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1. スタートダッシュ、大失敗

 いつからだろうか。

 美しく散りゆく桜を見ても、何も思わなくなってしまったのは。


 窓を開けて見下ろす街並みの中、ちらほらと咲き誇る桃色の木々を見つめながら、秋本天音(あきもとあまね)は今日も己の不幸を呪っていた。


――今現在私と同じような境遇にある人は、この世にどれくらいいるだろう?

 憧れの高校への入学が決まり、新生活のスタートダッシュを上手く切れるよう春休み中は入念に準備を重ね、いざ迎えた入学式当日……こともあろうに、天音は大風邪を引いた。

 這ってでも行くと床に這いつくばった結果、部屋から一歩も出られずに力尽きた天音は、学校に欠席連絡を入れる母親の声を聞きながらひんやりとした床で意識を失った。そこから熱も簡単には下がらず、結局その週は一度も学校に行くことができなかった。


 真新しい制服に袖を通すことなく早一週間が経過。一週間もあれば、初対面の相手ばかりがいるクラスでも緊張の糸が綻び始め、生徒同士が徐々に近づき出し、「友達」という関係が形成され始めていることだろう。

 入学当初は自己紹介をし合う時間、クラブ活動の説明に関する時間なども設けられている。ただでさえ友人を作るのが苦手な天音にとって、その機を逸することは重大なハンデを背負わされるのと同義だった。

 春休み中はあれだけ楽しみだったのに、今は学校に行くのが怖い。みんなと同じスタートラインに立てなかったこと、みんなと同じ流れに乗れなかったこと。立っていることすらままならない高熱よりも、その「取り残された感」の方が天音にとっては苦しかった。風邪が長引いたのもそのせいかもしれない。


(……いつも、こんなのばっかりだ)

 生まれながらの不幸体質。やることなすことすべてが裏目。自分という人間はきっともう一生こうなのだろうと、窓に反射するしかめっ面の自分を見ながら天音は悟った。

 最近はもうこの表情がしみついてしまって、女子高生なりたてとは思えぬようなシワが眉間につき始めてしまっている。

 天音はからりと窓を閉め、ベッドに力なく寝転がった。自分の体温によって生まれた毛布の中のぬくもりがすっかりどこかに消えてしまったのを感じながら、ベッドと天井の間にある虚空を見つめる。

 もう笑うしかないというステージさえ通り過ぎると、目の前で起こっている事実に現実味を感じなくなり、人はただただ感情を失ってしまうのだ。


――いや、本当は感情が失われているわけではない。感情を切り替えるのに必要なエネルギーを失っているだけだ。

 それは天音がガラにもなく新生活を楽しみにしていたから。

 中学生活のほとんどをこの新生活を希望にして乗り切ってきたから。

 何かを楽しみに思うことなど滅多になかった天音だからこそ、その反動は大きかった。心の支えになっていた「輝かしい日々」を失い、あとに残ったのは波も立たない虚無だけだった。


 熱なんか下がらなければいいのに、このままずっと病人でいたいのに――キリキリとした緊張感が胸を締め付ける。

 今日は金曜日。昨晩を境にやっと体調が快方に向かい始め、現在は微熱程度に落ち着いてきたので、土日を挟んで次の月曜日あたりが恐らく天音の初登校日になる予定だ。

 毛布に顔までうずめ、溜息をつきながら目を閉じる。

 まだ見ぬクラスメイトたちは、今まさに教室で授業を受けているところだろう。入学以来一度も来ていない女子の席を不思議そうに見つめながら。

 どんな子が来るんだろうという、転校生に似た期待さえ持たせてしまっているかもしれない。そこには大したことない、本当に大したことのない地味な女子が一人ぽつんと現れるだけだというのに。

 居場所のない学校になんて行きたくないし、というかもう生きたくない。楽しいことなどない、何ひとつ思い通りにならないこんな世界には、もうこれ以上いたくない。冷たい現実から逃げるようにして、天音は毛布の中にもぐりこんだ。


(……こんなはずじゃなかったのに)

――私の歯車が狂いだしたのはいつからだろう。

 今では桜を見ても何も思わない天音だが、桜に関する思い出がひとつだけあった。

 それは幼い頃。まだ小学校にも上がる前、家族と……そして〝あの一家〟と一緒にお花見に行ったときのこと。


 具体的にどんなことをしたのかまで詳しく覚えているわけではない。ただ確かに自分の中に、「楽しかった」という思い出だけがあり、今でもたまに夢に見るのだ。

 満開の桜の下で、みんなが楽しそうにしていて。

 そこにはちゃんと天音の居場所があって、その隣には……大切な友達がいた。


 ずっと友達だと思っていた。一生仲良くしていくものだと思っていた。

 私のことを一番よくわかっているのがその子で、そしてその子のことを一番よくわかっているのも私だけなのだと、天音は強く思っていた。

 けれど次第に会う回数が減り、会うことが気恥ずかしくなり、やがて億劫になり……今ではもう、その子に会いたいとは思えていない。


 もう私は――あの頃のように輝ける人間ではないから。

 そして、そんな人間になってしまった自分を見られるのが、たまらなく嫌だから。


「こんこん」

「……」

「こんこん……ってあれ、また寝ちゃったの?」

「……起きてる」


 気だるげな返事を聞き、天音の母親が扉を開けて入ってきた。母の早苗は、手でノックをしながら口でも「こんこん」と言う変な癖がある。


「結局、今週はいよいよ行けなかったねぇ」

「……」

「今日も学校に連絡しといたから。熱はだいぶ下がったんですけどって言ったらね、ぶり返さないようにしっかり治して万全の状態になってから来た方がいいって。やっぱりいい人ね、乙守先生」

「……ん」


 天音はもそりと身体を起こし、早苗がトレーに載せて持ってきた水と薬を無言でゆっくりと飲んだ。

 おつもり、という苗字らしいが、まだ顔も知らない担任教師のことを聞かされたところで、天音には何も言うことがない。


「ま、これもいい思い出でしょ。一か月もしたら笑い話になってるわよ」


 早苗は先ほど天音が閉めたばかりの窓を再び開け、入り口のドアも大きく開けて部屋を換気した。窓際に置いている観葉植物の葉を触り、小走りでキッチンに戻って植物にあげる水をとってくる。

 いつまで経っても薬を飲み慣れず、錠剤の一粒一粒を一生懸命流し込んでいた天音は、早苗が土を湿らせ終わる頃にようやく薬を飲み終えた。


「……ねえ」

「ん?」

「向こうって、どうしてるのかな」

「向こう?」

「……楢崎(ならさき)さん家」

「珍しいわねぇ、天音が楢崎さん家のこと知りたがるなんて」

「……べつに。なんとなく」


 早苗はコップを乗せたトレーを持ちあげたが、天音の言葉を聞いて机に置き直した。


「お母さん、なんか聞いてないの?」

「まあね~。今はもう家族ぐるみで何かってこともしなくなっちゃったし……連絡先くらいは知ってるけど。夏希(なつき)ちゃんがどこの高校に行ったかもわかんないのよ。お父さんに聞いとく?」

「……いや、いい」


 天音はぽすんとベッドに倒れ、変なことを聞いてしまったと少し後悔しながら目を閉じた。

 早苗もそれ以上は聞かず、「一応もっかい熱はかっといてね」と言い残して、小さく鼻歌を歌いながら部屋を後にした。


 秋本天音の父……秋本イサオは、お笑い芸人をやっている。

「トマトメイト」というコンビを組み、芸能界でそこそこ長いこと活躍している。


 デビューから長らく下積み期間を過ごし、まだ稼げるようにもなってないうちから早苗と結婚したらしい。ほどなくして天音が生まれ、その頃から徐々に仕事が増え出し、やがてバラエティ番組などにもよく呼ばれるようになっていった。今では毎日のようにテレビに出ている、いわば売れっ子だ。

 そんな父の相方が、楢崎ノリフミ。二人はコンビ仲がいいことで知られ、結婚した時期も似ていれば生まれた子どもも同い年ということで一時期は話題になったそうだ。


 当初は家族ぐるみの付き合いも多かった。母親同士も仲がよく、とくに楢崎家の長女である楢崎夏希(ならさきなつき)と天音は幼馴染で、同じ幼稚園に通っていた時期もあった。しかしトマトメイトの仕事が本格的に軌道に乗るようになり、お互いに住居をテレビ局近くに移すことになって、小学校を入学する際に離ればなれとなった。

 しばらくはそんな中でも、たまに食事する機会を設けるなどして交流は続いていたが、小学校の中学年に上がる頃にはすっかり会わなくなってしまっていた。

 誘われることは幾度かあったが、天音自身が行きたくないと思うようになったのだ。

 その理由を一言で言うなら、「親のせい」に他ならない。


 芸人という、華々しい面はありつつも人からバカにされてしまうことが多い職業。

 幼少期はまだ「天音ちゃんのパパは芸人さん」というそれだけの理由で周囲からもてはやされていたが、小学校に入ってしばらく経つと、天音はそれが原因で周囲からイジられるようになってしまった。


 親がテレビ番組でふざけたギャグを言えば、翌日は「同じやつやって!」とクラスメイトに要求される。親が番組のミニゲーム企画で失敗するだけで「全然ダメじゃん」などと罵られることもある。

 イサオはトマトメイトのボケ担当であるため、番組などでも相方より目立つ場面が多いが、天音は親とは対照的な性格であり、親のギャグを真似するなんてまっぴらごめんだった。

 そういった〝イジり〟が増え出した頃から親が出ている番組を見ることも嫌になってしまい、今ではテレビすら見ていない。


 人を笑わせる仕事というより、人に笑われる仕事といった方がふさわしい芸風。そんな芸人を親に持ってしまったことが天音の最大の不幸であり、あらゆる不幸を招き入れる不幸体質の原因だった。

 そんな環境の中でいかに自分を守れるか苦悩し続けた結果、幼い天音には「周囲を拒絶する」ことしかできなかった。


 話しかけられづらいオーラを常に出し、こちらからも誰かに話しかけることはしない。

 もしも誰かに親について話を振られても、「テレビ見てないから」と即座に突き放す。

 お父さんと違って暗いんだね、などと言われてもグッと歯を食いしばって耐える。

 そうです私は暗いんです、だから私と話してもいいことはありません~、とばかりに目を合わせない。

 たとえ「お父さん面白かったよ」などと褒められるような内容だとしても、そこからバカにされるような話題に繋がってしまうことを恐れて、天音はすべてを拒絶した。

 そうして天音に話しかける人は順調に減っていき、しかめっ面のしすぎで眉間にシワが付きはじめてしまったころ、自分から天音に話しかけようとする人はほとんどいなくなっていた。


 これでいいんだと胸を撫で下ろすようになった一方で、本当は輝かしい学生生活とやらに憧れている自分もいた。

 教室の前方でクラスの “一軍” グループが楽しそうに話しているときは、読書するフリをしながらずっと耳を傾けていた。まるで自分もその一員になったかのように、会話に参加するシミュレーションを脳内で繰り広げていた。

 人から話しかけられぬよう、物静かな文学少女を装ってはいたが、本当は楽しいことが好きだし、仲のいい友達もほしかったし、放課後に制服のまま遊びに行ったりしてみたかったのだ。


 そんな天音にとって、ここ最近の唯一の希望になっていたのが「高校進学」だった。

 小学校から中学校に上がる際は、結局天音の身の上を知っている人までもが同じ学校に上がってきてしまい、「芸人の娘」であることがものの一週間ほどで学校中に広まってしまっていた。入学当初は話しかけるなオーラを出しすぎて、学校の不良生徒からも半ば恐れられていたほどだ。

 次こそはそうならないようにと、天音は都心から離れた位置にある高校へ進学することを早々に決め、受験勉強を熱心に頑張っていた。


 合格発表の掲示板で自分の番号を目にした際は涙が出るほど嬉しかった。自分の人生はようやくここから始まるのだという喜びに打ち震え、早苗に支えてもらわなければ立っていられないほどの希望をその華奢な身体に満ち溢れさせていた。

 新しい制服や新しい学用品を何度も身につけてみたり、自己紹介の挨拶をどうするか何パターンも考えてみたりして、春休みはあっという間に過ぎていった。

 高校デビューに向けて気合いを入れているようで気恥ずかしくもあったが、そんな恥ずかしさより何より、やっと自分を〝ただの女の子〟として見てくれる友達ができるかもしれないという嬉しさの方が大きくて、それだけで天音にとっては胸がいっぱいだった。


 それなのに。

……それなのに。


「はぁ……」


 脇に差した体温計がピピピと音を立てる。表示は三十七度三分。平熱が高めな天音にとってはさほど苦しいものではない。やはりこれなら週明けの月曜日には問題なく初登校を果たせるだろう。精神的な問題は多大にあるだろうが。


「ともちゃん……私、どうすればいいの……」


 天音は枕元においてあるイヌのぬいぐるみを抱きしめながら呟いた。

「ともちゃん」というのは、高校の合格発表時から春休みに至るまでの期間に天音の脳内で生まれた想像上のクラスメイトであり、このぬいぐるみの名前ではない。


 ともちゃんは「入学して一番最初に友達になる子」という設定で、天音はもうこの架空のクラスメイトと、何度も通学中の電車でおしゃべりしたり、カフェに行ったりする妄想を繰り広げていた。

 ともちゃんはいつも髪からふわっと良い香りがするし、悩みがあったら相談に乗ってくれるし、お弁当のサンドイッチを交換してくれる。友達だから「ともちゃん」だ。

 天音はいつも、授業中に居眠りをしてしまい「ごめん、ノート写させて!」とお願いしてくるともちゃんに「また~? しょうがないな~」と言いながら、彼女のために綺麗にとったノートを貸してあげるのだ。


「私……まだ、間に合うかな……」


 ぎゅっと目を閉じて脳内のともちゃんの笑顔を思い浮かべる。まだ顔の部分はこのぬいぐるみでしかイメージできていないのだが、ともちゃんは『大丈夫だよ、天音ちゃん!』と手を差し伸べてくれた。


『天音ちゃんのこと、みんなずっと待っててくれてるよ!』

「ほんと……? ともちゃんも?」

『もちろんだよ! 天音ちゃんが来なくて毎日寂しいもん!』

「ほんとに……? まだ会ったこともないのに?」

『そんなの関係ないよ! だって私たち、〝ズッ友〟……でしょ?』

「と、ともちゃあん……!」


 天音はぬいぐるみを強く掻き抱きながらゴロゴロとベッドの上を転がった。

 大丈夫だ。まだ希望はある。どうせ最初の一週間なんて、みんな自分の周囲の席にいる五、六人の顔を覚えるだけでも精一杯なはずだ。ならば入学が一週間遅れたところで大したことはない。

 これから始まる長い長い高校生活に比べれば、最初の一週間に姿を現さなかったことくらい、どうということはないはずだ。

 何よりも、ともちゃんが教室で待っててくれているんだ。


「待っててねともちゃん、必ず会いに行くからね……!」


 天音はまだ見ぬ架空の友人のため、せめて万全の状態で初登校を果たせるようにと、ぎゅっと目をつむってもう一眠りすることにした。

 ともちゃんに風邪をうつすわけにはいかない。この菌は必ず自分の体内で葬り去ってみせる。


 隣の部屋にいる早苗は、娘の大きな独り言を聞き、風邪がぶり返したのではないかと心配していた。

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