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序幕 二

「なに、これ」

 ふと立ち止まった月宮咲良は、震える声でそう呟いた。

 激しい目眩に耐えきれず、その場に蹲る。

 落としたショルダーバッグから教科書やノートが飛び出し、辺りに散乱した。

 片付けなきゃ。そう思った刹那、意識が揺らぐ。

 痛い。呻き声で潰れた言葉を吐き出した。

 側頭部を殴られたような頭痛。破裂しそうな胸の鼓動。胃がひっくり返るような嘔吐感。

 タイミングを見計らっていたそれらが、一斉に襲い掛かって来たのだ。

 呼吸すら困難になり、金魚のように口を開けて空気を求めた。

 ダッフルコートの防寒能力を無視し、悪寒が全身に覆い被さっている。

 そして、極めつきに内奥から迫り上がってくる得体の知れぬ圧迫感。

 焦燥感に駆られ、咄嗟に辺りを見回す。

 焦点の合ってない瞳に映るのは、いつもと代わり映えのない通学路。

 しかしそれが不安を増幅させる。

 助けて。

 音にならぬ声で誰かに救いを求めようとしたその瞬間。

 背後にナニカの気配を感じ、全身が感電したかのように硬直した。

 気配は何かを引きずりながら、ゆっくりと近づいてくる。

 その正体を知るには振り返らざるを得ない。しかし恐怖心に圧倒され、それができない。

 ナニカは咲良のすぐ後ろで足を止めた。

 圧迫感が咲良を締め上げる。この状況から逃れたい。その一心で、恐る恐る振り返る。

 そこには、見覚えのある顔があった。

 そして、一閃。

 膨大な音と光景が、脳裏に焼きつけられていく。

 咲良は頭を抱えて悲鳴を上げた。

 ゆっくりと自分が自分でなくなっていく。その感覚が恐ろしい。

 咲良は喉を枯らして叫び続けたが、その足取りを鈍らせる効果はなかった。

 そして、暗転。

 咲良はハンカチで涙を拭い、何事もなかったかのように立ち上がった。

 ナニカや心身を蝕んでいたものは全て消え失せていた。しかし、それへの安堵はない。

 色褪せた光景をぐるりと見回し、ああ、と溜息を漏らす。

 夢。幻。妄想。

 そのような類いであったらいいのに。そう思わずにはいられない。

 予兆らしきものは何ひとつなかった。ここ数日のことを何度も振り返り、そう確信する。

 なぜ。どうして。答えがないことは分かっているが、そう自問してしまう。

 意識を切り替えるため頭を強く振った。

 目を向けなければならないのは、今、自分が置かれた立場だ。

 召喚。運が悪ければ、次の瞬間にもそれが発動される。

 強いられる逃走劇。

 失われていたその記憶を思い返す。

 時が来れば、再びそれに臨まなければならないのだ。

 ふいにけたたましいクラクションが鳴り響いた。

 我に返った咲良は、自分が道路の真ん中に立ち尽くしている事に気づく。

 音の方に顔を向けてみれば、一メートルほどの距離を開けてミニバンが止まっていた。

 邪魔だ。どけ。運転手は窓から身を乗り出し、早く道を空けろと怒鳴っている。

 咲良は鈍い足取りで道路の端へと進む。

 ミニバンが急発進し、教科書などを踏み潰して走り去った。すれ違いざまに運転手が怒鳴っていたようだが、それはエンジン音にかき消され、断片すら聞き取れなかった。

 視界の隅には、ショルダーバッグがあった。タイヤの跡がくっきりとついている。

 ショルダーバッグは、成績が良かったご褒美として父が買ってくれた物だ。渡されたのは父が入院していた病院の病室で、あの時のことは一年経った今でもはっきりと覚えている。

 咲良は天を仰ぎ、大きく深呼吸をした。

 そして自分にできることを考え、思わず苦笑を漏らす。

 分かりきっている話だ。そのようなものはひとつしかない。

「あの、月宮さん、大丈夫」

 ふと声をかけられ、咲良は振り返った。

 そこにはクラスメイトの篠崎ゆかりが心配そうな表情で立っていた。

 咲良は慌てて咲良は取り繕った笑みを浮かべる。

「別に大丈夫だけど、どうして」

「だって、ずっと道の真ん中で立っていたから」

「見られてたんだ」

「ごめんね」

「あたし、どれくらいそうなってた」

「それは分からないけど」

「そう」

 篠崎は気まずそうに視線を落とし、頷く。

「あのね、あたし、ちょっと前に月宮さんの横を通ったの」

「ぜんぜん気づかなかった」

「なんか様子がおかしくて、どうしたんだろうって思いながら通り過ぎちゃったんだけど、さっきの音を聞いて、慌てて戻ってきたの」

「ありがとう、来てくれて」

「ううん、なにもしてないんだし」

 篠崎は散乱していた教科書やノートを、手早く咲良のショルダーバッグに詰めていく。

 慌てて咲良も手伝おうとするも、虚脱感で、体が思うように動かない。

 結果、ほとんどの物は篠崎が拾い集めてくれた。

 ショルダーバッグを渡された咲良は、再び礼を言った。

 篠崎ゆかり。五年生になったこの春のクラス替えで、初めて知り合った娘だ。

 咲良と篠崎は顔を合わせれば話くらいはするものの、放課後に遊ぶような機会が多くないため、それほど親しいわけではない。わざわざ戻ってくれたのは、咲良の様態が尋常でなかったからだろう。

 篠崎は心配そうな顔で、咲良の様子を窺っている。

 咲良は、何でもない体を装って笑みを返した。

 大丈夫。その言葉を何度も自分に言い聞かせる。

 恐怖心は麻痺する。辛いのは慣れるまでの間だけ。

 何よりそれは、以前、歩いた道なのだ。

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