第2章 引き裂かれた家族
【焦土の残り火と、魂の片割れ】
昭和21年。
日本中が敗戦の虚脱感から立ち上がり、黒い焦土に緑の芽が吹き始めた復興の年。
松本の伊崎治郎蔵の屋敷に、ひとつの新しい命が産声を上げた。
千夜子より二歳下の妹、千冬である。
高峰秀子の「銀座のカンカン娘」が流行っていた。
だが、千夜子にとっては、赤いブラウスなど、遠い世界の出来事だった。
伊崎家は既に貧しく、千夜子の着ている服もボロボロだったからだ。
幼い千夜子にとって、赤ん坊の千冬は単なる妹以上の存在だった。
それは、過酷な家族の不協和音の中で唯一、自分が「守るべき聖域」として現れた、魂の片割れのような存在であった。
活発な兄たちが泥遊びに耽り、家の中に飛び交う大人たちの殺気立った議論の声を追いかけるよりも、千夜子は揺り籠の傍らに座り、妹の頼りなげな指先を握っている時間に、何よりも深い安らぎを見出した。
「千冬、大きくなったら、ねえねと一緒にたくさん本を読みましょうね」
そう囁きかける千夜子の瞳には、幼子とは思えぬほどの慈しみと、未来への祈りが宿っていた。
しかし、姉妹が成長し、家の外の世界へと一歩を踏み出した時、世間という名の冷酷な「鏡」が二人を無慈悲に照らし出した。
千夜子は、幼い頃から近所でも評判の美形だった。
透き通るような白い肌、バッチリとした聡明そうな瞳。
彼女の姿には、気品が感じられた。
千夜子が道を歩けば、見知らぬ大人たちが足を止め、「可愛いお嬢ちゃんだこと」と、貴重な林檎や飴玉をそっと掌に乗せてくれた。
一方の千冬は、姉とは対照的な風貌を持って生まれた。
肌は健康的に黒く、顔立ちは不器用なほどに無骨だった。
姉のような人目を引く華やかさはなく、常に姉の影に隠れるような、目立たない少女へと成長していった。
千夜子が注ぐ無償の愛に、千冬は確かに救われていた。
しかし、同時に彼女の幼い胸の奥には、拭い去れぬコンプレックスの種が深く根を下ろしていた。
姉が褒められれば褒められるほど、姉の肌が白く輝けば輝くほど、自分という存在が泥に汚れた石ころのように色褪せて見える。
「どうして私だけ、お姉ちゃんみたいじゃないの?」
その悲痛な問いは、言葉として形を成す前に、千冬の心の中に冷たい澱となって降り積もっていったのである。
【硝子細工の家、二つに割れた食卓】
姉妹の間に生じた静かな、しかし確実な不協和音以上に、家全体を蝕んでいたのは「境界線」という名の毒だった。
治郎蔵と智代が、それぞれ過去の結婚から連れてきた娘――かをりと八千代。
この二人の間に流れる空気は、年月を追うごとに研ぎ澄まされた刃のように鋭くなっていった。
最初は、生活の些細な不平不満だった。
どちらがより多くの家事を負担したか。
どちらの着物が新調されたか。
自分の親が、相手の連れ子をいかに冷遇しているか。
しかし、やがてその声は消え、代わりに家を支配したのは、息が詰まるような「沈黙」だった。
ある時期を境に、二人は互いの存在を完全に無視し、同じ屋根の下にありながら、視線を合わせることさえ放棄した。
一人が台所に立てば、もう一人は部屋に閉じこもる。
通路ですれ違っても、そこにはまるで人間が存在していないかのような、空虚な空間だけが横たわっていた。
そして、この異常な対立を仲裁するどころか、むしろ扇動し、境界線を強固な「壁」へと変えてしまったのは、あろうことか親である治郎蔵と智代であった。
治郎蔵の愛情は、偏狭で、かつ峻烈だった。
彼は、自らの血を直接分けた連れ子であるかをりと政夫、そして後妻との子でありながら自らに似て愛らしい千夜子を、露骨なほどに寵愛した。
「お前たちは私の誇りだ」
治郎蔵はそう公言し、食卓の特等席に彼らを座らせた。
一方、智代の連れ子である八千代や隆夫、そして実の娘でありながら風貌の冴えない千冬に対しては、まるで存在を否定するかのように冷たく当たった。
彼らが失敗をすれば容赦なく怒鳴りつけ、成功しても一言の労いもかけない。
治郎蔵にとって、彼らは自分の「理想の家族」というキャンバスに紛れ込んだ、不純物のような存在だったのかもしれない。
対抗するように、母・智代もまた、自らの陣営を築き上げた。
智代は、治郎蔵から疎外されている八千代と隆夫、そして父の愛情から見捨てられた千冬を、執念深く、そして狂気的なまでの排他性を持って庇護した。
「あんな冷酷な父親に従う必要はありません。私たちは、私たちだけで支え合うのです」
智代の愛は、治郎蔵への復讐心と表裏一体だった。
ただ、1つ、例外があった。
それは、千夜子である。
千夜子だけは、父・治郎蔵から溺愛されながらも母・智代からも愛された。
きょうだいどうしが真っ二つに割れても、千夜子は、誰とも敵対しなかった。
千夜子は、外見が美しいだけでなく、敵を作らない人徳を備えた子どもだった。
【選別の儀式】
家族が食卓を囲む時間は、団らんの場ではなく、最も残酷な「選別」の儀式へと変貌した。
目に見えない深い溝が、畳の上を真っ二つに切り裂いていた。
治郎蔵の寵愛を一身に受ける側には、千夜子、かをり、政夫。
智代の防衛線に守られる側には、八千代、隆夫、千冬。
かつて、戦後の「平等」を掲げ、家の蔵を開放して見知らぬ人々に食糧を分け与えた治郎蔵であったが、自らの家庭という閉ざされた城郭の中では、誰よりも冷酷な「差別の支配者」として君臨していた。
千夜子は、その境界線の真ん中で立ち尽くしていた。
大好きな千冬が、父の無関心や厳しい叱責に震え、肩をすぼめる姿を見るたびに、千夜子の心は千々に乱れた。
「お父さん、千冬にも優しくしてあげて」
そう言いたい言葉は、治郎蔵の威厳に満ちた、しかし冷たい眼差しに遮られて飲み込まれた。
一方で、母・智代は自分に対して愛情を向けるものの、治郎蔵から愛されているのを見るとあからさまに嫌悪感を示した。
そういう視線も、千夜子の幼い胸を抉った。治郎蔵に可愛がられること自体が、智代の陣営に対する敵対行為として扱われるのだ。
千夜子にとって、家族とは「愛されるための場所」ではなく、「誰を愛することが正解なのか」という、あまりに重く、正解のない問いを突きつけられ続ける場所だった。
一人の妹を守りたいと願う心が、いつしか自分を家族の派閥争いの駒へと変えていく。
鏡合わせの姉妹の運命は、この引き裂かれた食卓の上で、複雑に絡み合いながら、後の悲劇へと続く細い糸を紡ぎ始めていた。
千夜子は、温かい食事の味さえも感じられぬほど、この家の底に淀む冷たい怨嗟の空気に、その多感な魂を染められていったのである。
他のきょうだいと違って、皆から愛され、大事にされる。
千夜子は、そんな理想の地位を手に入れていた。
しかし、そのことが千夜子を苦しめた。
千夜子は、いつも両陣営の間で、翻弄され続けたのだった。




