第2話「絶望の村と改革の狼煙」
王都を出発して、揺れる馬車に身を任せること十日。
アルス・フォン・リンドブルムがたどり着いた任地、テル村の光景は、彼の事前の想像をはるかに超えて絶望的なものだった。
村へと続く道はぬかるみ、石ころだらけでまともに整備されていない。
村の入り口に立つ粗末な木の柵は傾き、家々は今にも崩れそうなほど古びて風雨に晒されている。
畑は容赦なく雑草に覆われ、やせ細った作物が力なく風に揺れているだけだった。
道端には汚物がたまり、鼻をつく不快な臭いが常に漂っている。
『これは……ひどいな。予想以上だ』
アルスは馬車の窓から外を眺め、静かにため息をついた。
村人たちの表情もまた、この瘦せ細った土地と同じくらい疲弊しきっていた。
泥にまみれた手足を投げ出し、物珍しそうに馬車を眺める彼らの瞳はひどく濁りきっていた。
「ここが、テル村にございます」
護衛として同行してきた数少ない供回りの中から、老執事のセバスが硬い声で告げた。
彼の顔にも隠しきれない落胆の色が浮かんでいる。
王宮の清潔な環境で育った彼らにとって、この光景は耐えがたいものだろう。
代官の館とされる建物も、他の家より多少大きいというだけで、壁にはひびが入り、屋根の瓦はところどころ剥がれ落ちていた。
アルスが馬車を降りると、集まってきた村人たちの前に出た。
村長と名乗るしわくちゃの老人が、恐る恐る前に進み出て深々と頭を下げる。
「よ、ようこそおいでくださいました、アルス様。このような何もない村ですが、どうぞ、よしなにお願いいたしますだ」
その声はか細く、どこか諦めに満ちていた。
彼らにとって代官とは税を搾り取るだけの存在であり、新たな代官が来たところで何も変わらない、むしろ生活がさらに苦しくなるだけだと考えているのだろう。
『信頼を得るところから始めなければ、何も始まらないな』
アルスは穏やかな笑みを浮かべ、村長に向かって語りかけた。
「長旅で疲れた。まずは村の現状を見て回りたい。案内を頼めるだろうか」
村長は驚いたような顔をしたが、すぐに畏まって頷く。
代官が自ら土にまみれて村を見て回るなど、彼らの常識では前代未聞だったからだ。
アルスはセバスや護衛たちを館に残し、村長と共に村の中を歩き始めた。
歩きながら、アルスは村長に様々なことを質問した。
今年の収穫量、村の人口、病の流行、水事情。
村長の答えは、どれも芳しいものではなかった。
作物は毎年不作続きで冬を越すのがやっとであり、不衛生な環境のせいで病が流行りやすく、特に子供の死亡率が高い。
川の水は泥が混じり、飲み水にも苦労しているという。
「なぜ、井戸を掘らないのだ?」
「それが……掘っても良い水が出ねえので。それに、村にはもうそんな体力も残っておりやせん」
まさに負のスパイラルだ。
貧困が労働意欲を奪い、環境の悪化が健康を損ない、さらに貧困が進む。
この悪循環をどこかで断ち切らなければ、この村に未来はない。
一通り村を見て回った後、アルスは代官の館に戻り、村の主だった者たちを集めさせた。
彼らはこれから何を言い渡されるのかと、怯えたような顔でアルスを見つめている。
「今日から私がこの村の代官を務める、アルス・フォン・リンドブルムだ。皆に、これからやってもらいたいことが三つある」
アルスの静かな声が、埃っぽい部屋に響いた。
「一つ目。村中の清掃だ。道端の汚物を片付け、家畜の糞は指定した場所に集めること。明日、私がその場所を指定する」
村人たちがざわめく。
汚物の片付けなど、今まで誰も考えたこともなかったのだ。
「二つ目。全員、毎日必ず体を洗うこと。そして、食事の前には手を洗うこと。そのために必要なものは、私が用意する」
さらに大きくなるどよめき。
彼らにとって体を洗うなど、特別な日にしかしないのが常識だった。
「そして三つ目。川の水を直接飲むことを禁ずる。必ず一度沸かしてから飲むように」
「そ、そんな馬鹿な! いったい何のためにそんな面倒なことを!」
一人の男がたまらず叫んだ。
彼の言葉は、その場にいる全員の思いを代弁していた。
アルスはその男を真っ直ぐに見据えて言う。
「病をなくすためだ。この村で子供が多く死ぬのは、呪いのせいではない。目に見えない汚れが、体を蝕んでいるからだ。私の言う通りにすれば、病にかかる者は劇的に減るだろう。これは約束する」
目に見えない汚れ。
その言葉の意味を村人たちは理解できなかった。
しかし、アルスの真剣な眼差しと自信に満ちた口調には、有無を言わさぬ迫力があった。
そして、アルスは改革の第一弾として前世の知識を応用した秘密兵器の準備に取り掛かった。
『まずは衛生改善。公衆衛生の概念を植え付け、健康な労働力を確保する。それが全ての基本だ』
アルスは執事のセバスに、市場で大量の獣脂と薪を燃やした後の灰を集めるよう命じた。
セバスは訝しげな顔をしたが、主人の命令に黙って従う。
アルスは館の裏庭に大きな鍋を設置させ、自ら火を起こした。
集めさせた灰を水に溶かして上澄み液を作り、それを獣脂と共に鍋で煮込み始める。
前世では、理科の実験でやったことがある知識だ。
『鹸化反応。アルカリと油脂を反応させれば、石鹸とグリセリンができる。この世界にはまだ存在しない、魔法のような洗浄剤だ』
焦げ付かないように、木の棒でひたすらかき混ぜる。
最初は戸惑っていたセバスも、アルスの真剣な様子を見て手伝い始めた。
やがて、鍋の中身はどろりとした粘り気のある液体に変わっていく。
それを木の型に流し込み、冷まして固める。
数日後、粗末ではあるが確かな洗浄力を持つ固形石鹸が完成した。
アルスは早速村人たちを集め、その使い方を実演して見せた。
汚れた布が泡と共にみるみる白くなっていく様子に、村人たちは魔法でも見ているかのように目を見開いた。
「これを各戸に配る。先ほど言った通り、これを使って体と手を洗いなさい」
アルスは、完成した石鹸を無償で村人たちに配った。
これが、絶望に沈むテル村に投じられた改革の第一投だった。
さらにアルスは、農業改革にも着手する。
彼は村の畑を三つに分け、一つには小麦、一つには豆、そしてもう一つは休ませるという三圃式農業の導入を指示した。
地力を回復させながら、年間を通じて安定した収穫を得るための画期的な農法だ。
もちろん、村人たちの反発は大きかった。
先祖代々続けてきたやり方を変えることへの抵抗。
なにより、貴重な畑を一つ休ませるなど彼らにとっては信じられないことだった。
しかし、アルスは粘り強く彼らを説得した。
「私を信じて一年だけ試してみてほしい。もし収穫が減るようなことがあれば、その分の損失は私が全て補填する」
王族としての身分と、なけなしの私財を担保にしたアルスの言葉に、村人たちはしぶしぶながら従うことを決めた。
衛生改善と農業改革。
近代国家の礎となる二つの改革の狼煙は、今、辺境の寂れた村で静かに、しかし力強く上げられたのだった。
アルスの孤独な戦いが始まろうとしていた。




