第五話 桶は、私が持ちますから
「ヴェルナー教官。ロートリンゲン公爵令嬢の卒業後の推薦枠は、王宮文書院だったな」
「は、はい、殿下」
「取り下げよ。代わりに、もし君が望むなら、二年の現地実務を経て再推薦する機会を与える。……罰ではない」
みんなの視線を一身に集めたまま、オクタヴィアに向き直る。
「君は頭がいい。記憶力も、文章力も、この学年で最も優れている。惜しむらくは、君が一度も現場に立ったことがないというだけだ。二年、あの渓谷で暮らせ。冬に水が凍る音を聞き、子どもの咳を数えろ。そのうえで書いた案を、私はもう一度読む。約束しよう」
オクタヴィアは立ち尽くしていた。
やがて、ゆっくりと顔を上げた目は、赤くなっていた。
「……わたくしは、負けるのが怖かったのですわ」
誰も口を挟まなかった。
「誰かと組めば、自分一人では足りないと認めることになりますでしょう。わたくし、それが怖かったのです。一人で負けたなら、まだ『本気ではなかった』と言い訳できる。だから……誘われるたびに断りました」
あれほど自信に満ちていた声が、今はひどく頼りなかった。
「オクタヴィア様。それは、最初に仰ってくださればよかったのに」
「……申し上げられるわけがないでしょう」
「そうですわね……でも、覚えておいてくださいまし。私は十五回お誘いしましたわ。断られるたび、少しずつ傷ついておりました。それでも十五回誘ったのです」
苦笑しながら、オクタヴィアを見る。
きっと、私の眉はこれ以上ないほど下がっていると思う。
「誘われるということは、それだけ何度も、扉を叩かれていたということですのよ」
オクタヴィアは、深く頭を下げた。
公爵令嬢が侯爵令嬢に下げてよい角度を、明らかに越えていた。
「……申し訳、ございませんでした」
そして振り返らずに講堂を出ていった。
背筋は、やはり綺麗に伸びていた。
春の光が降り注ぐ中庭で、テオドールが噴水の縁に腰かけていた。
「怒らなかったな」
「怒りましたわ、心の中では」
私は賞状を膝に置いて笑った。
「でも、あの方に叫んでも、渓谷の水は綺麗になりませんもの」
「……君は本当に、そういうところが」
言葉が途切れる。
テオドールは咳払いをすると、小さな箱を差し出した。
中には、簡素な銀の指輪が入っていた。
宝石はなく、内側に、細い川筋のような線が一本彫られている。
「……殿下」
「あの村の鍛冶屋に打たせた。試作で余った銀を使ったらしい」
「これを、私に?」
「テオでいい」
彼は私の手を取った。
「六年後、あの案の帳尻が合う頃には、私は王になっている。国庫の帳簿を睨みながら、七分の一の費用の話を他人事にせず考えられる人間が隣に必要だ」
そこまで言って、眉を寄せた。
「……いや、違うな。言い直す」
灰がかった青い瞳が、まっすぐ私を見る。
「焚き火の向こうで『ロッテといいます』と言った君に、私は惚れた。それだけだ。私の隣にいてくれないか、リゼット」
少しだけ頬が赤い。
中庭の隅では、いつの間にか来ていたミレーユが両手で口を押さえている。
私は指輪を摘み上げ、光にかざした。
銀の川筋が、春の日を弾いた。
「ひとつだけ、条件がございますわ」
「言ってくれ」
「毎年冬に、あの渓谷へ連れて行ってくださいまし」
テオドールを見る。
「……桶は、私が持ちますから」
王太子は声を上げて笑った。
噴水の水音に、その笑い声が混じった。
その年の夏、シュヴァルツ渓谷では村人自身の手で貯水槽の工事が始まった。
現地事務官として派遣された若い公爵令嬢が、泥だらけの帳面を抱えて水路を歩いていたという記録が、今も王立文書館に残っている。
六年後。
シュヴァルツ渓谷の冬に、熱病で死ぬ者はいなくなった。
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