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残業のせいで過労死したのに、異世界でもまた残業ですか!?  作者: 鏡まやたか


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第2話 一筋の光?

――ぐぅぅぅ。

「…………腹減った」

 イゼルニア王国の都市、トルキアス。

 ようやく街へたどり着いた俺を待っていたのは、壮大な冒険でも、運命的な出会いでもなかった。

 空腹である。

「そういや、最後に飯食ったのいつだっけ……」

 最後に食べたのは、庁舎で残業していた日の昼飯だったはずだ。

 コンビニのおにぎりを二つ。

 夜は仕事が忙しくて何も食べていない。

 それから何時間経ったのかもわからないが、とにかく腹が減った。

 街の大通りには、食欲をそそる香りが漂っていた。

 串に刺した肉を焼く屋台。

 焼きたてのパンを並べる店。

 大きな鍋でスープを煮込む食堂。

「うわ、めちゃくちゃうまそう……」

 思わず足を止める。

 目の前では、恰幅のいいおばちゃんが肉の串焼きを次々と焼いていた。

 しかも、よく見ると炭火を使っていない。

 おばちゃんが指先を軽く動かすたび、鉄板の下で小さな炎が揺らめいている。

「……すげえ」

 魔法だ。

 本当に魔法を使っている。

 さらに通りの向こうでは、店先を掃除していた女性が手のひらから水を流し、石畳を洗っていた。

 別の店では、店主が指を鳴らすと店内の照明が一斉に灯る。

 どうやら、この世界では魔法が生活の一部になっているらしい。

 元の世界でいう電気や水道のようなものなのだろう。

「いやあ……本当に異世界なんだな」

 思わず頬が緩む。

 昨日までの俺は、薄暗い庁舎でパソコンとにらめっこしていた。

 それが今では、目の前で魔法が使われている。

 夢にまで見たファンタジーの世界。

 これから俺も、魔法を覚えたり、剣を振るったりするのだろうか。

 そんなことを考えていると、再び腹が鳴った。

 ――ぐぅぅぅ。

「……まずは飯だな」

 俺は屋台へ近づいた。

「すみません、これ一本いくらですか?」

「銅貨五枚だよ!」

「銅貨……五枚?」

「ああ。どうする?」

 俺はポケットを探った。

 右。

 左。

 腰のベルトの周り。

 念のため、もう一度右。

「…………」

 何もない。

 財布どころか、小銭一枚入っていなかった。

「……すみません。やっぱり大丈夫です」

「あいよ!」

 俺は屋台を離れた。

 そして、人通りの少ない路地に入り、壁にもたれかかった。

「……金がねえ」

 当然といえば当然だ。

 異世界に来たばかりなのだから。

 しかし、ここで重大な問題に気づいてしまった。

「住む場所も、食うものも、何もないじゃん……」

 前の世界では、どれだけ残業しても給料は振り込まれていた。

 少なくとも、生活するための金はあった。

 だが、この世界では所持金ゼロ。

 身分証もなければ、頼れる知り合いもいない。

「自由って……意外と厳しいんだな」

 異世界に来た喜びが、ほんの少しだけ薄れた。

 とはいえ、いつまでも落ち込んでいるわけにはいかない。

 幸い、俺には一つ考えがあった。

「……冒険者ギルドだ!」

 異世界ファンタジーといえば、冒険者ギルド。

 魔物を倒したり、薬草を採取したり、依頼を達成して報酬をもらう。

 ゲームや小説で何度も見てきた仕組みだ。

 この世界にも冒険者ギルドがあるなら、登録して仕事を受ければいい。

「よし、決まりだ!」

 ようやく俺の異世界生活が始まる。

 今度こそ、誰かに命令されるのではなく、自分で仕事を選ぶ人生だ。

 そう考えるだけで、自然と足取りが軽くなった。

 * * *

 冒険者ギルドは、思ったよりも簡単に見つかった。

 通りすがりの人に場所を尋ねると、街の中央広場にある大きな建物を教えてくれたのだ。

 石造りの三階建て。

 入り口には、剣と盾を組み合わせた紋章が掲げられている。

 扉の向こうからは、大勢の人間の話し声が聞こえていた。

「……ここが冒険者ギルドか」

 思わず感動する。

 まさか自分が、本当に冒険者ギルドを訪れる日が来るなんて。

 俺は少し緊張しながら、大きな扉を押し開けた。

 中は想像していた以上に広かった。

 正面には長い受付カウンター。

 左側の壁には、依頼書らしき紙が大量に貼られた掲示板がある。

 右側にはテーブルと椅子が並び、武器や防具を身につけた男女が談笑していた。

 大剣を背負った男。

 弓を肩にかけた女性。

 長い杖を持った老人。

 まさに、俺がゲームで見てきた冒険者たちだった。

「……すげえ。本物だ」

 つい、あちこちを見回してしまう。

 そんな俺に、一人の受付職員が声をかけてきた。

「いらっしゃいませ。ご依頼でしょうか?」

「あ、いえ。冒険者登録をお願いしたいんですが」

「新規登録ですね。かしこまりました」

 受付にいたのは、栗色の髪を後ろでまとめた若い女性だった。

 年齢は二十代半ばくらいだろうか。

 白いシャツの上に紺色のベストを着ており、胸元にはギルドの紋章がついている。

 彼女は手元の書類を取り出した。

「それでは、登録にあたりいくつか確認させていただきますね」

「はい!」

 俺は自然と背筋を伸ばした。

 いよいよだ。

 ついに冒険者としての第一歩を踏み出す。

「まず、魔法適性を教えていただけますか?」

「……はい?」

「魔法適性です。火、水、風、土、光、闇のうち、どちらでしょうか?」

「えっと……」

 魔法適性。

 なるほど。

 この世界にも、そういうものがあるらしい。

 火属性とか水属性とか、ゲームではおなじみの設定だ。

 ただ、一つ問題がある。

「……わかりません」

「…………はい?」

 受付嬢が首を傾げた。

「魔法適性が、わからないんですか?」

「はい」

「……ご自身の?」

「はい」

「…………」

 受付嬢は、何とも言えない表情になった。

 まるで、三十二歳の社会人に「自分の誕生日がわかりません」と言われたような顔だ。

「……あの、お客様」

「はい」

「失礼ですが、おいくつでしょうか?」

「え?」

「年齢です」

「ああ、それは……」

 そこで俺は言葉に詰まった。

 元の世界では三十二歳だった。

 だが、今の身体は明らかに若返っている。

 二十代前半くらいに見えるが、正確な年齢はわからない。

「……それも、ちょっと」

「…………」

 受付嬢が固まった。

 まずい。

 完全に不審者扱いされている。

「あ、いや! 事情がありまして!」

「事情、ですか……」

「はい。ちょっと複雑な事情が……」

 異世界から転生してきました。

 などと言っても、信じてもらえるはずがない。

 俺が言葉を探していると、受付嬢は困ったように眉を下げた。

「魔法適性は、通常十五歳のときに行われる『魔導啓示の儀』で判明するものなのですが……」

「魔導啓示の儀?」

「はい。王国内では十五歳を迎えた方が受ける儀式です。ご自身の魔法適性を確認し、成人に向けた進路を決める際の参考にもなります」

「へえ……」

 なるほど。

 つまり、元の世界でいう進路適性検査のようなものか。

 ただし、こちらは魔法版。

 それなら知らないのも当然だ。

 俺はこの世界で育ったわけではないのだから。

「……その儀式、受けてないんですよね」

「えっ?」

「いや、受けた記憶がなくて……」

 受付嬢は目を見開いた。

「受けていない……?」

「はい」

「…………」

 彼女はしばらく俺を見つめたあと、小さく息を吐いた。

「……わかりました。一応、こちらのギルドにも適性を確認するための設備がございますので、ご案内いたします」

「本当ですか! ありがとうございます!」

 助かった。

 危うく登録前に追い返されるところだった。

 俺は受付嬢の後ろについて、建物の奥へと向かった。

 * * *

 案内されたのは、小さな検査室だった。

 中央には台座が置かれ、その上には透明な水晶玉が載っている。

「おお……!」

 思わず声が出た。

 これだ。

 これこそ、異世界ファンタジーでよく見るやつだ!

「こちらが魔法適性を測定する『魔導晶』です」

「魔導晶……!」

「手をかざすと、ご自身の適性に応じた色に光ります」

 受付嬢は説明を続けた。

「火は赤、水は青、風は緑、土は黄色、光は白、闇は紫です。複数の適性をお持ちの場合は、それぞれの色が現れます」

「なるほど……」

 俺は水晶玉を見つめた。

 さて、俺は何属性だろうか。

 火属性なら攻撃魔法が使えそうだ。

 水属性なら生活にも便利そうだし、風属性なら素早く動けるかもしれない。

 光属性なんて、いかにも主人公らしい。

 いや、もしかしたら全属性なんて可能性も……。

「それでは、手をかざしてください」

「はい!」

 俺は期待に胸を膨らませながら、水晶玉へ右手を近づけた。

 すると――。

「…………」

 何も起こらなかった。

「…………あれ?」

 水晶玉は透明なままだ。

 赤にも青にも、緑にもならない。

 受付嬢が首を傾げた。

「……もう少し近づけていただけますか?」

「あ、はい」

 言われたとおりに手を近づける。

 だが、変化はない。

「…………」

「…………」

 沈黙。

 俺は恐る恐る受付嬢を見た。

「あの……これ、壊れてません?」

「……少々お待ちください」

 受付嬢は自分の手を水晶玉へかざした。

 すると、すぐに青い光が浮かび上がった。

「……正常ですね」

「…………」

 俺はもう一度手をかざした。

 何も起きない。

 左手に変えてみる。

 何も起きない。

 両手をかざしてみる。

 やっぱり何も起きない。

「……あの」

 受付嬢の声が、先ほどよりも小さくなっていた。

「はい……」

「大変申し上げにくいのですが……」

「…………」

「魔法適性が、確認できません」

「…………へ?」

 俺は間の抜けた声を出した。

 魔法適性が確認できない。

 つまり。

「……魔法、使えないってことですか?」

「……現時点では、そう判断するほかありません」

「…………」

 待て待て待て。

 そんなことある?

 異世界に転生したんだぞ?

 普通、何かしら特別な力があるものじゃないのか?

 炎を出したり、雷を落としたり。

 せめて、生活魔法の一つくらいは……。

「……ちなみに、適性がない人って珍しいんですか?」

 俺の質問に、受付嬢は口を開きかけた。

 しかし、すぐには答えなかった。

 その反応だけで、嫌な予感がした。

「……通常、魔法適性は必ず何かしら確認されるものです」

「……はい」

「ですので、十五歳の儀式を終えた方で、適性が一つも確認できないというのは……」

「…………」

「私も、初めて見ました」

 その瞬間。

「ぶはっ!」

 背後から吹き出す声が聞こえた。

 振り返ると、検査室の入り口に数人の冒険者が集まっていた。

 どうやら、受付でのやり取りを聞いて様子を見に来たらしい。

「おいおい! 魔法適性なしだってよ!」

「嘘だろ!? そんなやつ初めて見たぞ!」

「ガキでも何かしら適性があるってのに!」

「ぎゃははは!」

 笑い声が広がる。

 受付嬢は慌てて注意した。

「皆さん! ほかのお客様もいらっしゃいますので、お静かにお願いします!」

 だが、誰も聞いていなかった。

 俺はその場で固まっていた。

 魔法適性ゼロ。

 まさかの、完全なハズレ。

(……いや、ちょっと待て)

(異世界転生って、こういうもんなのか?)

 勇者でもない。

 魔法使いでもない。

 特別な才能もない。

 ただ若返って、知らない土地に放り出されただけ。

(……俺、何しに転生してきたんだよ)

 * * *

 検査室から戻ると、受付嬢は申し訳なさそうに頭を下げた。

「大変申し訳ございませんが、魔法適性が確認できない方の冒険者登録はお受けできません」

「……え?」

「当ギルドでは、魔導啓示の儀を終え、ご自身の適性が確認されていることを登録条件としております」

「でも、冒険者って剣とか使う人もいますよね?」

「はい。もちろん、剣士や弓使いの方もいらっしゃいます。ただ、どなたも魔法適性を持っていますので……」

「……なるほど」

 この世界では、魔法は生活の一部だ。

 そして、魔法適性を正式に調べるのは十五歳。

 十五歳未満の子どもに危険なクエストを依頼しないため、ギルドでは魔法適性の確認を登録条件にしているらしい。

 通常、儀式を受けた者には何かしらの適性がある。

 だから、適性を確認できないということ自体が、登録制度の想定から外れているのだ。

「……じゃあ、俺は十五歳以下ってことになるんですか?」

「いえ、見た目は成人されているようですが……」

「ですよね……」

 俺は自分の身体を見下ろした。

 どう見ても二十代だ。

 なのに、魔法適性は不明。

 年齢もわからない。

 身分証もない。

 冷静に考えてみると、とんでもなく怪しい男だった。

「……どうしたもんかな」

 冒険者になれない。

 つまり、クエストも受けられない。

 ということは、報酬も手に入らない。

 所持金ゼロの俺にとって、これは致命的な問題だった。

 そのとき。

「おい、何の騒ぎだ?」

 低い声が響いた。

 振り返ると、一人の大柄な男が立っていた。

 年齢は五十代くらいだろうか。

 短く刈り込まれた白髪と、顎に蓄えた無精髭。

 がっしりとした体格に、鋭い眼光。

 いかにも歴戦の冒険者といった雰囲気だった。

「ヴォルグさん!」

 受付嬢が慌てて頭を下げる。

「ギルドマスター、どうされたんですか?」

「どうもこうもねえ。奥まで騒ぎが聞こえてきたんだよ」

(……ギルドマスター!?)

 俺は思わず背筋を伸ばした。

 ヴォルグと呼ばれた男は、受付嬢から事情を聞くと、眉間にしわを寄せた。

「魔法適性がない?」

「はい。魔導晶にも反応がなく……」

「ふむ……」

 ヴォルグは俺をじろりと見た。

「お前、ステータスは?」

「……はい?」

「ステータスだ。見せてみろ」

(……いやいやいや!)

(そんなの見られるなら、とっくに見てるわ!)

 俺は心の中で叫んだ。

 そもそも、ステータスなんて本当に存在するのか?

 ゲームではおなじみだが、この世界でどうやって確認するのかなんて知らない。

「……すみません。見方がわからなくて」

「…………は?」

 ヴォルグが目を細めた。

 受付嬢も再び固まった。

 周囲の冒険者たちから、また笑い声が漏れる。

「おいおい、ステータスの見方も知らねえのかよ!」

「本当にどこの田舎から来たんだ?」

 俺だって知りたい。

 できることなら、今すぐ教えてほしい。

 ヴォルグは大きなため息をついた。

「……まったく。ステータスは自分で開示できるだろうが」

「自分で?」

「ああ。意識を集中して、『ステータスオープン』と唱えてみろ」

「……それだけですか?」

「それだけだ」

 俺は半信半疑で頷いた。

 そして、小さく息を吸う。

「……ステータスオープン」

 その瞬間だった。

 目の前の空間に、薄い光の板が浮かび上がった。

「うおっ!?」

 思わず後ずさる。

 半透明の板には、文字が並んでいた。

 俺は慌てて内容を確認する。

 そこには――。

 ============

 【ステータス】

 名前:アルショー・ヘイン

 年齢:23歳

 ============

「…………え?」

 俺は目を瞬かせた。

 アルショー・ヘイン。

 それが、この世界での俺の名前らしい。

 そして、年齢は二十三歳。

 どうやら、本当に若返っているようだ。

(……いや、そこはいいんだけどさ)

 俺はもう一度ステータスを見た。

 名前。

 年齢。

 以上。

「…………終わり?」

 思わず声に出してしまった。

 普通、もっといろいろあるだろ。

 レベルとか。

 攻撃力とか。

 防御力とか。

 魔力とか。

 少なくとも、冒険者の強さを判断できる情報くらいは載っているものじゃないのか?

「……ギルドマスター」

「なんだ?」

「俺のステータス、名前と年齢しか書いてないんですけど……」

「……何?」

 ヴォルグの表情が変わった。

「ちょっと見せてみろ」

 言われるまま、俺はステータスを他人にも見えるように開示した。

 ヴォルグはしばらく光の板を見つめ、やがて小さく唸った。

「……確かに、名前と年齢だけだな」

「これって、普通じゃないんですか?」

「普通なわけあるか。魔法適性はともかく、レベルすら表示されてねえ」

「…………」

「お前、本当に何者なんだ?」

「……俺が聞きたいです」

 ヴォルグは腕を組み、難しい顔で考え込んでいた。

 しかし、いくら考えたところで答えが出るわけでもない。

 俺自身、何が何だかわからないのだから。

 やがて、ヴォルグはため息をついた。

「……悪いが、今の状態じゃ冒険者として登録することはできねえな」

「……そう、ですか」

 わかっていた。

 魔法適性がない。

 レベルも表示されない。

 この世界では、そんな人間に危険なクエストを任せられないのだろう。

 当然の判断だ。

 頭では理解できる。

 だが、それでも。

(……せっかく異世界に来たのにな)

 俺はうつむいた。

 昨日までの俺は、仕事に追われるだけの毎日を送っていた。

 朝起きて、職場に行って、書類を作って、残業して帰る。

 それを繰り返すだけの人生。

 だからこそ、この世界で目覚めたときは本当に嬉しかった。

 今度こそ、自分の好きなことをして生きていける。

 そう思ったのに。

「……わかりました」

 俺は小さく頭を下げた。

「すみません。お騒がせしました。失礼します」

 ヴォルグが何か言いかけたようだったが、俺はそのまま踵を返した。

 誰とも目を合わせず、冒険者ギルドの扉を開ける。

 外は、まだ明るかった。

 街には人々の笑い声が響き、商人たちが忙しそうに行き交っていた。

 俺だけが、その賑やかさから取り残されていた。

 * * *

「…………」

 ギルドを出てから、どれくらい歩いただろう。

 気づけば俺は、人通りの少ない路地裏にいた。

 石造りの建物に挟まれた、薄暗い路地。

 その壁に背中を預け、ずるずると腰を下ろす。

「…………はぁ」

 ため息すら、まともに出なかった。

 魔法適性ゼロ。

 冒険者登録不可。

 所持金ゼロ。

 住む場所もない。

 知り合いもいない。

「…………」

 改めて考えてみると、なかなか絶望的な状況だった。

 前世では、少なくとも仕事はあった。

 給料もあった。

 帰る家もあった。

 どれだけ残業がつらくても、明日食べるものに困ることはなかった。

 だが、今は違う。

 何もない。

 本当に、何一つないのだ。

「……異世界って、こんなに厳しいんだな」

 ぽつりと呟く。

 返事はない。

 俺は膝を抱え、ぼんやりと空を眺めた。

 時間だけが、ゆっくりと過ぎていく。

 通りからは、子どもたちの笑い声が聞こえてきた。

 どこかの店から、焼きたてのパンの香りが漂ってくる。

 腹が鳴った。

 だが、立ち上がる気力もなかった。

 やがて、空が茜色に染まり始める。

 昼間はあれほど賑やかだった通りも、少しずつ静かになっていった。

 店先の明かりが灯り、夜の街が始まる。

 それでも、俺は動かなかった。

「…………」

 何時間経ったのか。

 考えるのも面倒だった。

 ただ、ぼんやりと空を眺めていた。

 いつの間にか、頭上には月が浮かんでいた。

 その周囲には、小さな星がいくつも輝いている。

「……きれいだなぁ」

 我ながら、ひどく間の抜けた声だった。

 そして、なぜだろう。

 あの月が、焼きたての丸いパンに見えてきた。

 星は、砂糖をまぶした小さな菓子に見える。

「…………」

 ……腹減ったなぁ。

 * * *

「……おい」

 突然、頭上から声が降ってきた。

「おい、お前。何してんだ、こんなところで」

「…………」

 俺はゆっくりと顔を上げた。

 そこには、昼間ギルドで会った大柄な男が立っていた。

 白髪交じりの短い髪。

 顎に生えた無精髭。

 鋭い目つき。

「……ああ、ギルマスさん」

「ギルマスさんって……お前な」

 ヴォルグは呆れたように眉をひそめた。

「こんな路地裏で何してんだ? もう夜だぞ」

「…………」

 俺は少し考えた。

 何をしているのか。

 そう聞かれても、特に何もしていない。

 ただ、何もできないからここにいるだけだ。

「……お金もないし、魔法適性もないので」

「あ?」

「こうして、ぼけーっとしてるんです」

「…………」

 ヴォルグが黙り込んだ。

 俺は再び空を見上げた。

 月が綺麗だった。

 星も綺麗だった。

 そして、相変わらず腹が減っていた。

「……ギルマスさん」

「……なんだ?」

「あの月と星……おいしそうですね」

「…………は?」

「月は大きなパンみたいで……星は砂糖菓子みたいで……あはは……」

「…………」

 ヴォルグは、何とも言えない表情になった。

 しばらく俺を見つめたあと、深いため息をつく。

「……お前、飯は食ったのか?」

「……食べてません」

「昼は?」

「……食べてません」

「朝は?」

「……覚えてません」

「…………」

 男は額に手を当てた。

「……ったく」

 そして、俺の前にしゃがみ込む。

「おい、立てるか?」

「……たぶん」

「だったら、ついてこい」

「……どこへ?」

「飯だよ、飯!」

「…………」

 俺は目を瞬かせた。

「……ご飯?」

「ああ! 腹減ってんだろ!」

「……でも、お金が」

「俺が出してやる。いいから来い!」

 そう言って、ヴォルグは立ち上がった。

 俺はしばらく、その大きな背中を見つめていた。

 そして、ゆっくりと立ち上がる。

「……ありがとうございます」

「礼なら飯食ってから言え」

 男は振り返らずに言った。

 俺はそのあとを、ふらふらと追いかけた。

 * * *

 連れてこられたのは、ギルドから少し離れた場所にある食堂だった。

 木製の扉を開けると、香ばしい匂いが鼻をくすぐる。

 店内には丸いテーブルがいくつも並び、仕事帰りらしい男たちが食事を楽しんでいた。

「おう、親父! いつものを二人前頼む!」

「おっ、ヴォルグじゃねえか! 今日は連れがいるのか?」

「ああ。ちょっと訳ありでな」

 店主は俺をちらりと見た。

「ずいぶん若い兄ちゃんだな」

「まあな。とりあえず、腹いっぱい食わせてやってくれ」

「あいよ!」

 俺たちは窓際の席に座った。

 ほどなくして、大きな皿が二つ運ばれてくる。

 厚切りの肉。

 温かい野菜の煮込み。

 焼きたてのパン。

 そして、湯気の立つスープ。

「…………」

 俺は料理を見つめたまま、動けなかった。

「どうした? 食わねえのか?」

「……いいんですか?」

「ああ。遠慮すんな」

「…………」

 俺はゆっくりとパンを手に取った。

 一口かじる。

 香ばしい小麦の香りと、ほんのりとした甘みが口いっぱいに広がった。

「…………うまい」

 思わず声が漏れた。

 続けてスープを飲む。

 温かい。

 身体の芯まで染み渡るようだった。

「……うまいです」

「そうか。そりゃよかった」

 ヴォルグは小さく笑った。

 俺は夢中で食べた。

 パンをちぎり、肉を頬張り、スープを飲む。

 気づけば、皿の上は空になっていた。

「……ごちそうさまでした」

「おう。少しは元気になったか?」

「……はい。ありがとうございます」

 俺は深く頭を下げた。

 この世界に来てから、初めてまともな食事だった。

 それだけではない。

 見ず知らずの俺に、こうして食事をごちそうしてくれた。

 その優しさが、何よりありがたかった。

 * * *

「……で、ヘイン」

「はい?」

 食後の飲み物を口にしていたヴォルグが、俺を見た。

「お前、これからどうするつもりだ?」

「……正直、何も考えられてません」

「だろうな」

 ヴォルグは苦笑した。

「昼間の話じゃ、冒険者になりたかったんだろ?」

「……はい」

「だが、魔法適性がない。今の規則じゃ、登録は認められねえ」

「……そうですね」

 俺は小さく頷いた。

 やっぱり、冒険者になるのは無理なのだろう。

 そう思っていたときだった。

「……だったらよ」

 ヴォルグが、何気ない口調で言った。

「うちで働かねえか?」

「…………え?」

「ギルドだよ。うちのギルド」

「……働く?」

「ああ。冒険者としては登録できねえが、職員としてなら雇える」

「…………」

 思わず聞き返した。

「……俺を、ですか?」

「ほかに誰がいるんだよ」

 ヴォルグは笑った。

「実はな、ついこの間、受付の職員が一人辞めちまってよ。ちょうど新しい人間を募集しようと思ってたところなんだ」

「……そうなんですか」

「ああ。冒険者の依頼受付に、報酬の精算、書類の整理。細かい仕事は山ほどある」

「…………」

「魔法適性がなくても、そういう仕事ならできるだろ?」

 俺は黙って考えた。

 受付。

 報酬精算。

 書類整理。

 どれも、聞き覚えのある言葉だった。

 いや、聞き覚えがあるどころではない。

 前世では、嫌というほど似た仕事をしてきた。

 調査回答。

 報告書作成。

 予算管理。

 資料整理。

 毎日、毎日。

 嫌になるほど。

(……まさか、異世界に来てまで事務仕事かよ)

 思わず苦笑した。

 この世界に来たとき、俺は決めたはずだった。

 今度こそ、仕事に縛られない人生を送ると。

 冒険者になって、自由に世界を旅すると。

 それなのに、目の前に差し出されたのは、またしても事務職の求人だった。

 だが。

(……今の俺には、金がない)

 住む場所もない。

 頼れる人もいない。

 このままでは、明日の食事すらどうなるかわからない。

 それに、事務仕事なら経験がある。

 前世で培ってきたものが、少しでも役に立つかもしれない。

「……あの」

「ん?」

「俺、魔法は使えませんけど……書類仕事とかなら、多少はできます」

「ほう?」

「前に、そういう仕事をしていたので」

「そりゃ助かるな」

 ヴォルグは嬉しそうに笑った。

「うちは腕っぷしの強い奴は多いんだが、机に向かって仕事する奴がなかなかいなくてよ」

「……はは」

 なんとなく想像できる。

 昼間見た冒険者たちは、いかにも戦闘が得意そうな人間ばかりだった。

 書類仕事が好きそうには見えなかった。

「どうだ? もちろん給料は出すし、仕事を覚えるまでは面倒も見る」

「…………」

 俺は少しだけ考えた。

 本当は、冒険者になりたかった。

 剣を握って、魔法を使って、未知の場所を旅してみたかった。

 その夢を、こんなにも早く諦めることになるとは思わなかった。

 だが、今は生きていくことが先だ。

 それに、ギルドで働いていれば、冒険者たちの話を聞く機会もあるだろう。

 いつか何かのきっかけで、冒険者になれる可能性だって……。

 いや。

 今は、そんな先のことまで考える余裕はない。

 まずは、明日の飯だ。

 俺は顔を上げた。

「……ぜひ、お願いします」

「よし! 決まりだな!」

 そして、大きな手を差し出してきた。

「俺はヴォルグ。この街の冒険者ギルドを任されている。よろしくな、ヘイン!」

「……はい。よろしくお願いします!」

 俺は、その手を握り返した。

 力強く、温かい手だった。

 こうして俺は、異世界で初めての仕事を手に入れた。

 冒険者ではなく、冒険者ギルドの職員として。

 少しだけ、思っていた人生とは違うけれど。

 それでも、今度こそ。

 仕事もほどほどに、自分の時間を大切にして生きていこう。

 俺はそう心に誓った。

 ――このときは、まだ知らなかった。

 このギルドで待ち受けているのが、前世にも負けないほどの業務量であることを。

――第2話 完――

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