そして①
あのあと、瀬良さんから連絡が入り、祖母が私を相続人として認めないこと、瀬良さんとの二度目の婚約破棄が決定されたと聞いた。
だが、彼は今までの功績から、特別顧問として陽ノ国屋製薬に入社することになったという。
少しあのわがままな祖母の元で働くことになった瀬良さんに申し訳なくなったが、彼はむしろやる気が出ました、と言ってなぜか嬉しそうだった。
そして、一年後――――
私はセミフォーマルを着て、ある大学の中にいた。
大手医療器具メーカーではああるが、専門職ではなく営業職で採用されていた私は、一年目ということもあって先輩の営業周りに同行することが多く、今回もその一環でのお仕事だった。
え?
それがこんななりで大学に来ることなのか、って?
そうなんだよ。
《日本医科歯科学会》っていう学会に企業ブースに出展するのさ。そんな企業ブースって一体の何をするのか、って? わが社の新規機器の実演販売係だね。
うちの会社が開発した機械はこんなことできますから、ぜひ一回お試しで使ってみて、良かったら買ってくださいねぇっていう営業なんですよ。まあ、最終的に購入に繋がらなくても、人脈作りも兼ねているのですが。
ということで、ここに来ていた私は目の前にいるスーツ姿の男性たちを見て、あの時を少しだけ懐かしんでいた。
あのあとは、無事に鹿野歯科まで帰ってくることができた。
だが、ここで問題が一つ残っていた。
そう。バイトの条件。
私は雇われるときに奥様から言われたこと。すなわち、「バイト中はバイトだけに集中し、他のことは一切、何も考えないこと」。粉を掛けるバイトたちから若先生を守ったこの条件は、私を苦しめていた。そして、今の私にはもう守れそうになかった。
そんな二つの思いに板挟みになって苦しんでいたある日、私は終業後、奥様に呼ばれた。
『やはり、あなたもこれまでのバイトたちと同じだったのですね』
奥様の部屋に入るなり、無表情でそう言われた私は少しホッとしたのを覚えている。あなたを解雇します、と続けられた言葉に、それでいいのだ、とも思ってしまった。
その日の午後診は大先生だったから、政幸先生に会うことなく鹿野家と別れを告げることができる。はい、と言った私の目は涙が浮かんでいなかったはずだ。
制服やシューズはそのままでいい、と言われたので、少し置いてあった荷物だけ引き取って、鹿野家を去った。
だが、アパートに帰ってからの私は酷かった。
よくあの場では平常心でいられたな、と思うくらい、泣きじゃくった。
いつもなら愛理に愚痴っていれば、すっきりとするのだろうが、その頃の愛理も忙しく、私は電話をするのをためらってしまった。
その後、私は逃げるようにあの町から去った。
大学自体はもう必要な単位は取れていたし、すでに就職先の近くに住居を用意していたので、そちらに移り住んだのだ。
そうすれば、この数か月間を忘れられるだろう――――。
私はそう思った。
しばらくして入社し、新米営業マンとして先輩の付き人としてあちこちで歩くうちに、一年もたっていない出来事だったが、やっぱりもう忘れていた。
そう、先週までは、ね。
先週のミーティングの時に、営業部のエースである佐々木先輩から日本の歯医者さんや歯学を研究している研究者さんたちが集まる学会に行く、という説明を受けた時、とうとうあの時の記憶がよみがえってしまった。この学会の中に政幸先生がいるのではないかと思うと少し緊張しまったのだ。
どういう顔をして会えばいいのだろうか?
私の違った意味での心配をよそに、佐々木先輩は一人の男性に持参した機器の資料を提示しながら、特長の説明をしていた。私はその説明を補足するように実際に機器を使って、演示してみせた。
「じゃあ、またよろしく」
一通り説明すると、男性は満足したかのように頷き、名刺を交換して去っていった。
「由良、お前のおかげだ」
先輩はブースに戻ってくるなり、お疲れさん、と言ってくれた。いえいえ、そんなことありませんよ、と私は謙遜した。私はただ、機器をいじくっただけだ。説明は一切していないので、これであの男性との交渉がまとまったら、先輩自身の功績だろう。
「そういえば、ランチョンセミナーで顔合わせしてもらいたい顧客がいるってことを覚えとけ」
先輩はお茶を一口飲むと、思い出したように言った。
「へぇ、その方もうちの機器を購入されているんですか」
私は少しだけ驚いた。
「ああ。まあ俺の同期なんだが、あのころから結構変わったやつでな。ま、会ってみれば奴の性格もわかるさ」
先輩は過去を懐かしむように言った。
いいなぁ。私もそうやって先輩みたいに過去を純粋に懐かしめるようになりたい。
そう思いながら、しばらく、次々と訪ねてくるスーツ族に説明やモデルの演示をしていった。
やがて昼になり、私たちはセミナーの会場へ向かった。結構大きいところでの開催ということだけあって、そこに来ている人は多かった。人気の講座なんだろうか。
「あー。あいつに言われたから来たけれど、見つけられねぇ。つうか、あいつ来てんのかな?」
そう呟く先輩は待ち合わせをしているらしいが、その相手がなかなか来ず、ついに、私たちだけでそのセミナーを受けることにした。
セミナーの内容は文系の私にはさっぱり理解できないもので、理系の先輩がすらすらとメモを残しているのを傍目に、スライドに追いつくのがやっとな私だった。
終了後、あちらこちらで挨拶をかわす声が聞こえ、私たちにも声を掛けてくださる方もいて、先ほどブースに来てくださった方も何人か、あいさつに来てくださった。だが、結局、先輩の言っていた人は来なかったようで、私たちだけがその部屋に取り残されていた。





