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本幕 其の弐

 もう絶対に酒は飲まない。

 ベッドで力なく横たわっている瑛は、虚ろな視線を泳がせながら改めてそう誓った。

 枕元の目覚まし時計を見る。十時半。目覚めてから一時間ほど経つ。

 全身を蝕む倦怠感や目眩、嘔吐感、そして関節痛は収まる気配を感じさせてくれない。

 辛い。その言葉を延々と繰り返しながら、ベッドの中で七転八倒していた。

 この状況をどうにかしたい。しかしどうにもできない。起きてからその状態が続いている。

 最悪。今日、何度目かのその言葉を噛み締めざるを得なかった。

 性懲りもなく二日酔いに蹂躙されている。

 酒に弱く、飲めば高い確率で二日酔いになる体質。それが痛いほどよく分かっていた上での失態なのでどうしようもない。

 散々な目に遭った回数は数知れず。そのたびに禁酒を誓うのだが、喉元を過ぎると、自分でも呆れるほどそれを意識の外に追いやってしまう。その結果、後悔に後悔を重ねる羽目に陥るのだ。

 そもそも飲む相手が悪い。ビール、発泡酒、日本酒、ワイン、カクテル、酎ハイなどを手当たり次第に飲み、深酒での記憶喪失や二日酔いになってもそれを何とも思わない荒川は別にしても、その他の部員も総じて酒に強く、飲み会ではソフトドリンクをほとんど口にしない。その雰囲気に流された瑛は、つい、空になった紙コップにビールや酎ハイを注いでしまう。

 ふいにスマートフォンが震えた。

 荒川からのメールだ。

『昨日はお疲れ様でした。あれから家でひとりで飲みました』

 瑛は頭を振り、深々と溜息をつく。

 ふいに吐き気が臨界点に達し、鉛のように重い体を起こした。

 吐けば楽になる。そう繰り返しながら、頼りない足取りでトイレへと向かう。

 便器の前で蹲り、喉の奥に指を入れる。胃がひっくり返るような苦痛を覚えるが、既にひとしきり吐いてしまっているため、胃液しか出てこない。消化されていない物や酒が出なければ楽になれないと思い、何度もそれを繰り返したが、無駄な疲労感を重ねただけだった。

 ふらふらになりながらも洗面所で顔を洗い、口を濯ぐ。

 鏡を見ると、幽霊のように精気がない表情があった。

 惨めな気持ちで部屋に戻り、ベッドに身を投げ出す。

 講義が始まる十四時まで、あと三時間強。それまでに回復するとは思えない。

 それでも出席するか、否か。

 いつの間にか脳裏に浮かんでいた選択肢を慌てて撥ね除ける。

 それは昨年度末までなら悩まずに決断できた岐路だ。しかし崖っぷちに追い詰められつつある今では、迷いすら許されない立場にある。何より甘言に流されてしまえば、今日の夜にでもなれば、その愚行を嘆く羽目になるのは分かりきっている。

 もう十分だけ横になってから動く。そう誓ったものの、体調は劇的に良くなってくれない。

 その結果、二回の延長をした後に、嫌々ながらもベッドから降りた。

 汗臭くなったシャツなどを脱いで洗濯物の山へと放り、熱めのシャワーを頭から浴びる。時期が時期なので、いくらシャワーを浴びても体の芯から温まった気はしない。浴室の換気扇を止めているため、室温はいくらか上がってはいるものの、シャワーを止めればすぐに下がってしまう。

 意を決してシャワーを止めると、浴室から出ると素早くバスタオルで体を拭き、トランクスと長袖のシャツを身に着けた。

 早足で居室に戻るとハロゲンヒーターをつけ、その前にある椅子に腰を下ろした。

 ノートパソコンを起動し、適当なサウンドトラックを流す。

 十二時過ぎ。概ね予定通りだ。

 汗を流したからか、気分がいくらか楽になったように感じる。

 ふいに、ベッドの上のスマートフォンが振動を始めた。

 液晶画面を見た瞬間に思わず渋い表情をした。

 電話だ。問題はその発信者欄に、母、と表示されていることだった。

 躊躇したが、ここで出なくても、また連絡が来るのは分かっている。

 ならば仕方ないと諦め、電話に出ることにする。

「もしもし」

「どうしてさっき出なかったの」

 開口一番の文句に、瑛は思わず眉をひそめた。

「さっきってなに」

「さっきも電話したの。そしたら出なかったから」

「シャワーに入ってたから」

「あんた、また学校休んだの」

「今日はこれから」

「ならいいけど」

「ちゃんと行ってるって」

「今年はちゃんと単位を取らないと、もう仕送りしないからね」

「分かってるよ」

「分かってるって、去年もそうお母さんに言ったでしょ」

「今年は大丈夫だから」

「本当でしょうね」

「だから大丈夫だって」

「それならいいけど」

 母の口調からは疑いの感情がはっきりと見て取れた。

 もっともそれに文句を言えぬ前科があるので、瑛は聞き流す事に専念する。

 母からの電話は少なくとも月に一度はある。

 大学と同時にひとり暮らしを始めた当初は、慣れぬ生活や健康を気遣うものであったが、単位の取得状況が隠しきれなくなったこの昨今は、専ら講義の出席状況と成績についての話題に終始しているのだった。

 次から次へと投げつけられる小言に適当な相槌を打ち続けていた瑛だったが、苛立ちが募ってきたため「悪いけど」と強引に話を遮った。

「もう準備しないと間に合わなくなるから」

「じゃあ、ちゃんと頑張ってね」

「分かった」

「たまにはあんたから電話しなさいよ」

「そうするよ」

「じゃあ、またね」

「じゃあね」

 やっとの思いで電話を切った瑛は、安堵の息をついた。

 ひとつ舌打ちをして、スマートフォンをベッドに軽く放る。

 電話をかけろと母は言うが、そうすれば説教で迎えられるに違いない。それが面倒だからかけない事くらい分からないのだろうか。

 母と話していた時間は十分弱。しかし体感としては一時間以上だった。

 萎えた気力を強引に奮い立たせ、これからの予定を考える。

「まずは大学に行こう」

 自分に言い聞かせるように、そう呟いた。

 今までの講義を欠席するパターンは、その大半が、家でぎりぎりまでのんびりしていて面倒になってしまうという、我ながらどうしようもないものだった。最初で躓けば、次の講義に出る気力も失せてしまう。その結果、大学に行ってはみたものの、終始、部室で過ごしてしまっていた。

 ぐったりとした心身に鞭を打ち、ジーンズを履いてシャツを着ると、教科書や財布などをバッグに放り込んだ。スマートフォンを胸ポケットに入れ、意を決するようにひとつ深呼吸をすると、ダウンジャケットを持って玄関へと向かう。

 室内でも寒いと思っていたが、ドアを開けると、外はそれよりも厳しいという現実を見る。

 量販店のセールで買った安物のダウンジャケットは、防寒具というには頼りないが、替えがないので耐える他ない。そもそもこのダウンジャケットは母に泣きついて買ってもらった物なので、文句など言える立場ではないのだ。

 慎重な足取りで錆びた、そして狭い外階段を降りて、アパートの敷地から出る。

 築二十年強の一DKで、家賃が四万五千円。大学から近い以外には長所が見当たらない古びたアパートだが、二年半も住めば、それなりに愛着が出てくるものだ。居住者は皆学生らしいが、顔を合わせれば適当に挨拶をする程度で、交流はないに等しかった。

 空は灰色で覆われている。その下で吹く風は、いつも以上に寒さを感じさせる。

 通っている神奈川中央大学までは、坂道を下って十分弱ほど。

 春先であればどうということのない距離だが、今ではそれが絶望的に長く思える。

 とりあえず室内に避難したい。その一心が歩調を早まらせる。

 適当に時間を潰せる場所といえば図書館か、パソコンを使用できる情報管理棟くらいだ。

「とりあえず情報管理棟にでも行くか」

 消極的選択で目的地は設定した。それ以降のことは、そこでまた考えればいい。

 道中にあるコンビニに入り、常温の麦茶を買う。

 まだ二日酔いの症状は幾らか残ってはいるが、ピークの状態を考えればないに等しい。

 金輪際、酒は飲まない。改めて自らに誓い、麦茶を口に含んだ。

 ふと明るさを感じ、何気なく空を見上げる。

 風の流れで薄くなった雲の向こう側に、薄らと太陽が顔を覗かせた。

 頼りない暖かさが辺りを包み混む。

 瑞兆。何となくだが、そのように感じた。

 自分は誘惑にかった。そして、きっとこれが転機になる。

 そのように思うと、自然と足取りは軽くなった。

「きっと今日は、なにかいいことがあるな」

 その呟きに応えるかのように、道端を歩いていた猫が低い鳴き声を上げた。

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