第1話「第五王子の憂鬱と小さな野望」
登場人物紹介
◇アルス・フォン・リンドブルム
本作の主人公。
リンドブルム王国の第五王子。
前世は日本の歴史好き公務員。
転生によって得た現代知識を武器に、王国の近代化を目指す。
一見すると物静かな読書好きの青年だが、内には国家の未来を見据える冷徹な合理性と、民の暮らしを憂う熱い情熱を秘めている。
◇エミリア・クラインフェルト
下級貴族出身の若き女性官僚。
高い実務能力と清廉潔白な人柄を持つが、旧態依然とした貴族社会に失望していた。
アルスの革新的な政策と理想に感銘を受け、彼の最も信頼する側近となる。
その的確な分析力と事務処理能力は、アルスの改革に不可欠な存在。
◇バルツ・アイゼンハンド
王都でも名の知れた頑固者の鍛冶職人。
伝統的な武具作りに行き詰まりを感じていたが、アルスが持ち込んだ未知の技術の設計図に心を奪われる。
以降、アルスの技術開発を一手に担う工房長となり、蒸気機関や新兵器開発にその情熱を燃やす。
◇ゴードン・シュタイン
抜け目のない中年の行商人。
金儲けが第一だが、義理人情に厚い一面も持つ。
当初はアルスの政策を半信半疑で見ていたが、テルフォードで生産される特産品の圧倒的な商品価値に気づき、アルスと専属契約を結ぶ。
その広い人脈と商才で、アルスの経済政策を支える。
◇ジークハルト・フォン・リンドブルム
リンドブルム王国の第一王子。
次期国王の最有力候補。
プライドが高く、伝統と権威を重んじる保守的な思想の持ち主。
突如として頭角を現した弟アルスを危険視し、様々な策謀を巡らせてその台頭を阻止しようとする。
磨き上げられた大理石の床に、高く開いた窓からの陽光が鋭く反射している。
リンドブルム王国の王宮は、今日も変わらず重苦しい静寂と退屈な空気に満ちていた。
壁に掛けられた歴代国王の重厚な肖像画だけが、この国の歴史の長さを物言いたげに見下ろしている。
その王宮の一角にひっそりと存在する書庫の片隅で、一人の少年が分厚い革張りの本に没頭していた。
艶やかな黒髪の奥から覗く、まだ幼さの残る横顔。
年は15歳ほどだろうか。
彼の名はアルス・フォン・リンドブルム。
この国の第五王子である。
『今日も平和だ。平和すぎて欠伸が出る』
アルスは内心でつぶやきながら、静かに本のページをめくった。
古い紙の擦れる乾いた音が響くほど、彼の周囲には誰もいない。
兄や姉たちは、剣の稽古や魔法の訓練、あるいは己の権力基盤を固めるための社交に忙しく立ち回っている。
第五王子という、王位継承権からは限りなく遠い立場にある彼を気にかける者など、この広い王宮にほとんど存在しなかった。
魔法の才能は凡庸であり、剣の腕に至っては中の下である。
有力な母方の実家もなく、誰からも期待されていない空気のような王子。
それが、現在のアルスに対する王宮内の絶対的な評価である。
だが、彼自身はその孤独な状況をむしろ好ましく受け入れていた。
『目立たず、騒がれず、知識を蓄える時間がたっぷりある。悪くないじゃないか』
彼の頭の中には、この世界の誰も知らない膨大な秘密が眠っている。
アルス・フォン・リンドブルムは、かつて現代日本で生きていた一人の公務員の生まれ変わりだったのだ。
歴史、特に近現代史をこよなく愛した彼は不慮の事故で命を落とし、気づけばこの剣と魔法の世界に王子として生を受けていた。
転生当初は混乱したものの、生来の合理的な思考ですぐに状況を受け入れた。
そして、この中世ヨーロッパによく似た世界が、技術的にも社会的にもあまりに遅れているという事実に気づいたのだ。
衛生観念は低く、農業生産性も低い。
政治は貴族たちの権力争いに終始し、経済は非効率なまま淀んでいる。
『もったいない。あまりにも、もったいなさすぎる』
アルスの脳裏には、地球で人類が何世紀もかけて築き上げてきた数々の知識が渦巻いていた。
産業革命、市民革命、科学技術の進歩、効率的な行政システム。
それらを使えば、この停滞した王国を、いや、この世界全体を劇的に変えることができるかもしれない。
そんな途方もない野望が、静かに彼の胸の奥底で青白い炎となって燃えていた。
「アルス王子、陛下がお呼びです」
不意に背後からかけられた声に、アルスは本から顔を上げた。
そこに立っていたのは、皺深く腰の曲がった年老いた侍従だった。
『父上が? 珍しいな』
国王であり父であるフリードリヒ三世はすでに老境に差し掛かり、国政のほとんどを第一王子であるジークハルトとその取り巻きに任せきりにしている。
その父が、存在感の薄い五男をわざわざ呼び出すなど、アルスの記憶にある限り初めてのことだった。
アルスは本を閉じ、侍従に促されるまま玉座の間へと向かった。
巨大な扉が開かれた先には、豪華な玉座に深く腰掛けた父王と、その脇に傲然と立つ兄ジークハルトの姿があった。
ジークハルトはアルスを一瞥すると、見下すような視線を隠そうともせずに鼻を鳴らした。
「アルスよ、よく参った」
父王のかすれた声が、冷たい石造りの広間に響く。
「お前に、新たな任を与えることになった」
『新たな任、ね。どうせろくな話じゃないだろうが』
アルスの予想通り、父王の口から告げられたのは事実上の左遷であった。
「北方の辺境、テル村の代官に任ずる。かの地は痩せており、民も疲弊していると聞く。お前の力で、かの地を立て直してみせよ」
テル村。
その名を聞いて、アルスの脳裏に王国の地図が鮮明に浮かび上がった。
帝国の国境にも近い、山間の寂れた小さな村だ。
これといった産業もなく、税収もほとんど期待できない、国から忘れ去られたような土地である。
15歳になった王子に与える最初の任としては、あまりにも酷いものだった。
遠回しに、お前はもう王宮には不要だと言い渡されているのと同じである。
隣に立つ兄ジークハルトの口元が、勝ち誇ったように歪んでいるのが見えた。
おそらく、この人事を裏で画策したのは彼だろう。
目障りな弟を今のうちに厄介払いしておこうという、浅薄な魂胆に違いなかった。
他の者であれば絶望し、運命を呪って腐ってしまうような状況である。
しかし、アルスの心は意外なほど冷静だった。
いや、冷静さを保ちながらも、その奥底では抑えきれない歓喜に打ち震えてさえいた。
『辺境の村の代官……か。素晴らしい!』
王都では常に誰かの監視の目がある。
兄たちの妨害も容易に受けるだろう。
何か新しいことを始めようとしても、既得権益にすがる旧弊な貴族たちがこぞって反対するに決まっている。
だが、辺境の誰も見向きもしないような土地ならどうだろうか。
そこは誰にも邪魔されず、自分の裁量で自由に物事を進められる、絶好の実験場ではないか。
『与えられたこの小さな箱庭で、俺の知識がどこまで通用するのか試してみよう。近代化改革の、第一歩だ』
アルスは静かに頭を垂れ、完璧な所作で恭順の意を示した。
その表情は穏やかだったが、伏せられた瞳の奥にはこれから始まる壮大な計画への確信と、燃え盛るような野心の炎が宿っていた。
「謹んで、お受けいたします。父上」
その声はまだ少年のあどけなさを残していたが、聞く者にかすかな畏怖を抱かせるほどの静かな力強さに満ちていた。
ジークハルトはそんな弟の様子に一瞬だけ顔をしかめたが、すぐに興味を失ったようにそっぽを向いた。
彼にとって、アルスはもはや過去の存在でしかなかったのだ。
だが、彼らはまだ知らない。
この日王宮から追いやられた一人の無力な王子が、やがて王国、いや大陸全土の歴史を根底から揺るがす存在になるということを。
アルスの小さな、しかし確かな一歩が、今まさに踏み出されようとしていた。




