第9章 墜落する世界、そして守護の調べ
【静寂の檻】
木曜日、突然の崩落が訪れてから、進は病院の椅子に座り続けていた。
松本の病院のロビーは、昼間は喧騒に包まれるが、夜になると酷く冷え込み、まるで深い海底のような静寂が沈殿する。進は、その冷たさに耐えながら、ただ病室の扉を見つめていた。
金曜日が過ぎ、土曜日が過ぎた。
進の意識は、病室の中にある生命維持装置の規則的な音に支配されていた。
ピッ、ピッ、ピッ。
その電子音が止まれば、母・千夜子の世界が終わる。それは単なる機械の停止ではなく、進にとっての「世界の終わり」そのものだった。
放課後、病室に担任の伊勢がやってきた。
進は、教室で見せるのとは全く違う、ひどく老け込んだ伊勢の顔を見た。
伊勢は、無数のチューブに繋がれ、かつての千夜子の面影を消し去ったその姿に、言葉を失っていた。
教師として、大人として、何らかの慰めの言葉を紡ぐべきだということは分かっている。
だが、その場に横たわっている圧倒的な「死の気配」の前に、伊勢の言葉はあまりに無力で、幼稚なものに思えたのだろう。
伊勢はしばらく立ち尽くし、ただ一度だけ、深く、深すぎるほどの礼をベッドに向けて行った。
その背中は、教壇に立つ教師のそれではなく、ただの人としての無力さをさらけ出していた。彼は何も言わず、足音を忍ばせて病室を去った。
その去り際、進は伊勢の背中に、自分と同じ孤独を見たような気がした。
【崩落の朝】
日曜日の早朝、奇跡は起きなかった。
機械の音が、長く、空虚な一本の線へと変わった。
夜明け前の松本の空は、墨を流したように真っ黒だった。
千夜子の意識が、ゆっくりと肉体の檻から解き放たれていく。
(ああ、ようやく、痛みが消える)
千夜子の魂は、天井へと漂い上がり、眼下に横たわる自分自身の「殻」を見下ろしていた。
そこにはもう、苦しみも、重圧も、貧困も、智代の呪いもなかった。
そこへ、懐かしい気配がした。
「よく頑張ったな、千夜子」
振り返ると、そこには父・治郎蔵が立っていた。
生前、彼が愛した煙草の匂いと、少し硬い温もりが、千夜子を包み込む。
千夜子は、ようやく自分を許すことができた。
私は、母として、女として、最後まで逃げずにやり遂げたのだ、と。
だが、千夜子は天へと昇る足を引き止めた。
病室の椅子で、呆然と、ただ抜け殻のように座り込んでいる息子・進の姿があったからだ。
(……進。ごめんなさい。でもね、私はここから消えるわけではないの)
千夜子は、昇華していく魂の力を振り絞り、息子の肩に手を置こうとした。
もちろん、進には触れることも、視ることもできない。
だが、千夜子は誓った。
あなたの人生がどれほど過酷な荒野であっても、私はあなたの守護霊として、あなたの歩く先に光を灯し続ける。
たとえ世界が墜落しようとも、あなただけは守り抜く。
【墜落する世界】
病院は、慌ただしく死の手続きを進めた。
千夜子という人間が、社会というシステムの中で「死亡」という記号に置き換えられていく。
病院のロビーでは、朝のニュースが流れていた。
世界は無慈悲にも、個人の悲劇などお構いなしに、別の巨大な悲劇を映し出していた。
東京、ホテルニュージャパンを焼き尽くす炎。
テレビ画面の中で、炎に追われて窓から飛び降りる人々が映し出されている。
進は、その光景を、魂の抜けたような目で見つめていた。
世界は燃えている。
千夜子が死んだこの瞬間に、世界もまた、別の場所で焼け落ちている。
その事実に、進は眩暈を覚えた。
千夜子の遺体を乗せた車が、自宅へと向かう道中。
車内には、重苦しい沈黙が張り詰めていた。
沈黙に耐えかねた誰かが、カーステレオのスイッチを入れる。
そこから流れてきたのは、歌ではなく、冷徹なニュースの音声だった。
「……逆噴射……」
その言葉が、耳に突き刺さった。
K機長による航空機事故。
乗客を巻き込み、海に沈んだ巨大な機体の惨状。
「逆噴射」
その言葉は、何故か進の胸の奥深くに、錆びついた釘のように打ち込まれた。
かつて母・千夜子と手を引き合い、逃げ惑ったあの岡崎の夜の記憶。
あの日、自分たちは懸命に人生を前に進めようとしていたのに、運命は何度でも私たちを「逆噴射」で引きずり戻そうとする。
進の日常は、その瞬間、音もなく崩落した。
これまで積み上げてきた勉強、夢、希望。それらすべてを乗せた進の人生という機体は、今、滑走路を外れ、暗い海へと向かって急降下を始めている。
【天上の眼差し】
車は、春を待つ松本の街を走る。
進は、窓の外を流れる灰色の景色を、涙さえ流さずに見つめていた。
もう、ここには母はいない。
あの温かい手も、励ましの言葉もない。
あるのは、冷たい現実と、終わりのない喪失感だけだ。
だが、進は知らない。
助手席と後部座席の間、ちょうど彼の右肩のあたりに、かつてないほど透明で、柔らかい風が吹いていることを。
千夜子はそこにいた。
かつての苦労に満ちた肉体は脱ぎ捨て、今は光の粒子となって、進を見守っている。
(進、泣かなくていいわ。私がいる。父さんが、守ってくれている)
進がふと、寒さを感じて肩をすくめた時、千夜子はそっとその肩に「温もり」という名の風を吹きかけた。
進は、何も見えないはずの空間に、一瞬だけ、母の優しい微笑みを見たような気がした。
それは錯覚かもしれない。だが、その錯覚が、絶望の淵に沈もうとしていた少年の心に、小さな灯火をともした。
墜落する世界の中で、進は一人ではない。
母・千夜子という名の「盾」は、姿を消したことで、むしろより強く、より深く、進の魂と一体化したのだ。
これから始まる、進の孤独な戦い。
理不尽で冷酷な社会、そして己の弱さと向き合う日々。
そのすべてを、千夜子は天上から見守り、治郎蔵とともに、静かに導き続けるだろう。
車のラジオからは、再び悲劇のニュースが流れる。
それは、K機長の逆噴射事故であった。
進は静かに目を閉じ、かすかな風の呼吸に耳を澄ませた。
それは、かすかだが、確かに生きている。
母の愛という名の、永遠の旋律だった。
千夜子の物語は、ここで終わる。
しかし、進の物語は、ここから新たな、守護されるべき道として始まっていく。
雲の上から、千夜子は呟く。
「進、負けないで。あなたが正しさを貫くなら、私も、あなたの守護者として、何度でも蘇るから」
千夜子はこのあと、進の守護霊の補佐役として、新たな学びと任務を背負うことになる。
死んだら終わり。
人はよく、そう話す。
千夜子も、ずっとそう思ってきた。
しかし、それは違うのだ。
千夜子には、それが分かりつつあった。
松本の街を抜ける車は、ただひたすらに、冬の終わりへと向かって走り続けていた。
進の横にずっと千夜子は寄り添っている。
進は、全くそれに気付いていなかった。(完)
この物語は、これで完結です。
ただ、続編があります。
【栴檀外伝・幽界の母・千夜子伝】38歳で逝った進の母・千夜子は、一人息子の進の「その後」を案じ、父・治郎蔵とともに、守護霊となって支援する。
がそれです。
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ぜひ、ご覧ください。




