~百七の巻~ 桔梗屋
私は桔梗屋殿の店の前迄来ると胸に手を当てた。
(セイに貰った夫婦の証の指輪・・・、大海皇子様に戴いた硬玉の勾玉の首飾り・・・、私は一人じゃない・・・、どうか、私にお力をお貸しください!)
目を瞑り一瞬祈った、そして笹野に頷いて見せる。
「もし、済みませぬ~!」
笹野の声が店内に響いた。
すると直ちに、
「はい、お待たせ致しました、どうぞ、中にお入りくださいまし。」
と店の者が出て来た。
案内されるまま、店に入ったところ、中には、やはり何れかの貴族の屋敷の家人と思しき男女合わせて三名の者達が、それぞれ別の店の者と何やら商談中だったが、其の中には桔梗屋殿は居られなかった。
「桔梗屋殿はご在宅ですか?」
其れをさっと確認すると、笹野が小声で問い掛けた。
「はい、主は只今奥に居りますが、失礼ですがどちら様でござりますか?」
笹野の様子に直ぐに呼応して、同じく小声で店の者が確認してきたのに感心しつつ私が見ておると、奥から丁度桔梗屋殿が、何やら帳簿の様な冊子を携えて店に出て来られた。
そして店の入り口付近に居った私と目が合うと、直ぐに驚いた表情に変わり、飛んで来られると、
「此れは!斯様な処迄、如何なさりましたか!わざわざお運び戴かなくとも、御用の旨、遣いをくだされば、何時如何なる時でも、お伺い致しますものを!」
主のただならぬ様子に驚いておった店の者は、其れでも其処は桔梗屋の者、私達がかなりの身分と瞬時に判断すると、直ちに、旦那様に御用でお出でとの事です、と小声で主に伝えた。
桔梗屋殿は其れだけで直ぐに状況を察し、
「狭い処で申し訳ごさりませんが、どうぞ奥にお入りください。」
と私達を奥座敷に案内してくだされた。
桔梗屋殿の屋敷は、狭い等とは明らかに謙遜で、貴族の屋敷にも引けを取らぬ程の、美しく整備された庭園が奥に広がる、かなりの邸宅だった。
◇◇◇◇
「改めまして、珠姫様、斯様な処迄、ようこそお出でくださりました。」
すかさずお茶と茶菓子を運んで来た女中が部屋から出て行くと、桔梗屋殿は手を突いて挨拶してきたので、
「お顔を上げてください、本日は火急にて、どうしても桔梗屋殿にご相談させて戴きたい案件がござりまして、参りました。」
ご都合も伺わず、突然参りました事、お詫び申し上げます。
と私がご挨拶申し上げると、
「とんでもござりません、私でお役に立つ事がござりましたら、何なりとお申し付けください。」
そう申されて精悍なお顔を上げると私達に笑顔を向けてくだされた。
桔梗屋殿は、お父様より若干年上と以前に申しておられた事から、恐らく四十代前半位の、物腰の柔らかい御方で、嘗ては陛下が派遣された唐への使節に随行してあちらの商人との交流を図り、唐との交易も行っておられる、都でも随一の商人だった。
お父様も其の正確で迅速な仕事ぶりを高く評価なされておいでで、右大臣家では、全ての日常品の調達から屋敷管理の為の職人の差配迄いっさいがっさい、桔梗屋殿にお任せしておった。
故に私も都に戻うてからは、度々顔を合わせており、余り男の方と接する機会が無い私が打ち解けてお話し出来る、数少ない御人の一人だった。
私は桔梗屋殿の常と変わらぬ爽やかな笑顔につられて、斯様な非常時にも拘らず己も笑顔を浮かべておる事に驚きつつ、
「ありがとうござります、実はこの笹野が、以前より其の料理の腕前を使うて、小料理屋をやりたいと申しておりまして、此度二人目の子を身籠りましたのを機に、私共の屋敷を辞して其の準備を始めたいと申しまして・・・、」
「笹野様が・・でござりますか?!」
笹野が屋敷を辞する等、桔梗屋殿には思うてもおらぬ話だったのだろう、明らかに怪訝そうだ。
確かに絶対有り得ぬ話故、笹野を知る人なら到底信じられぬだろう、現に笹野は、
『例え何がござりましょうとも、風矢様共々、姫様のお側を、生涯離れませぬ。』
と常々豪語しておるのだ。
やはり少々設定に無理が有ったかと、内心焦っておると、
「はい、やはり子が居りますと、ちょろちょろちょろちょろ致しますもので、気になって仕事に集中出来ませず、このままでは、反って皆の足手まといになりかねず、ここのところ悩んでおりました、すると風矢様が、姫様のお側には己の妹を寄越させる故に安心せよと申してくださりまして、然も小料理屋をやりたいなら丁度良い店が在ると、此方から程近くの店を紹介してくださりまして・・・、」
「この近くの?」
「はい、弥生さんの店でござります。」
「弥生さんの?弥生さん、店を閉めるのですか?初耳ですが・・・、」
「まだ内々の話なのです、お店が売れぬ事にはどうにもなりませぬ、とご本人も申されておられました。」
「丁度桔梗屋殿にご相談させて戴こうと思うておられた矢先に、私が店を探しておるという話を風矢様が持ち掛けられた由、正式に決まり次第桔梗屋殿にはご報告させて戴く予定でおられたのでしょう。」
「そうでしたか、其れは良い買い手が見付かり、喜んでおられたのではないですか?」
「はい、其れがおかしいのです、昨日手付けをお渡しする約束でござりまして、お持ちしたところ、店は閉まり、其れどころか、店の前に男が二人立ちはだかっておりまして、弥生さんは如何されたのか伺っても、何でも無い、邪魔だから帰れの一点張りで取り合うてもくれず、困り果てて姫様にご相談申し上げましたところ、取り敢えず桔梗屋殿にご相談致しましょうと、本日、勿体無くも、共にお出でくだされたのです。」
「は?弥生さんの店が閉まって、其の前に男が立ちはだかって?」
「其の様な話は聞いておりませんでした、今も其の男達は居りますんでしょうか?」
驚いたご様子の桔梗屋殿は、真実何もご存知無かった様で、逆にそう問い掛けてこられた程だった。
「はい、此方にお伺いさせて戴く前に確認致しました、それでどうにかして弥生さんと話をさせて戴きたく、桔梗屋殿のお力をお借りしに参った次第でござります、手付けの刻限を本日迄と言われておりまして、遅れたら他の方に話が行ってしまうのではと気ばかり焦ってしまいまして・・・、」
私達の話を聞くと、
「成る程、其れは確かに妙な話でござりますね・・・、では早速見に参りましょう!」
膝をパンッと叩くとそう申されて早くも立ち上がられた。
「桔梗屋殿!共にいらしてくださりまするか?」
「はい、勿論にございます、弥生さんの店は私が纏めております一角にござりますれば、私はこの辺りを任されておる責任もござります、当然の事です。」
「ありがとうござります、そう仰って戴けて助かりました、ただ一点、勝手な話にござりますが、外聞もござりますれば、当家の名は出さぬ様にお願い出来ぬでしょうか?」
「はい、承知致しております、お任せください。」
「では直ちに参りましょう!」
私達は桔梗屋殿と共に、目当ての女人・弥生殿の店に向かう事となり、表に出るなり、待たせてあった皆に合図して、念の為に厨房に詳しい台所方の者達を連れて来た旨を途中桔梗屋殿に説明しながら、とうとう其の店の前迄辿り着いたのだった。




