第2話 隼人と陸 町屋の灯り
そこは、かつて日本に存在した、最も美しく激動の「異世界」だった。
びわ色の土塀が続く古い城下町。木立に囲まれたもみじの洋館「メープルホテル」
異国が混ざり合う街で びわ色の古都、もみじの洋館
お茶の香りと、西洋の風と、十五年だけ存在した幻のホテル
「兄の親友」へのひたむきな想いを抱えた少女。
凍る大地からの帰還兵を待っていたのは、戦後の光を放つ「メープルホテル」と、変わった故郷、そしてずっと変わらぬびわ色の道だった。
誰を愛し、誰と生き、誰を永遠の記憶に刻むのか。
その寺には、毎年見事なしだれ桜が咲いた。
国宝に指定されるほどの、建築様式美をもって建立された本堂を背景に、しだれ桜の木が広い境内に植わっていて、毎年春になると、空から降り注ぐような花を咲かせ、見物に大勢の人が訪れた。
絵葉書にも使われたりしている。
秋になると、山門への石段に沿って、もみじが美しく紅葉し、この時期の名所となっていた。
その山門もまた、鎌倉時代の建立で、文化財に指定されている。
代々の藩主や、その子孫の人たちの菩提寺でもあり、本堂の後ろの地所には、立派な墓所がある。
隼人の父は、この寺の住職で、隼人は二男で、彼の下には弟がいる。
兄が後を継いでくれることになっているので、隼人は寺の仕事をする気はなく、あまり興味もないところがある。
でも、父の運営している修道館での武芸は、ずっと子供の頃から続けていた。
昔、武家の子供達に手習いを教えていたことからはじまったのだろう。今、寺の所有の土地には、幼稚園のほか、武芸を教える修道館という、施設があるのだ。
隼人は弓道と剣道において、弓道は称号者であり、剣道も上級者になっていた。なので、試合があるときはもちろん、師範が居ない時は、代稽古で道場の門下生を指導している。
今日は、師範が休みだったので、代わりに隼人が、剣道部の小さい少年達と、午後からは、社会人の弓道の稽古をみていた。
皆が帰ったあと、誰もいない道場で、隼人は一人で引き合いから的を射る。
隼人の射た矢は、いつも、ビュッと凄まじい速さでしなやかに的を射た。
そのあと、彼は自分の住居がある寺の方へ向かった。
本堂のある棟の座敷では、父の住職が、遠方から訪れた檀家の人々と、話をしている。母親も、お茶を出したり接待をしている。
隼人は稽古着を着替えて、汗を流すためにさっさと湯殿に向かった。
湯殿は旅館のように広めだ。
格子窓の向こうに、庭の紅葉や柿の木がある。今は葉が青々として、木陰を作り、木立の中にいるような清々しさがあった。
隼人は頭から水をかぶり、水は彼の筋肉質な長身を伝って、湯殿の玄昌石の石床に落ちてゆく。
夕方からは、友人の陸と会う約束をしている。
着替えを済ませて出かけようとすると、
「坊ちゃん、お出掛けですか?」
と、家政婦の長谷が、声をかけた。
「うん。陸と一緒にね」
「夕飯はどうなさいます?」
「向こうでたべるから、もう行くよ」
隼人は答えて、家を出た。
今日は夏まつりに行くので、去年のように、屋台で買って食べるかもしれないな、と思う。
家の都合上、生まれた時から、いつも家族以外に誰かが周りにいる。
本来の仏事や墓参りで訪れる檀家の人、父の代行をしてくれる手伝いの人、檀家をまとめる総代、様々な行事を手伝ってくれる有志の人達、それに幼稚園や修道館の先生たちなど、多くの人達が入れ替わり立ち替わり訪れる。
でなければ、運営出来ない仕事でもある。
この寺は、土塀の町の中でも、少し山手の方にある。
でも、町屋の並ぶ通りを抜ければ、すぐ門前町のある通りに出られる距離だ。
隼人は寺を出て、通りに面して格子の並ぶ、町屋の通りを歩いている。
土塀で囲まれた区域は、武士や華族が多く住んでいたが、ここは家の周りに土塀はない。町屋が並び、民家や店屋のある、また別の趣がある通りだ。
町屋の通りには、骨董屋が並んでいる。彼らの友人の家もその一つで、陸はその友人の所に寄っているはずだ。
格子戸の続く通りは、次第に薄暗くなりかけている。
隼人はニ軒目の骨董屋に格子のがらり戸を開けて入って行った。
「今晩は」
陸と隼人の友人は、この骨董店の息子だ。
硝子ケースの中に、整然と、色んな物がならんでいる。
ただ古い物ではなく、高価な物は、そのケースに保管展示されてるということがわかる。
隼人の声で、奥から、陸と友人が顔を出してにっこりと笑った。
「ああ、隼人来たか」
陸が出てきた。
骨董屋の友人が
「今から祭りに?」
と言った。
少し言葉を交わして、三人で外に出る。
「またな」
陸と隼人は店を後にした。
友人の父親も出てきて、店の入口に吊り下げてある提灯の蝋燭に火を灯している。
町屋の通りには宵が訪れると、軒先に吊るされた提灯に、あちこちで灯が入る。
神社の祭事が近づくと、町内の班長さんが、この町屋の通りの家々に蝋燭を配って歩くことになっている。
蝋燭は、家々の玄関先に掲げる提灯に使われる。
祭事が続く間中、夕刻になると、この通りには、提灯の明かりが灯り、仄暗い道と、点々と続く提灯の明かりは、異界の通りのように、朧げで幻想的だ。
二人の青年は、その通りを、自らの影を曳くように、門前町の方に向かって歩いている。
陸が言った。
「一度、店に帰るけど、いいかな。妹も一緒に行くと言っているから。
美夜は、今日は浴衣を着るって大騒ぎだったんだ。朝から」
陸は、くすくす笑いながら言った。
彼はさくら茶舗の長男で美夜の兄だ。
宵の仄かな明かりの中でも、陸の横顔は、はっきりと見える白さだ。
横顔に見える睫毛が長い。ほっそりして華奢な感じがする。
一方隼人は、背が高く、肩幅の広い体格をしている。
陽灼けした顔で、陸とはまた違う風貌の美丈夫だった。
「構わないよ、寄って行こう」
隼人は、さくら茶舗の兄妹の仲が良いのは、もう十分知っている。
陸は穏やかな性格だし、妹の美夜も、口数が少なく大人しい。小柄で子供っぽく見えるが、しっかりした子だと隼人は思っていた。
門前町に入ると、祭りに向かう人々が、彼らの他にも、家族や友人と連れ立って歩いている。
まもなく二人は、さくら茶舗に着いた。
淡い桃色のあやめのような柄の浴衣に、髪をまとめた美夜が、二人を待っていた。
彼女が、浴衣を着せてもらい、巾着を用意したところに、兄と友人の隼人が、店の方へ戻ってきたのだ。
「今晩は」
隼人は、いつものように、祖母たちに挨拶をする。
店は、学校から近かったので、学校が終わると、陸に誘われ、帰り道によく寄っている。
祖母も、子供たちに優しくて、
「おかえり」
と言って、お茶やお菓子を出してくれる。
隼人も、子供心に、ここのお茶は美味しいと思った。
さくら茶舗の兄妹は、当然のような顔をしていたから、いつもこういう美味しいお茶を飲んでいるのだろう。
美夜も手伝って、隼人に湯のみを差し出してきて、
「どうぞ」
と、静かに言う。
そのたびに、隼人は自然と、
「ありがとう」
と返していた。
特別なことではない。
けれど、そのやり取りは、記憶に残る。
「お祭りに行く前に、食べて行きなさい」
と言って、母が用意してくれた天ざるそばを、3人は奥の座敷で食べて、そのあと神社へ出かけた。
夕闇が降りた境内には、太鼓を打ち鳴らす音、笛の音、掛け声などが入り混じって、出し物の竹のぶつかり合う音も響き、熱気を帯びてくる。
すでに境内は、見物に来た沢山の人々で人だかりが出来ていた。
例年は、金魚すくいやアイスキャンデー、わたあめなど、沢山の夜店が並んで、子供から大人まで楽しむ。
今夜も、沢山の人々で賑わう境内には、夜店が並んではいるが、例年に比べると、少なくなっている。
戦争で、色々な物が流通しづらくなってきているのがわかる。
もう食事を済ませて来ていたので、
隼人が、かき氷を買ってきて、ふたりに渡した。
「ありがとう」
兄妹は礼を言う。
「いつも世話になって、ご馳走になっているのは、俺の方だよ」
隼人は言った。
三人は、境内の祭事を見渡すために、一段高くなっている神殿の石段に座って、かき氷を口に入れていた。
夏祭りに来ている人々の中には、彼らの知り合いが、あちこちにいるのが見える。
美夜と同級生の少女達が、早速やって来た。
「美夜! 今晩は。今日は誰と来てるん?」
「今日は兄さんたちと」
「浴衣とリボン可愛いよ。今度、私たちと一緒に来ようよ」
美夜の友達が言う。
「うん」
美夜も勿論、学校の友達と遊ぶことも、いとこ達と出かけることもある。
「陸と隼人、来てたか」
と、兄たちも友人に会って話している。
ふと、流れが変わった。
ざわめきが、ひとつの方向へ寄っていく。
「碧伊さん……だ」
誰かが言った。
美夜も、そちらを見た。
人混みの中に、すぐにそれとわかる姿があった。




