第3章 青い胡瓜の叛逆
【野の露と、孤独なる知性】
昭和24年。戦争が終わって四年が過ぎても、人々の腹を満たすのは依然として「飢え」という名の重苦しい影だった。
初夏の陽光が照りつける畑の畦道を、6歳の千夜子は4歳の千冬の手を引いて歩いていた。
「ねえ、お姉ちゃん……おなかすいた」
千冬の小さな声が、乾いた風に消えそうになる。
千夜子は立ち止まり、妹の痩せた頬を見つめた。
家に戻っても、待っているのは大根やカボチャが嵩増しされた、薄い粥のようなものだけだ。
ふと目をやると、生い茂る蔓の陰に、まだ指ほどの大きさしかない小さなキュウリが一つ、産毛を光らせてなっていた。
千夜子はその瑞々しい緑に吸い寄せられるように手を伸ばし、それをぷつりと、もぎ取った。
【収奪の季節】
地主として多くの田畑を所有していた治郎蔵でさえ、食糧事情は火の車だった。
戦後の食糧難を乗り切るための「供出」制度は、農家から容赦なく実りを吸い上げた。
手元に残る米は、大家族の口を糊するにも足りない、政府が決めた極限の量。
治郎蔵は、法や制度に抗うことが無意味だと独学の知性で理解していたからこそ、歯を食いしばってこれに従った。
伊崎家の食卓には、貴重な米を節約するためにサツマイモや麦が大量に混ぜられた、重い「代用食」が並んだ。
農家であっても、白米の輝きは遠い夢の中の出来事であった。
【知識という名の浮き世】
それでも、街の人々に比べればまだ、土に近い生活はマシだった。
近辺の駅には、都市部から着物や家財道具を抱えた人々が連日押し寄せていた。
農家の野菜と、自分たちの誇りであったはずの品々を「物々交換」するためである。
そんな折、智代は異彩を放っていた。
彼女は、物乞うように土下座する都市の困窮者たちの中に見え隠れする、没落した貴族や知識人たちの気配を鋭く感じ取った。
彼らが持ち込む古びた書物や、語られる学問の話。
智代は、家事という名の泥臭い労働を一切放棄し、彼らとの交流にのみ、自らの「なかくら」としての魂を燃やした。
二年前、一人の現職裁判官が「闇米を食べて生きることは、法を司る者として許されない」と配給のみで生き抜こうとし、餓死したニュースが世間を震撼させた。
「法に従えば死ぬ。法を破れば生きられる。どうする?」
智代は、そんな過酷な二択を内包した時代を、冷めた目で見つめていた。
家の中の家事は、連れ子たちや幼い千夜子が補っていた。
母の白い手は、鍬を握るためではなく、知的な対話のために温存されていたのである。
【ひとときの「蜜」】
「ほら、これ食べな」
千夜子は、もぎ取ったばかりのキュウリを千冬に差し出した。
小さな歯が、未熟な果実を噛み砕く。
微かな青臭さと、土の湿り気を含んだ水分。
それが、当時の彼女たちにとっての、唯一の、そして許されないはずの「贅沢」だった。
千夜子は、妹が夢中でキュウリを齧る姿を、どこか大人びた、悲しみを湛えた瞳で見守っていた。
母が知識の海を泳ぎ、父が制度の壁に立ち向かうその傍らで、千夜子だけは、この空腹という切実な現実を、幼い手でなんとか繋ぎ止めようとしていた。
【泥道の通学路、届かない水面】
昭和24年の春、千夜子は地元の小学校へ入学していた。
学校は、家から3キロほど離れた小高い丘の上にあり、6歳の足にはあまりに遠かった。
砂利道を、重い教科書を抱えて歩けば一時間弱。
夏は陽炎が揺れる熱に焼かれ、冬は信州特有の凍てつく風に頬を刺された。
当時の学校は、戦後のベビーブームを映し出すように、膨れ上がった生命力で溢れかえっていた。
1学年は実に17クラス。
1クラスに50人もの子供たちがひしめき合い、教室は常に熱気と喧騒で満ちていた。
千夜子はその巨大な群れの中で、目立たぬように、けれど凛とした佇まいで毎日を過ごしていた。
【境界線としての「体操服」】
地主として田畑を増やした父・治郎蔵であったが、戦後の混乱と供出制度の煽り、そして大家族の生計という重圧は、現金を極端に不足させていた。
さらに、家事よりも知的な対話を優先する母・智代は散財癖があった。
智代にとって、子供たちの身なりを整えることは優先順位の低い事柄であった。
千夜子には、新しい体操服や水着を買い与えられる余裕はなかった。
体育の時間は、家で着古した継ぎ接ぎのある普段着で参加した。
周囲には真っ白なシャツを眩しく着こなす子もいたが、千夜子は自分の格好を恥じる以上に、その服を汚さぬよう、しかし誰よりも懸命にグラウンドを駆けた。
「千夜子ちゃん、いいよ。そのまま参加しなさい」
先生も、そんな子供たちの事情を痛いほど知っていた。
同じように普段着で走り回る子は他にも数人おり、それは貧しさゆえの「黙認」という名の優しさでもあった。
【静かな見学】
しかし、どうしても越えられない壁があった。
水泳の授業である。
校庭の片隅にあるコンクリート造りのプール。
水飛沫をあげ、歓声をあげて水に戯れる同級生たち。その青い水面は、千夜子にとって物理的な距離以上に遠い世界のように感じられた。
水着だけは、普段着で代用するわけにはいかなかった。
千夜子は水泳の授業がある日は決まって、プールの脇にある日陰のベンチに座り、膝を抱えて見学をした。
「今日も見学か、伊崎」
先生の問いに、千夜子は静かに「はい」とだけ答えた。
水面に反射した光が、千夜子の瞳を眩しく照らす。
隣には同じように見学している子が何人かいたが、千夜子は彼らと傷を舐め合うような真似はしなかった。
「おなかすいたね」
「うん」
そんな会話さえ贅沢に思えるほど、空腹と孤独は静かに寄り添っていた。
ただ、千夜子はベンチから水面を見つめながら、ただやり過ごすしかなかった。
泥まみれの通学路を歩き、水辺にすら入れない日々。
その不自由さの中で、千夜子の魂は、誰にも奪われない「言葉」と「思考」という名の翼を、少しずつ広げ始めていた。




