたの、ボート」
クローゼットの奥で眠っている人を起こさないように、小さな声で話しかけた。
短い接触で何度か試してみたけれど──ハリエットからの発信は、声に出して唱えないと届かないようだ。コーネリアスと話しているときは、発声を必要としていないように見える場面がいくつもあった。異教の聖女に応えてやってきたものの──彼が言う通り──この子が今ここにとどまっているのは、また別の神話の要請によるものなのだろう。
どうしても主従関係がつきまとう教会の教えとは違い、北の地では草木や動物たちと対等な友誼を結ぶのだと聞いたことがある。
〝ボート、女神さまの山に帰った方がいいか〟
「どうして? そんなことないわ。ずっといてくれていいのよ」
〝ほかの動物は帰ったって、コーネリアスが言ってた〟
心なしかしょんぼりして言うので、変な声が出そうになる。何これかわいい。まだ子供なりに、人間たちに言われたことをひとりで考えていたらそうなってしまったのだろう。かわいそうなことをしてしまった。
「そういう意味じゃないと思うわ」
人間も動物も同じだなあと思う。気持ちを伝えることには不断の努力が必要なのだ。怠ったつもりはなくても、まずくするとこうやってこじれてしまう。
なだめるように声をかけながら、ハリエットは三毛のまるい背中を撫でた。そういえばコーネリアスの猫の触り方は何だか手慣れていたっけ。リュベージュのあの小さな町屋で、猫と暮らしていたことがあるのかもしれない。
知らないことがたくさんある。
「ボートは私の祈りに応えて降りてきてくれたのよね」
〝槍笛芹は人間が助けを呼ぶときの草。船に飾ってあれば、大時化の時は女神さまも艝に乗って助けにいく〟
「そうなのね。低地では“天使の根”っていうの。ひどい流行病の時とかに薬にするのよ」
〝病気。女神さまの猫は呼んでなかった?〟
「いいえ、違うわ。あなたを呼べるなんて知らなかったの。助けにきてくれてありがとう」
撫でているうち、いつの間にか大猫は床に宝箱座りしていた。ふさふさの胸の毛に隠れた前脚をじっと見つめるようにして、悲しそうに言う。
〝でもハリエット、怒られる。知らない神様の使いを呼んだから〟
「あら、私はいっつも怒られてばっかりだから全然大丈夫よ。慣れちゃった」
悪い子なの、とおどけてみせると、大きな猫はヒゲをぴくぴくさせて、「クルルルゥ」と鳩みたいな声で鳴いた。
少しは納得してくれただろうか。平べったくなった額を掻いてやると、気持ちよさそうに目を細める。
「コーネリアスはね。フローネ様の眷族を呼んだのは私だけど、その眷族が山に帰らないのは自分の友だちだからなんだなって知りたかっただけなの。私がひとりで大人に怒られなくてもすむように」
どういうこと? と目を丸くするボートに、コーネリアスから聞いたクラウスの兄妹のとのことを話して聞かせた。褒められる時も怒られる時もいつも一緒だった。誰かひとりが悪いわけでもない時に、ひとりにすることは決してなかった、と。
「そもそも友だちが助けにきてくれただけなのに、何が悪いのよ! って私は思うけどね。だから負けないわよお」
ぐっと拳を構えてみせると、大猫は嬉しそうにシャッと立ち上がった。しっぽをピンと立てて、四本の脚を踏ん張る。負けない!
笑ってしまった。とっても心強い。
あんなに悪意と大人の都合に晒されて生きてきた人が、今なお奇跡みたいな善性を保っているのは、ひとえに傍にいてくれた存在のおかげだとハリエットは思っている。ギルドの魔法使い、天文台の研究者、職人街の住人──信じられないくらいの強くて、めちゃくちゃで自由な、愛情深い人たち。
この子もその力のひとつになってくれるといい。そう思った。天からやってくるものはいつだって気まぐれだ。力になってくれるなら、これほど幸せなことはない。
〝女神さまの猫は、幸運のしるし! だいたいのことはうまくいく!〟
「幸運の? なんだろ、何か祝福でもあるのかしら……」
⚸
びっくりするくらいよく寝てしまった。
──えっ!?
上質なベルベッドの長椅子の上にがばりと起き上がる。すばらしくいい天気だ。南向きの大開口から、冬の湖面を反射する朝の光が燦々と降り注いでいた。眩しい!──
毛布代わりに抱きしめて眠った大きな猫は、椅子の上に鯰みたいに横たわって、まだピーピーと平和な寝息を立てている。この子と背もたれに挟まれるようにして眠っていたらしかった。何ならハリエットのスペースの方が狭い。ものすごくあったかい。
肘置きの上に立ててあった装飾過多な時計を手に取る。ボリジの花の色に染まった時結晶はⅧを指していた。
昨夜というか今朝──父に宛てて認めた長文のお気持ち目録を厳重に指名して飛ばし、邸の者たちにもいくらか報せを送ってから眠った。5時半は回っていたと思う。3時間も寝ていない計算だけれど、そこは回癒の長椅子。爽快そのものの寝覚めである。
──香炉?
時計のすぐ横に、瀟酒な陶器の携帯香炉が置いてあることに気づいて、ハリエットは改めて辺りを見回した。明るい陽光の中に、よく見ると雲母片のきらめきのような魔法の名残がある。
夢封じに使う計算魔法の鱗粉だった。月桂樹の涼やかな香りがふわっとたちのぼる。
心配症なんだから! ──両手で顔を覆って、倒れ込んだ少女はじたばたと衝動に耐えた。朝からときめきすぎて死ぬかと思った。
魔女の水車小屋は建物自体に強い認識阻害の魔法がかけられた、ちょっとした隠れ家である。「黒い本」で一時的に封を開けても、すぐ塞がれるようにできている。類似の仕組みがこの一帯には多くあり、魔女の湖に籠っている限りはあのストーカーの魔の手も気にしなくていいようになっているのだ。私これ話したわよね?
すー、はー、と深呼吸して動悸を落ち着かせると、生活魔法で身支度を整えた。誠実な婚約者のことだから、夢封じの月桂樹を焚いた理由にはもちろん、未婚の令嬢の無防備な姿を見るわけにはいかないという動機もあるはずだ。野営の時なんか天幕で雑魚寝してるし、そんなこと気にしなくていいんだけどね! 好き!
「あ、起きたんだ。ハリエット」
おはよう、と、火にかけた片手鍋に向かっていた少年が眠そうな顔で振り向いた。色の食い違った目を眩しそうに眇めて笑う。
明るい陽の下で見ると、目元に少し泣いた痕がある。「おはよう」と努めて胸のすくような挨拶を返して、ハリエットはベルベットの長椅子を弾むように降りた。
「朝ごはん? 手伝うわ。お腹空いちゃった」
奇跡は/コトリンゴ
夢封じの計算魔法
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幼なじみとしてのクラウスの兄妹
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