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魔法使いの常識は世間一般の非常識
※児童虐待に類する表現があります
声に出た、と思った瞬間、ギッ!と錐のような眼光が突き刺さった。この部屋で唯一、コーネリアスの存在を認識しているだろうアンドリースの一瞥だ。
声を出すことが許される空間なら、それこそ「おい!」と言いたいところだろう。美少年の真顔、迫力ある。
いい人だなあと思う。本当にいい人だ。心から心配してくれているからこその怒りだからだ。こんな胸中を知られたらいよいよ本気で怒られそうなので、申し訳なさそうな顔をして小さくなっておく。
クラウディア3世には──おそらく──過去に一度だけ対面したことがある。父なる人に連れられて、庶子の認知のための手続きを踏んだ時のことだ。間違っても気づかれてはいけない立場だろう、と気遣ってもらっているところ恐縮だけれど──絶対にそんなことにはならない自信がある。
自慢じゃないが、背景に溶け込むのは、めちゃくちゃ得意なのである。もしかすると全ての魔法の中で一番得意かもしれない。怒られたくないのでしないけれど──たぶん今彼が記録席を立って、グステンの真横に腰かけてみせたところで、魔法抵抗を装備しているアンドリース以外は誰一人として気づかないだろう。
議題はシュピーゲル家の家宰による事態の過少報告に移っていた。そんなことだろうと思っていたから、特に感想はない。長旅の疲れを労るような口ぶりで、10歳の子供に平然と薬物を盛ってきたあの家宰である。あの家と夫人に忠誠を誓っているのだろう。本家の方かもしれないが。
インクの蔓が、音に乗ってするすると紙の上に降りてくる。
高音域は真鍮壜の青みがかった黒インク。
低音域は陶器壜の重たい黒褐色インク。
書き分けられるのはそれだけだ。人の声も物音も、見境なく文字になっていくのが、芝居のト書きのようで結構面白い。
もちろん、そのまま信じたわけではない。
人を遣って調べさせたら、すぐに露呈する程度のお粗末な隠蔽だ。
・椅子の軋み
・擦過音
なんと言うか……、痛み入ります。
⚸
思い出すことがある。
ようやく陽がすっきりと昇りきった、10時少し前のことだ。
昨夕のうちに隣町に到着していた一同は、朝一で内廷のあるエーラフガングに到着した。
聖燭祭の同時点火を正午に控え、閑静な半民半官の街もどことなく浮き足立って見える。
すでに成立していた都市の上に政治機能が乗った多くの政都と違い、エーラフガングはビネンホフのためだけに発展した特異な宮廷地である。「ビネンホフがある」という点以外に特段の産業も交通の旨みもなかったため、この街で働く官の生活を支えるためだけの生態系として発達している。
長く都市権を持たず、これだけの規模を誇りながら、行政区分上はいまだ「村」にあたる。代理伯──ここではザウスナ家──が城壁で街を囲うことを厭うたため、などと、かの家の豪放磊落な気風を知ると今ひとつ否定しづらい説が真しやかに囁かれている。
「僕、教区の方に話通してきます。なんかちょっと嫌な予感がするので」
驚異的な回避スキルを発揮して、アンドリースが早足に向かったのは、ビネンホフの目の前に建ち並ぶ地元教区の修道院教会だった。
使節など、出張の受け入れも多い宮廷地である。「宿ぐらいいくらでもあるんじゃないか?」と油断していたグステンが、まさかの式典出席後に呼びつけられるという衝撃の後、有能な従者に手厚く礼を述べていたのはあとあとの笑い話だ。
「ショックだ。今日はもう完全に自由時間モードでいた……」
一度動力が切れると再起動に時間がかかるというグステンが、子供のようにしょぼしょぼしているものだから、コーネリアスは笑いを嚙み殺すのに苦心しなければならなかった。
おそろしく有能なのは疑いようがないのに、なんとも憎めない人だ。しっかりしているようでいて、意外と浮き沈みが激しいところは、父娘でそっくりだなと思う。
それにしても──夕方まで、中途半端に時間が空いてしまった。「せっかくだから、街を少し歩いてみますか?」と領民の立場から提案すると──主従はおろか馬子や護衛の兵士まで、揃って黴でも食ったような顔をするので、今度こそ笑ってしまった。
「笑ってんなよ。笑い事じゃないんだよ、アンタのされてきたことは」
腹に据えかねる、という顔で、アンドリースがそんなことを言った。そうかな。そうなのかもしれない。自分の感覚にはない色の感情だけれど、純粋な厚意であることはわかる。
「こんな純粋培養の宮廷地は今どきそうないからね。だいぶ興味深い街ではある。でも、大丈夫かい。君にとっては良い思い出がない街だと思っているけれど」
「うーん……」
それはそう、それはそうなのだけど。返答に窮してしまう。
グステンが言いたいことは、文字通りの意味ではない。「良い思い出がない」というのは、「悪い思い出しかない」の婉曲表現だ。ろくな記憶がないことは間違いないのだけれど、楽しかったことが全くなかったかというと、そんなこともないのである。
「……弟に、正嫡の子に勉強を教えることがあって。その時間は、嫌いではなかったです。街自体も面白いですよ。本当にビネンホフにかかわる人しか住んでいないので。帳場本に強い製本師とか、法務書式、帳簿見本だけを売る店とかあって」
「なんでそれで成り立つんだよ……」
「取次が店を構えてるみたいな感じだな……」
「珍しいですよね。僕も他ではあまり見たことがないです。よければ、書籍街を案内させてください。この街に魔導素材の店はないんですけど、インクを極めすぎた結果、クラーケンのインクを置いてる店とかあるので」
「「「「クラーケン!?」」」」
ほとんど喋っているところを見たことがない、寡黙な馬子まで揃って素っ頓狂な声を上げるのが、喜劇のようだったことを憶えている。
そうして、早く早くと押し出されるように行き着いた書籍街の最果ての店──それが「灰雁亭」である。
10:00/The Vegetables
あの家裁
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