side遊星
遊星はため息をついた。
来月の合唱祭に向けて、いつの時間でもどこかしらの教室から生徒の合唱が聞こえてくる。最初は気持ちよく聞こえたが、合唱練習のおかげで帰宅時間が遅くなり寝不足の今の遊星には、頭痛の種になっていた。
「あれ、雨宮先生。少しやつれたんじゃないですか?」
玉枝先生が気遣うように声をかけてくれた。
「最近寝不足で……」
妙な空気は、禁句を言ったとき以来一度も起きていない。菜奈芽の言うとおり、口にしなければ何も起こらないのだ。
「ご飯はちゃんと食べてます?」
「あ……いや……」
毎日コンビニ弁当だなんて、言えやしない。
育ち盛りの娘もいるのだし体にあまりよくないとわかっていても、この忙しさではろくに料理もできない。その上遊星は、料理がものすごく苦手だった。
気を遣って「おいしい」と言ってくれる娘の顔を見ると、もっとため息が出た。
鈴木先生が今日は帰っていいと言ったが、遊星は帰る気にはなれなかった。誰もが見てみぬふりをするなか、合唱練習のような自由なときに姫野は菜奈芽をいじめた。言葉や笑いや、ときに暴力で。
注意しようとすると、長い前髪の奥で菜奈芽が戒めるように睨み付ける。禁句のせいで教師には相談できないし、姫野側である生徒たちには尚更だ。
初めは信頼できると思った玉枝先生だが、妹の菜奈芽を見捨てるほどの薄情さがわかり、信用しきれなくなっていた。当たり障りのない会話はするが、気軽に相談できるわけではない。
どうしたらいいのか……。遊星は頭を抱えるしかなかった。
──こんなとき、ほのかだったら。
妻のことを考える。そうだ、玉枝先生を信頼しかけたきっかけは、その名前だったじゃないか。ほのかと似ていたから……騙されたのだ。
「先生?」
質問に来た小夏も心配そうにしてくれた。
「悩み事ですか?」
華原さんなら──しかし。華原さんも姫野側の人間。いつも菜奈芽のいじめを見てみぬふりをしている。
「『あなたが気づいていなくても愛している人がいる。その人のことを、心配させたり泣かせたりしてはいけない』って誰かが言ってました。1人で抱え込まないでくださいね?」
──はっ
何かが音をたて、頭に明かりが点くように、霧が薄くなるような錯覚に陥った。まだ晴れたわけではないが、出口が近いような気がしてきた。
「その言葉……」
「え?」
華原さんは信頼していい。どこかで誰かが遊星にささやいた。
今は話せない。
でもいつか、近いうちに話し相談しようと、心に決めた。どうしてそんな気になったのか、わからなかったが。