第43話 風と陽光とびわ色の道
そこは、かつて日本に存在した、最も美しく激動の「異世界」だった。
お茶の香りと、西洋の風と、十五年だけ存在した幻のホテル
びわ色の土塀が続く古い城下町。木立に囲まれた螺旋階段の洋館「メープルホテル」。
「兄の親友」へのひたむきな想いを抱えた少女時代。
凍る大地からの帰還兵を待っていたのは、戦後の光を放つ「メープルホテル」と、変わった故郷、そしてずっと変わらぬびわ色の道だった。
誰を愛し、誰と生き、誰を永遠の記憶に刻むのか。
今、和史は引退した父の跡を継いで、社長となり、先日会社の創業記念日を祝った。
遥佳との間には、息子が二人いる。
その創業記念懇親会で、仕事でも繋がりのある、学校時代の同級生が和史に言った。
「そう言えば、碧伊さん亡くなったんだそうだ。病気だと聞いたけど、ショックだよ。同級生が亡くなるのは。」
和史は、すぐには言葉が出なかった。
一瞬、友人も、周囲の声も遠のいた気がした。
「水島君知らなかった?あんなに仲良かったのに」
同級生は言った。
「碧伊さんのご主人という人は、もともとは、ここの出身だけど、父親が、満州だったり、関東で働いてたみたいで、地元で育っていなかったから、僕らもよく知らないんだ」
和史は、早速姉に聞いた。
姉も知らなかったようで、
「まあ、碧伊ちゃんが!」
と、悲痛な表情で言った。
「妹の翠ちゃんに聞いたらわかるはずよ」
妹の翠は、和史もよく知っているし、子供の頃は一緒に遊んでいた。
「翠ちゃんは、さくら茶舗の陸さんと結婚して、お店にいるわよ」
碧伊の妹は、さくら茶舗の長男に嫁いでいるという。
和史も同じ学校なので、陸のことは知っている。
姉は、お茶を買いに行くと、翠に時々会うそうだが、碧伊のことは、まったく知らなかったという。
それで和史は、門前町のさくら茶舗に、翠を訪ねることにしたのだった。
以前は、遥佳と仲の良い友人が、このさくら茶舗の娘だったが、もう結婚したというのも聞いていた。
訪ねると、店には、翠と2、3人の店員がいた。
翠は、和史を見ると頷いた。
彼女にはすぐに、姉のことで、和史が来ているとわかったようだ。
そして、お墓の場所を教え、預かっていた手紙を渡してくれたのだ。
* * *
和史は、静かに顔を上げた。
碧伊の墓の前で、ゆっくりと立ち上がり、あたりを見回した。
木々を渡る風が心地よかった。
ふと、そばの花壇と紅葉の木々の間に、通り抜けできるような、小径があるのに気付いた。
ここから、町の方へ戻れるのだろう。
和史は山門の方へは戻らずに、帰りはその小径の方へ行くことにした。
「碧伊、ありがとう。また会おう」
碧伊の墓に向かってそう言って、その小径に入って行った。
東側だから、門前町の方角だろう。
そして小径を抜けたとき、和史は気付いた。
「ここは……」
小径は、二人でいつも歩いていた、図書館に行くびわ色の道に繋がっていた。
それは、びわ色の道の、横道のひとつだったのだ。
《姉がそこが良いと言うので、希望する通りにしました》
翠はそう言っていた。
和史は、あの頃と変わらない、その道にしばらく立っていた。
土塀の上の樹々の枝を揺らしながら、ここにも風が吹いてくる。
道の両側の厚い土塀は、永い年月の間に、所々上塗りが剥がれて、練り込まれていた赤みのある土の色が出ている部分もある。
それが、乾いた土の匂いと陽射しを混ぜ合わせた柔らかな雰囲気を作っている。
厚みのあるでこぼこした練土の中に、昔の人々の言葉が吸い込まれ、戦争も何事もなかったかのように、静かで暖かな空気が満ちていた。
……もしあの頃、ずっと一緒にここに居たら。
多分碧伊とは、ごく自然に結婚していただろう、と思われる。
碧伊が望めば、自分はずっとそばに居ることはわかっていた。
昔から風のように、陽射しのように、そこにいた。
約束や契約がなくても。
和史は、碧伊が誰と居ても、嫉妬したことがなかった。
あの過酷な、凍る大地から帰還した彼には、神がいるかどうかはわからないし
考えたこともない。
ただ、メープルホテルで行われた聖書の朗読の一部は、ふと浮かんだ。
愛は寛容であり、愛は情深い。また、妬むことをしない。愛は高ぶらない、誇らない………
あの時、そういう言葉もあったのか、と思った。
道に張り出した、新芽を付けたもみじの枝が、さわさわと風に揺れた。
陽光が、その間からきらきらと、降り注いで、びわ色の世界を包んだ。
少女時代の碧伊が、歩いてきて、微笑みながら、傍らにいるような気がする。
和史は、かつて碧伊にそうしていたように、微笑して言った。
「碧伊、図書館まで一緒に歩こう」
完
拙い文章にもかかわらず、最後まで読んでいただき、感謝しています。
参考にさせていただきたいと思いますので、ぜひ、評価や感想をいただければ嬉しいです。




