~百二十六の巻~妄執
目の前の光景が、大海様も、其の女子も、全て動かぬ・・・、何の音も、誰の声も、何も聞こえぬ。
ただ、キラリと光る小太刀の切っ先だけが、何故か鮮明に私の目に飛び込んできた。
そして其の切っ先が真っ直ぐに狙う先は・・・、
私は其れに思い至ると、声を出すより先に、体が動いておった。
(嗚呼!体が鈍い!)
まるで夢の中だ。
必死に走ろうとしておるのに、ちっとも体が前に進まぬ!
足が縺れて、絡んで、まるで何かが私の行く手を遮る為に押し戻そうとするかの如き、強き向かい風の中を進んでおる様だ。
あの御方のお傍に参りたいのに、体が思う様に進んでくれぬもどかしさを感じながら、私は水の中を藻掻いて進む様に、見苦しく手足をばたつかせながら、必死に必死に、ただ大海様のお傍を目指した。
私が気付いた事に気が付いたのか、元々丁度動き出そうとしておったのか、其の女子が潜んでおった祠の陰から飛び出して来たのは、私が駆け出したのと、ほぼ同時だった。
其れ迄、誰一人其の女子の存在に恐らく気付かなかった筈だ、崖下の小さな祠の裏に、すっぽりと其の小柄な体は隠されておったのだから。
其れ故、恐らく其の場におった誰もが、私が走り出したのは、私を案じて駆け付けてくだされた大海様のお傍に喜んで向かうておるだけなのだと、思うたに違いない。
其れが、結果として皆の反応を鈍らせてしまうたのだった。
本来真っ先に私は声を出すべきだったのに、其れが出来なかった。
人は突然の恐怖や驚きに対しては悲鳴すら失うのだと、生まれて初めて身を以て知った。
私が漸く声を発せたのは、大海様の目の前迄、やっとの思いで辿り着けた其の時だった。
「大海様!」
私は目の前に迫る大海様の腕を掴むと、其のまま私に可能な渾身の力で其の腕を引き、其れにより前のめりになられた大海様を押し退ける様に其のお背中の前に、無我夢中で飛び込んだ。
「あうっ!」
一瞬辺りは、シンと静まり返った。
誰しもが何が起こったのか、理解出来ておらぬに違いない。
私ですら解っておらぬのだから。
ただ私の前には、まるで私に覆い被さる様に、見知らぬ女子が凭れ掛かって、私は其れを受け止めた壁の様だと思うたが、直ぐに其れは違う、真の壁は、二人の女子の重さを、もろに受けておられる大海様だと、斯様な状況の中で暢気に私は思うておった。
時が止まった様な其の静寂を破うたのは、此迄十七年共に暮らして来て、此れまた聞いた事も無い、狂気にも似た笹野の悲鳴だった。
「きゃあー、嫌ぁー!!!、姫様ぁー!!!」
笹野の悲鳴が辺りに響き渡ると、
「珠?」
次に大海様の戸惑われた様なお声が聞こえた。
私が、
「おお・・み・・さま、お・・けが・・あ・・りま・・せ・・ぬか?」
息を切らしながら何とかお応えすると、
「珠?」
再度怯える様な擦れた声で私の名を呼ばれた。
然れど其の時、私が大海様に応じるより先に、この世の者とは思えぬ、世にも恐ろしき狂うた怒声が、私の目の前の女子から発せられた。
「この!この!!お前はー!!!」
「何故邪魔するー!!!」
「皇子様は私の夫!誰にも渡さぬ!!!邪魔立てするなー!!!」
「お前は、お前は!最後の最後迄、何故私の邪魔を!」
「邪魔だ!邪魔だ!!邪魔だぁー!其処を退けー!私が皇子様と参るのだー!」
恐ろしい形相、恐ろしい言葉、然れど悪鬼の様なこの女子が、都で随一の美姫と評判の左大臣家の志摩姫様だと、私は其の時気が付いた。
(其れなら・・・、)
(其れなら!)
(私は負けぬ!!!)
「嫌です。」
私はにっこりと笑うてそう申し上げると、最後の力を振り絞って、勢いのままに私の体に突き刺さった小太刀を未だに握り締めておられる志摩姫様を、思い切り突き飛ばした。
私は、私は!もう二度と私の大切な人を、人に譲ったりせぬ!!!
志摩姫様は何もご存知無い。
私が如何に傲慢で嫉妬深い、独占欲の強き女子か。
大海様は私の夫となる御方!
誰にも渡さぬ!!!
私は何と酷き女子なのか!
まさか反撃されるとは思うておられなかったのか、私に突き飛ばされた志摩姫様が、よろよろと其の場に尻餅をつかれたのを見て取ると、私はガクガクする足と、激しい痛みに体を折りながら、其れでも何とかふらふらと後ろを振り返り、最早一人では立っておられなかったので、其処に居られる私の夫となられる大切な御方に、誰にも渡しませぬとしがみ付くと、其のまま其の場に崩れ落ちた。




