現状
浮かんでは消える謎。疲れで重くなる体で文月はボンヤリと覚醒を始めた。
自分は現在、高級なクルミ材の机の上で寝ている。
しまった!寝てしまった!
そこで、文月は飛び起きた。上半身を上げて見上げると、そこは、夢よりも夢の様なシックなゴブラン織のエビ茶の壁紙で囲まれた6畳ほどの洋室だった。
一瞬、パニックに陥り、混乱して椅子から落ちそうになって、ここで自分が座っている椅子がきめ細かい柔らかな黒の革張りである事を思い出して緊張する。この椅子は編集長の自慢の牛革の椅子より何十倍もお高い舶来製の逸品!
ハッとして、文月は心地の良い椅子の座りごごちの悪さに正気に戻り、椅子から離れて毛足の長いアラビア絨毯の上に座った。
こんなところじゃ、気が散って逆に何も浮かばない。お嬢様にシンプルで気兼ねない使用人の部屋に移してもらおう。
そう考えて、この部屋の本棚に詰まっている資料を思い出した。
それはこの部屋の先住者、向井の血と汗の結晶で、この事態から自分を解放してくれる、ひいては編集部の危機を回避し、さっちゃんとの祝言に近づく宝の資料であり、移動などをして無くしたりは出来ない物なのだ。それに、何より、向井が帰って来て自分を解放してくれないともかぎらない。
まさか、自分が江戸川乱歩の『悪霊』を先生より先に完結させる事になるなんて!
ああ、そうだった、向井先輩はいつだって面倒事を辺りに撒き散らす天才なのだ。そして、そんな先輩を無防備に信じて舶来の高級酒をグイグイ飲んで自滅するなんて!
文月は頭を抱える。そこでドアがノックされ、可愛らしい少女の声がする。
「向井様、おはようございます。お召し物を取り替えにお伺いしました。」
ハッとした。そして、ドアにダッシュする。
この声はこま使いの15歳ハルちゃんだ。ボヤボヤしていたら、また着替えの手伝いをされる。姪っ子様な少女に着替えを手伝われるのも決まりが悪い。
急いでドアを開けた。
「おはよう、ハルちゃん。いつもすまないね。でも、昨日、取り替えたばかりだから着替えはまだ、大丈夫。」
と、これで2回目の顔合わせなのに常連の洗濯屋にでも話しかける様に笑顔をうかべて着替えを取り上げようと手を伸ばす。が、ハルの反射神経の方が少し早く反応して逃げられる。
「いけません。徹夜で執筆されていらしたのでしょ?袴がシワだらけですわ。」
ハルは気取った様な言い方で文月をみる。身長は4尺というところか、文月の肩にかからないハルの目線を微笑ましい気持ちで文月はみる。ハルは地方から行儀見習いに来ていて、美しい標準語の習得のために色んな人の話し方を真似るのだ。
「別に、いいじゃないか。どうせ、外には出られないんだし。」
文月は諦め声で肩をすくめる。そして、どうして、向井があの日に書生の格好なんてしていたのか、その苦労を自分で体験して肩をすくめる。これはこの屋敷のお嬢様の趣味なのだ。
「いけません!そんなシワだらけの着物でお嬢様とお食事なんてさせられませんわ。」
「お嬢様と、お食事?」
文月はそこで正気に戻る。この時点で文月はお嬢様に多額の借金がある事を思い出した。しかも、結婚前に飲み代で年俸を吹っ飛ばす事になるなんて!
「はい。近々、出版社に訪問するための打ち合わせを兼ねて、だそうですわ。」
ハルは少し背伸びをした様なすました言い方をしたが、微かに言葉のイントネーションから東北の風を感じて文月はホッコリ…してる暇はないのだった。
「それは大変だ。でも、着替えは自分で出来るから、」
と、断ろうとする文月の言葉を遮る様にハルが部屋へとはいりこむ。
「ダメです。文月様は蝶ネクタイの結び方が下手なんですもの。」
と、叱る様な仕草をハルはしていたが、内心、蝶ネクタイを結びたいという欲求が隠しきれずに滲み出ていた。




