TL小説家
キーボードを打つカタカタとした音が、振動音に阻まれた。とびぃ菜はキーボードの横手で振動するスマートフォンをチラッと眺め、僅かに躊躇った。
「……ほっといたら諦める……わけないわな。シロやもんな」
着信名を確認して深くため息をつき、オフィス用にも使われる、キャスターのついた椅子から立ち上がった。ちなみにとびぃ菜はこの椅子を『ころころ椅子』と呼んでいる。
立ち上がり、軽く伸びをしてから着信に応える。
「もしもしぃ?」
間延びした声はわざとである。こちとら締め切り前の小説家なのである。着信に出ただけでもありがたいと思っていただきたい。
『遅い、トビー』
野太い声が挨拶もなしに駄目出しをしてきた。
「うっさいわ。締め切り今週やねんで」
今日が火曜日で、締め切りは金曜日。七日どころか四日しかないことに改めて気づき、とびぃ菜は青ざめた。肩まで伸ばした髪を無造作にくくった尻尾が、ふるふると震える。
「あ、あかんわ、あと四日しかない。一日二万文字書けたら余裕やけど、木曜日はバイトで潰れるっ」
正直なところ、一日に可能な執筆文字数は一万文字程度に収めたい。健康な執筆生活のためには。
『バイト代なら出したるからはよ来い』
そう主張してきた声の主に、とびぃ菜は逆上した。
「いきなりバイト休んだら首になるやろ!」
お金の問題ではない。信用の問題である。バイトも締め切りも信用に密接に関わってくるのである。収入はそこから派生する別の問題であるのだ。
『人一人死んでんねんぞ……しゃあない、後輩にバイト行かせるから、今日は出てこい』
一人死んでいるという言葉に詰まりつつも、バイトの代行の手配がついて安心もする。コンビニのバイトといえど、信用は大事であるのだ。
「はよ終わらせてよ?」
窓から射し込む光は温かいが、この秋空は温かいのか寒いのか。とびぃ菜は少し考えてから薄手のコートを羽織った。ジーパンと長袖Tシャツを着ているのだ、充分だろう。充分なはずだ。はずだったのだが。
「……さむっ」
日差しはあるのに風が冷たかった。寒気が南下しているなんてニュースはもちろん見ていない。一瞬戻ろうか迷ったが、締め切りの前には寒さなど無に等しかった。
「--遅いぞ、トビー!」
いつもの待ち合わせになっている谷町線天王寺駅南口改札にたどり着くと、細身の筋肉質な男が立っていた。細身ではあるのだが、首が太い。ぶつかり合ってどつき合う感じのスポーツをやっていたのだろうと思わせる体格だった。
「これが最速やわ」
アパートのある文の里駅からさほど待つこともなく谷町線に乗れたのである。これが最速でなくて何を最速と呼ぶのか。
「ほれ、これが資料や。今から梅田行くぞ。洒落た社食奢ったるから面通しは頼んだ」
「なんなん、それが人にもの頼む姿勢なん」
渡された紙の束を律儀に持ちながら、とびぃ菜は項垂れてその男に従った。
「ほんま、顔も言動も雰囲気も、ホスト崩れのヤクザやわぁ」
とびぃ菜がそう形容した男は、結城史郎。れっきとした大阪府警の刑事である。しかもいわゆる殺人事件などを追う、捜査第一課の刑事なのである。なのではあるが、ごく普通のスーツが戦闘服に見える程度にはガラが悪い。正直、並んで歩きたくはない。特にごく普通のジーパン長袖Tシャツのアラサーにとっては。
「急ぐからほんまはよせぇよ。ほら、谷町線乗るぞ」
とびぃ菜を先導するように歩き始めた結城は、だが驚くほどしなやかな物腰だった。その辺もなんとなくヤクザ臭い。いつでも闇討ちできるような歩き方だな、と思いつつ後を追うのだった。
梅田に着き、高層ビルを駆け抜ける風の冷たさに、とびぃ菜は首を竦めた。
「さっむ! ほんまさっむ!」
思わず地団駄を踏んだとびぃ菜に、結城は首を傾げた。
「いや涼しいやろ? さっきまで電車で暑かったし」
怪訝そうな姿に、言いたいことは山ほどあったが口を噤んだ。代わりに案内を乞う。
「で、どこ行くん? はよ行こ?」
早くビル内に入りたい一心で、とびぃ菜は『この脳筋が』とか、『夏場は近づきたない男ベストワン』とかいう言葉を飲み込んだのだった。
結城が案内したのは、東梅田から地上に出て、十分ほど歩いた場所にあるビルだった。とびぃ菜がかつて勤務していたのと同じような、一流企業にありがちな機械臭のするビルだった。予め手配はしていたらしく、受付で社員証を渡された結城はそのうちの一枚をとびぃ菜に渡した。
「ん」
温かいビルに肩の力を抜いたとびぃ菜は、素直にそれを受け取った。ここまで来た以上、物静かに振る舞うほどの知性はある。もちろん。
エレベーターで十階まで昇ったその場所に、社内食堂はあった。
「写真のやつらは十二時頃来るはずやから、先に飯取ってこい」
「了解」
渡された写真と、それらの名前は頭に入っている。後は実際にこの目で見るだけである。だから今は、この豪華な社食を堪能することに神経を傾けるべきなのだ。
「--食いすぎんなよ」
「うっせぇわボケ」
思わず低い声で返しつつ、スーツ姿の群れに侵入していった。
「うっわ、さすが豪華社食……」
かつて瀕死の形相で貪っていたのと同じようなレベルの食事を眩しげに眺めながら、とびぃ菜はできるだけ原価の高そうな食事を選んだ。つまりはいつもは食べられないものである。値段が問題というのもあるが、作れる気がしないのも大きい。
明らかに浮いているジーパン姿の己を意識から外しつつ、トレイにこんもりと乗せたとびぃ菜は、入口近くの席に戻った。四人席には明らかに堅気ではなさげなスーツ姿の男が一人。なんか嫌だな、と思いつつも結城の隣に腰掛けた。ちょうど入口がよく見渡せる場所でもある。
「……あれ? シロさんは?」
食事はどうするんだと聞けば、呆れた顔をされた。
「なんで刑事が張り込み中に豪華飯食わなあかんねん。後でええわ、後で」
休憩中に摂ると言われれば、はぁそうですか、としか言いようがない。
「ほな先にいただくよ」
遠慮なく手を合わせて食事を頬張れば、一瞬だけ恨めしげな視線を感じたが、すぐに結城は流入する社員達に目を向けた。柱がちょうどいい具合にヤクザじみた結城の姿を隠してくれているので、思ったよりは目立っていない……はずである。たぶん。
っていうか、張り込みがこんなんでいいのか。
「……ほら、一人目や」
牛肉のワイン煮込みを口に入れていると、結城がそう囁いてきた。口の中で柔らかく解ける感触を堪能しつつ、その女性を視る。写真で見た名前は『江崎瑠菜』。
「……あ~……彼氏いるのに不倫してて、賢く遊んで堅実な結婚するねぇ。でも若さと可愛さがなくなって娘に嫉妬して、娘には大っ嫌いなお母さんやったって墓前で言われそうやねぇ……まだ若いから痛い目ぇ見て方向転換できたら違う将来もあるかもしれんけど」
視て読み取った結果を口にすると、結城が頷いた。
「ん、つまり犯人やないわけやな。ほな次待つか」
カニ炒飯を平らげた頃には、五人目が終わっていた。
「あの人海外企業に情報売ってるわ。老後は南の国で優雅に暮らしたいって思って外資に売り込んでるけど、情報搾り取るだけ搾り取られてポイ。会社にもバレて懲戒免職。しょうがなく農業しようとIターンして家庭崩壊、ご臨終な感じやねぇ……あの年やともう後戻りはできへんのんちゃうやろか」
「世知辛い話やな」
とびぃ菜の分析を聞いて適当に頷いていた結城は、やがて一人の男を顎で指した。
「あれは?」
言われてとびぃ菜は一人の男に目をやった。小柄で小太りの男は、機嫌の良さそうな笑いを振りまいている。写真で見たその名前は『後藤裕也』。
口に運びかけた季節のフルーツタルトを皿に戻す。
「……あれや」
さっと後藤裕也から目を逸らす。
「シロさん、帰ろ」
もう視たくない。彼がどうやって被害者を死に至らしめたか、その経緯を物語る顔から意識を遮断する。
「ん」
立ち上がった結城が、後藤ととびぃ菜の間に立って情報を遮断してくれる。細かく、冷たく震える指先を自覚しながらとびぃ菜は、いきなり暗くなったような視界の中を必死に、ビルの出口目指して進んだ。
道頓堀とびぃ菜
小説投稿サイトにTL小説を投稿していたら拾い上げデビューすることになったアラサー。書籍化打診が嬉しすぎた変なテンションのまま、『目立つペンネームにせな!』という勢いでつけたのが道頓堀とびぃ菜。きらきらしい表紙イラストに全く馴染まない作者名が載った見本紙を、見なかったことにする癖がついた。喪女なのでR18描写は机上の雑学……ゆえに、ぬるいと定評がある。王道を直進できる執筆の才能を持っているのだが、本人はもっと尖ったのが書きたいというコンプレックスを持っている(直進してるつもりでも私なんざずんどこ逸れてくのに……ぐぬぬぅ……)。