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本幕 其の壱

「寝てたのになんでそんな疲れた顔してるの」

 佐木浩一は呆れたように言った。

 荒川優助は同意するように頷く。

「寝るくらいならわざわざ講義に出なくてもいいと思いますが」

「ボランティア論は出さえすれば単位が取れる講義なの。うるさくしない限りは先生は何も言わないから、ほとんどは寝たり漫画を読んだり、ネットしてたりって感じでさ」

「ああ、だから人気があるんですね」

「でも因幡君、履修するのは去年に続いて二回目で」

「落としたんですか」

「四回以上欠席して、アウト」

「出席には厳しいですね」

「さすがにそこまで緩くしたら講義とはいえなくなるでしょ」

 ふたりの話を聞いていた瑛は、「その話はもういいよ」と苦い表情で言った。

 先ほどから頬杖をつき、カレーをスプーンでかき混ぜ続けている。

 時刻は十九時半過ぎ。

 拾号館にある食堂は広く、暇を持てあましている学生たちの溜まり場と化しているため騒がしいのだが、十九時くらいからは空席が目立ち始める。

 瑛たちはいつもそれを見計らって食堂に来ていた。

 閉店となる二十時に近づくにつれ人気メニューが売り切れていくが、瑛はそのようなものに手を出さないので問題はない。いつも安価なカレーか蕎麦、少し懐に余裕があるときは定食を頼んでいる。

 それにしても今日は食欲がない。瑛は何度目かの溜息をつく。

 気が重い。コーヒーを飲んだときのように胸がむかついている。

 持て余している憂鬱の原因に目を向け、目を向けるからこそ憂鬱になる悪循環。

 それをネタとして割り切れるまでには、まだかなりの時間がかかりそうだ。

 佐木は肩を竦めると、鶏の唐揚げを口の中に放り込んだ。

「因幡君、もう忘れようよ」

「まあねえ」

「失敗を振り返るのは精神衛生上よくないって」

「僕もそうしたいよ」

「そのうちいいことがあるから」

「だといいんだけど」

 よほど瑛の表情が暗かったのか、佐木は荒川に目配せをした。

 荒川は困ったように頭を振る。

 その態度が鬱陶しく感じるのだが、八つ当たりであることは瑛自身もよく分かっている。

 そもそも原因は、買ったばかりのアドベンチャーゲームに徹夜で熱中した事だ。

 睡眠不足でふらふらになりながらも一時限から各講義に出席し続けたのだが、五時限のボランティア論の講義中に力尽きてしまった。

 大人しく眠っていれば、他の学生と時と同様に講師は見て見ぬ振りをしただろう。

 問題は、悪夢に苛まされた瑛が悲鳴を上げながら飛び起きた事だ。

 押し殺したような笑い声が教室内に漂う中で、講師は教壇からゆっくりとした足取りで瑛の席に来ると、抑揚のない声で退室を告げた。

 言い訳が出来るような雰囲気でなかったため、瑛はそれに従わざるを得なかった。

 学生の本分である勉学とは遠い生活を送っている瑛が、三年の前期までに取得した単位は六十程度しかない。通期と後期の単位を全て取得できても卒業所用単位から遠い状況にある。既に投げている講義がいくつもある実情を考えれば考えるほど、今回の失態はかなり痛い。

 卒業。一年後に控えているイベントが頭を過ぎる。

 そろそろ進路を考えなければならない時期でもある。

 面倒。それらを目にするたびに視界を閉ざしてしまう。

 このままではいけないと思いつつも、積極的に動く気にはなれないのだ。

 思考が悪い方向に流されている。瑛はひとつ息をつき、冷めた緑茶を呑んだ。

 残すのはもったいないからと暫く粘ってみたものの、結局、食は進まなかった。

 二十時前になり、閉店を告げるアナウンスが流れたのを見計らって三人は食堂を出た。

 向かう先は、拾九号館の三階。

 拾九号館は地下が学生食堂、一階が大学生協、二階が健康保健センター、そして三階がサークルスペースとなっている。サークルスペースには大学公認サークルの部室が四十ほどあり、昼夜を問わず、学生が出入りしていた。

 瑛たちは拾九号館の外階段を上がり、サークルスペースに入る。

 廊下を挟んで部室が並び、それぞれのドアにはサークル名が書かれたプレートがあった。

 創作研究会。

 中央辺りにある部屋のプレートには、達筆でそのように書かれていた。

 瑛はドアを押し開けようとしたが、動かない。鍵がかかっていた。

「荒川君」

「分かりました」

 荒川は電子キーのボタンを素早く押し、そしてドアを開けた。

 部室にはそれなりに高価な物品があるため、セキュリティーを強化した方がいいという佐木の提案により、十二桁の暗証番号を設定したのが三ヶ月ほど前。瑛はスマートフォンのメモ帳にそれを記録しているのだが、暗記している荒川がいるときはいつも解錠を頼んでいる。

 十四畳ほどの室内はドアから手前半分に長机と椅子、そして書棚が置かれていた。長机の上には自作のデスクトップパソコンや雑誌、イラスト集、そしてゲームソフトといった類いの物が乱雑に積まれ、書棚には誰の物か分からぬ教科書や辞書、漫画、小説が並んでいる。

 一方、奥半分は簀の子を敷き、靴を脱いで寛げるスペースとして確保していた。中央には座卓が、隅にはテレビと冷蔵庫を置いている。

 部員は四年生が三人、三年生が瑛と佐木のふたり、二年生が荒川のひとり、そして残りは一年生という構成だ。部長は瑛ということになっているが、それは部員同士で押しつけ合った末、あみだくじにより決まったものだった。

 瑛はダウンジャケットを椅子にかけると、すぐにウインドエアコンを稼働した。夏に取りつけたばかりのエアコンは、温度を二十六度に、風量を最大に設定しているため、室内が暖まるまでにそれほど時間がかからない。

 冷蔵庫から緑茶のペットボトルを取り出した荒川は、三つの紙コップに注ぐ。

 瑛は紙コップを受け取り、緑茶を舐めるように呑んだ。

 テーブルの下を漁ると、開いていないポテトチップスや煎餅があった。置いてある菓子類はいつ誰が食べても構わないという慣習により、いつもなら袋を開けるところだが、今はそのような気になれない。

 佐木が先週から熱中しているゲームを話題にし、瑛がそれに応じる。

 荒川はパソコンを起動し、ふたりの会話に耳を傾けながらもCGイラストを描き始めた。

 取り留めのない話をしていると、やがて時刻は二十一時を回った。

 最後の時限の講義が終わる時刻だが、他の部員が来る様子はない。皆もう帰ったのだろう。

 ふと、佐木が姿勢を正す。

「それにしても因幡君、今日は厄日だったね」

「どうしたのいきなり」

「嫌なことをいつまでも覚えているのは健康に悪いじゃない」

「だからなに」

「忘れるには酒が必要です」

 ペンをタブレットの横に置き、荒川が力強く断言した。

 察した瑛が苦い表情をする。

「一昨日飲んだばかりじゃん」

「でも、酒でも飲まないとやってられないことってあるでしょ」

「今回のことは、それに当たると思います」

「よく考えてよ。俺たちは因幡さんにつき合う立場なんだから」

「このまま帰ると、色々と考えて絶対に鬱々としますよ」

「飲み代については割り勘でいいし」

「断る理由はないですね」

 ふたりは恩着せがましい言葉を交互に重ねてくる。

 端からそういう予定だったのだろうと瑛は嘆息を噛んだ。

 明日の講義は十四時半から。遅くまで飲んでも今日のような状態にはならない。

 財布の中を確認する。残金は五千円ほど。部室で飲む分には充分すぎる額だ。

「じゃあ、つきあうよ」

 瑛が諦めたように言うと、ふたりは当然のように頷いた。

 トイレに向かったふたりに先んじて、瑛は外階段を下りて拾九号館から出る。

 向かう先はコンビニで、片道五分ほどかかる。もう五分ほど歩けばスーパーがあり、それなりに安く買えるのだが、肌を刺すような寒さの中では距離の方が優先される。

 じっとしていると体が強張るため、瑛はつい足踏みをした。

 今まで暖かい室内にいたからこそ、その寒さを余計に感じる。こんなことならトイレの前で待てばよかったと思ってしまうが、そのために戻る面倒さを秤にかけた結果、この場で待つという消極的な選択をした。

 ふいに、脳裏に悪夢の内容がフラッシュバックする。

 老朽化が激しい倉庫のような建物。

 降りしきる小雨。

 灰色の空。

 砂利が混じる荒れ地。

 不規則に立つ乾いた痩せ木。

 そして、小高い丘の向こう側から歩いて来る人影がひとつ。

 唸り声。

 悲鳴。

 衝撃。

 そして、正気を保てぬほどの苦痛。

 思わず身震いをした瑛は、自身の左腕をまじまじと見る。

 それは思いどおりに動き、痛みはない。いつもと同じ状態だ。

 念のため袖を捲ったが、当然、食い千切られたような痕はなかった。

 ほっとしつつも、同時に強い違和感を覚える。

 瑛は夢を見ない。希に見ても、一時間もしないうちに忘れてしまう。

 しかし今日のそれは違った。

 振り返ると、佐木と荒川が足取り軽く拾九号館から出て来た。

「気のせいだよな」

 瑛は誰ともなしに呟いた。

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