エピローグ 幽界への扉と新たな修行の始まり
【幽界への扉】
車のタイヤが濡れたアスファルトを叩く音が、進の意識の底で低く響き続けていた。
進は、隣に横たわる白い布に覆われた物体が、数時間前まで自分を叱り、励まし、愛してくれた母であることを、まだ脳の半分で拒絶していた。
逆噴射、炎、墜落。
ラジオから流れる不穏な言葉の断片が、母の死という個人的な世界の崩壊と混ざり合い、ぐにゃりと歪んだ現実を作り出していく。
(これから、どうなるんだろう)
中学2年生の少年にとって、明日の献立さえ想像できないほどの暗闇が、目前に口を開けていた。
親戚たちの顔、これからの生活。
考えても考えても、答えは出なかった。
重圧が少年の細い肩に食い込み、呼吸を浅くさせる。
だが、そのとき。
進の感覚が、一瞬だけ鋭敏に研ぎ澄まされた。
誰もいないはずの右側の空間から、言葉にならない「肯定」のような気配が立ち上ったのだ。
【不可視の誓い】
「進。私の声は、もう届かないのね」
千夜子は、進のすぐ隣でその横顔を見つめていた。
治郎蔵に導かれ、肉体の重力から解き放たれた彼女の視界は、今や現世の光景と、幽世の淡い光が重なり合って見えていた。
進の絶望が、黒い霧となって彼を包もうとするたび、千夜子の魂は激しく共鳴し、火花のような光を放つ。
「千夜子、行こう。ここから先は、もう言葉では救えない領域だ」
治郎蔵が静かに促す。
千夜子は進の右肩に顔を寄せ、その頬をなでるように、自身の霊体を重ねた。
進がふと目を見開き、何もない空間を視線で追う。
千夜子には分かった。
肉体というフィルターを失った今、自分の想いは、より純粋な「意志」となって進の深層心理へと流れ込んでいくのだ。
【「幽界母・千夜子伝」への序曲】
千夜子は、父・治郎蔵に引かれ、ゆっくりと車内から浮き上がっていった。
空高くから見下ろすと、冬の松本を走る霊柩車は、まるで大海原を漂う小さな木の葉のように心許ない。
しかし、その車を包み込むように、無数の光の筋が天から降り注いでいるのが見えた。
それは、かつて千夜子と関わった多くの人々、そして進の未来に関わる守護霊たちの予兆だった。
千夜子は、眼下に遠ざかる息子に向かって、最後の、そして永遠の別れを告げた。
いいえ、それは別れではない。
これから彼女が足を踏み入れる「幽界」という名の戦場での、新たな着任の挨拶であった。
人間として、母として接するのは今日で終わり。
これからは、補助霊、背後霊、そして守護霊として進に寄り添い、自らも霊格を上げないといけない。
(進、お母さんは勉強してくるわ。あなたがいつか、その暗い海から這い上がり、正義の門を叩くとき。そのとき、あなたの後ろで誰よりも強く光を放てる、本物の『守護者』になるために)
千夜子の意識は、まばゆい光の渦へと吸い込まれていく。
そこには、生前の苦労など比較にならないほどの、峻厳な霊的修行と、魂の成長を促す「学び」が待っている。
未熟な感情に揺れ、時に進の不遇に涙し、時に先祖の因縁に立ち向かう。
「進の母」から、一人の「守護霊の卵」へ。
千夜子の魂が、幽界の門をくぐった瞬間。
地上では、進が小さく鼻をすすり、初めて一筋の涙をこぼした。
それは、悲しみとともに、何故か湧き上がってきた不思議な「強さ」の始まりだった。
進の物語は、過酷な現世という名の荒野へ。
千夜子の物語は、愛を形に変える幽界という名の深淵へ。
二つの世界は、見えない糸で結ばれたまま、新たな朝へと向かって動き出した。
「進の母・千夜子伝」 ――完――
この続きは、続編で展開されます。ぜひ、ご覧ください。ほぼ毎日更新されます。
【栴檀外伝・幽界の母・千夜子伝】38歳で逝った進の母・千夜子は、一人息子の「その後」を案じ、父とともに、背後霊・守護霊となって支援する。
https://ncode.syosetu.com/n5513md/
ぜひ、ご覧ください。
がそれです。ぜひ、ご覧ください。




