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~百十の巻~  旅立ち

 入り口のところ迄行くと、桔梗屋殿が、私達を待っていてくだされた。


「桔梗屋様、ありがとうござりました。」


「お陰様で、無事に話を付けられました。」


私達がぞろぞろと出て来たのを見た途端、桔梗屋殿の表情がほんの一瞬動いたのを私は見て取ったが、其れは本当に僅かな間で、見張りの男達は桔梗屋殿の表情の変化には全く気付く様子は無かった。


そうして直ぐに何時もの穏やかな笑顔を浮かべると、


「其れはお役に立ててようございました、では戻りましょう、お騒がせ致しました。」


と、最後は見張りの男達に丁寧に会釈をなされたので、私達も全員其れに(なら)うて、そそくさと店を後にした。


店から出て曲がり角のところ迄来た時に、何気ない振りをして振り返って見ると、見張りの二人は何も気付いた様子も無く、来た時に見た姿と同様に、二人並んでただ前を向き立っておった。


私は逸る気持ちを必死に抑え、出来る限り普通に、其れでも出来る限り早く、前に進む事に集中した。


誰一人、桔梗屋殿でさえ、声を発する者は居らぬ。


皆の緊張がぴりぴりと伝わうてきた。


漸く桔梗屋殿の店が見えてきた時には、かなりほっとした事は言う迄も無いが、まだこの場所では、全く安心等出来ぬ。


すると店から二人の女人(にょにん)が顔を出した。


其の者達は、此方(こちら)を見ると、腰を折って丁寧にお辞儀をした。


「柚子?楓?」


予想もしなかった二人の出迎えに驚いた私は、思わず其れ迄(つぐ)んでおった口を開いてしまうた。


「お帰りなさいませ、牛車を二台ご用意させて戴いております、一台は当家の牛車、もう一台は、桔梗屋殿のお内儀が調達してくだされた此方(こちら)の牛車にござります。」


「当家の牛車は目眩ましに、楓を乗せて伊勢の春野の所迄やりまする、そして此方(こちら)のもう一台の牛車は、近江の私の里迄向かわせまする。」


「あ、ありがとう!助かりました。」


「替えの衣をお持ちしてござります故、此方(こちら)に急ぎお召しかえを!」


「弥生様!桔梗屋殿のお店の中へお早く。」


親子を店の中に入れて、道具箱の蓋を開け御子を外に出すと、柚子が手際よく二人に持参した衣を着せてゆく。


「其の衣は・・・、」


「はい、奥方様よりお預かりしました、奥方様が以前にお召しになられておられた衣と、若君が幼き折に着用なされておられた衣です。」


「お母上様が?!」


「はい、此れを羽織っておれば、良い目眩ましになるに違い無いと仰せになられて、ご用意くだされました。」


「何と・・・、そうでしたか・・・、」


私は親子を柚子達に任せると桔梗屋殿に向き直った。


「偽りを申して申し訳ござりませんでした、決してご迷惑お掛けせぬ様に致しまする。」


「然れど、万が一、何か不都合が生じましたら、私に何が出来るか分かりませぬが、出来る限りの事は致しまする。」


私が其の様にお詫びの言葉を申し上げると、


「何の事を仰られているのか、さっぱり見当もつきません。」


「お嬢様は何も嘘等付いておられません、お知り合いの方の為に店を譲り受ける為の手付けを渡しに行かれただけの事、私は其れ以上の事は存じませんし、何も聞いても見てもおりません。」


「桔梗屋殿・・・、」


其の時、


「お支度整いました。」


という柚子の声が響いた。


「急ぎ牛車へ!」


こうして二台の牛車が逆方面に旅立って行った。


別れ際、弥生殿が涙ながらに、


「何とお礼を申し上げて良いか分かりません、本当にお世話になりました。」


と何度も頭を下げる故、


涙もろい笹野も、ぽろぽろぽろぽろ涙を流しながら、お達者でと手を握り合うておった。


「奥様、私の様な者が申せた義理ではござりませんが、風矢様と私は、何も無かったとは申しませんが、ただ一夜の事なのです。」


「あの日風矢様は、大層深酒なされて意識が朦朧とされておられて、何度も何度も、笹野、笹野と奥様をお呼びになられておられたのでございます。」


「私は其れ程迄に想われていらっしゃる奥様が羨ましくて、嫉ましくて・・・、気付いた時には、はい、と返事をしておりました。」


「其れで・・・、誠に申し訳ございませんでした。」


「風矢様は翌朝目覚められると、目に見えて真っ青になられて・・・、」


「然れど風矢様は、其れだけの相手の私の様な女の為に、あの様に責任を感じてくだされて、命懸けで助けてくださる様な優しい御方。」


「私は、ずっと思うておったのです、この子の父親が、風矢様だったらと!」


「故に禎親様に風矢様を惑わす様に言われた折、もしかしたら願いが叶うやもしれぬと、ほんの一瞬、ほんの一瞬、夢見てしまうたのでございます、誠に申し訳ござりませんでした。」


「風矢様のお心には、あの頃も今も、お一人しか住まうておられませぬのに・・・、風矢様ははっきり仰いました、子は責任を持って育てるが弥生殿とは二度と会えぬ、私の妻は生涯唯一人笹野だけだ、許して欲しい、と。」


そう淋しそうに微笑むと、ゆっくりと頭を下げて、親子は近江の地へ向かうて、静かに旅立って行った。


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