プロローグ
本作は『ダンジョンが発生したので草を採っていたら、トマトの人と呼ばれました』のダンジョンが発生してから30年後の世界を舞台にした、シリーズ第2部です。
魔法が当たり前になった世界で、新しい世代の物語が始まります。
プロローグ
店先のバケツから、ガーベラを一本ずつ引き上げる。茎の先を斜めに切り落とすと、青い匂いがふっと立った。新しい水に挿し直す。物心ついた頃から、岸晴斗の朝はこの匂いで始まっていた。
「お兄ちゃん、これ来てたよ」
店の奥から、日和が白い封筒をひらひらさせながら出てきた。封筒には、ダンジョン開発機構――JDAのロゴが印刷されていた。表には『適性検査のお知らせ』とある。
「ああ、うん」
「開けないの?」
「どうせ、なしだよ」
晴斗は封筒を受け取り、開けもせずにレジ横の棚へ置いた。父も母も、適性はない。常連さんの娘さんが適性ありと分かって探索者育成学校へ進んだという話も、晴斗には画面の向こうの出来事と同じくらい遠かった。
「分かんないじゃん。お兄ちゃん、去年の商店街の福引きで一等当てたし」
「それとこれとは関係ないって」
「関係あるかもしれないでしょ。運って大事なんだよ」
十歳のくせに、妙に大人びた口ぶりで言う。晴斗は笑って、次のガーベラに手を伸ばした。
「行くだけ行くよ。決まりだし」
それで十分だと思っていた。
ーーー
玄関の明かりは、自分でつけるものだった。
加賀直弥は靴を脱ぎ、暗いリビングの電気をつけた。テーブルの上には、開封済みの封筒が一通。中身は何度も読んだので、もう見る必要もない。
スマートフォンには、母から短いメッセージが届いていた。
『ごめん、今週も戻れない。冷蔵庫にカレーあるから』
父からは何もない。いつものことだった。父は探索者で、母はJDAの職員だ。二人とも適性者で、家にいるより、ダンジョンやJDAにいる時間のほうが長い。
検査のことは、ずっと前に両親から聞いていた。魔導具に手を置くこと。頭の中に声が響くこと。何の属性かを、その声が教えてくれること。三人で食卓を囲んで、あれほど長く話したのは、あの夜くらいだったかもしれない。
「……早く来いよ」
壁のカレンダーの、赤丸をつけた日付に向かって呟く。
適性がないとは、一度も考えたことがなかった。適性者になれば、両親と同じ場所に立てる。
誰もいない部屋で、直哉は一人分のカレーを温めた。
ーーー
五年前。
ダンジョンの奥深くに、まだ誰も名前をつけていない場所があった。
地図の端からさらに外れた岩の窪みに、小さな池があった。波ひとつ立たない水面は、天井の岩肌をそのまま映していた。
その窪みでは、魔素の流れが滞っていた。行き場を失った魔素は少しずつ水の底へ沈み、誰にも見られることなく、何か月もかけて重なっていった。
ある日、水面にさざ波が走った。
水が割れ、人の形をしたものが身を起こす。濡れた髪の、少女の姿をしていた。
『第一段階の適性を確認しました』
声が響いた。
少女は、わずかに首をかしげた。声の出どころを探すように、窪みの暗がりへ視線を巡らせる。けれど、そこには岩と水しかなかった。
やがて少女は池の縁に手をつき、ぎこちなく立ち上がろうとした。膝が揺れ、体が傾き、踏み出した足が岩の縁を外れて池の浅瀬に落ちた。
ばしゃん、と小さな水音がした。
少女は足元を見下ろした。揺れの収まった水面に、自分と同じ顔が映っている。
『行動を確認しました。能力を付与します――属性・水』
三日後、魔素濃度の異常を追っていたJDAの実働部隊が、その窪みにたどり着いた。
水辺には、膝を抱えた少女が一人、座っていた。
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