27.8分の1拍
上級風魔法《断空》の取得に、俺は5日しかかけなかった。
条件は、こうだ。
一、嵐の日であること。
二、海に突き出した崖の突端に立つこと。
三、中級風魔法《疾風刃》を、風上に向けて、64回連続で唱えること。
火の108回に比べれば、ずっと楽だ。
——ただし、風の中では、声が届かない。
崖の突端で、暴風に向かって64回叫ぶというのは、それ自体が拷問だった。3度、体ごと吹き飛ばされそうになった。40回目で足元の岩が崩れて、俺は片手で崖にぶら下がった。
それでも、5日で終わった。
スキル欄に、新規項目が追加されました。
《断空》——上級風魔法
◇
問題は、ここからだった。
混合魔法。
◇
「不可能です」
セシルは、話を最後まで聞いてから、そう言った。
俺たちはステインから半日離れた河原にいた。人里から遠い。何が起きても、誰も巻き込まない場所だ。
「理由を伺っても?」
「二つの術式は、同じ座を占められません」
彼女は地面に、指で二つの円を描いた。
「魔法というのは、術者の内側に『座』を作る作業です。詠唱で座の形を決め、魔力を流し込み、外へ出す。座は一つしかありません」
「一つ」
「二つ目の詠唱を始めた瞬間、一つ目の座は崩れます。これは魔術院の基礎の基礎です。5歳の子供でも知っています」
「試した人は」
「います。300年前に。記録に残っている限り、11人が試して、11人が死にました」
彼女は円を消した。
「腕がなくなった者が4人。焼け死んだ者が6人。最後の1人は、何が起きたか誰も分からなかったそうです。跡形もなかったので」
◇
俺は、その説明を聞きながら、内心でうなずいていた。
——だいたい合ってる。
ゲームでも、混合魔法の失敗は「術者の手元での暴発」として実装されていた。ダメージは大きい。Lv400くらいで挑戦して、失敗して即死したプレイヤーの動画が、当時よく回っていた。
だが、「不可能」ではない。
◇
「セシルさん。座が一つなのは、その通りです」
俺は言った。
「でも、座が崩れるまでには、時間があります」
「時間?」
「一つ目の詠唱を終えて、二つ目を始めると、座が崩れる。でも『崩れる』というのは、瞬間じゃない。ほどけていくんです」
「……何を根拠に」
「感覚です」
セシルは黙った。
「そのほどける時間の中に、二つ目を差し込めば、一瞬だけ、二つが同時に立ちます」
「一瞬」
「たぶん、8分の1拍くらいです」
◇
——8分の1拍。
これは、俺の言葉じゃない。
ゲームでこの技術を最初に成功させた男の言葉だ。
彼は音楽をやっていて、混合魔法の操作を「拍」で説明した。詠唱の完了と、次の詠唱の開始の間に、8分の1拍だけずらす。早すぎても遅すぎても失敗する。
当時の掲示板には「そんな感覚的な説明で分かるか」という書き込みが殺到した。
だが、実際、それしか説明のしようがない。
そして俺は、当時、それを何百回も練習した。
——ただし、それは、マウスとキーボードでの話だ。
◇
「やってみます」
俺は河原に立った。
右手に火。左手に風。
「——天蓋を焼く舌よ。地の果てまで、走れ。《紅蓮嵐》」
火が生まれる。
そのほどけかけた座に、俺は次を差し込んだ。
「——空を裂く刃よ。《断空》」
◇
爆発した。
◇
俺は、10メートル後ろの砂利の上に転がっていた。
右の前髪と眉が、なくなっていた。
左腕の袖が燃えていた。俺は転がって火を消した。
HP 3,880/4,420
「ノルンさん!」
セシルが駆け寄ってきた。
「大丈夫です」
「大丈夫ではありません! 今、あなたの顔の前で——」
「もう一回やります」
◇
【2回目】暴発。左の眉もなくなった。
【3回目】暴発。手の甲に水膨れ。
【4回目】火だけが出た。風が消えた。ずらしが遅すぎた。
【5回目】風だけが出た。早すぎた。
【7回目】暴発。鼓膜が痛んだ。
【11回目】暴発。左手の指が3本、腫れ上がった。
◇
3日目に、セシルが言った。
「やめてください」
「まだです」
「あなたは死にます」
「死にません」
「なぜ言い切れるのですか」
——最大HPが4,420あって、暴発の被害が1回あたり300から600だからです。
とは言えない。
「勘です」
「もう、その言葉を聞きたくありません」
◇
5日目、リゼが河原に現れた。
弓を背負っていた。俺が取ってきた《風追いの短弓》だ。
「セシルさんに聞きました」
彼女は俺の顔を見て、少し息を呑んだ。
眉がない。前髪が焦げている。左腕に水膨れが並んでいる。頬に細かい火傷。
「……ひどい顔ですね」
「そうですか」
「ひどいです」
彼女は荷を下ろして、河原に座った。
「止めても、やめませんよね」
「やめません」
「じゃあ、見てます」
彼女はそれだけ言って、膝を抱えた。
◇
【19回目】暴発。今日いちばん大きかった。俺は川に落ちた。
【23回目】火と風が、一瞬、混ざりかけた。
俺の右手の上で、炎が渦を巻いて——そして、ほどけた。
「今、混ざりました」
セシルが立ち上がった。
「今、混ざりましたよね!?」
「混ざりました」
「どうやって!」
「……たぶん、息を吐きながら二つ目に入りました」
◇
これは、大きな発見だった。
ゲームでは、詠唱は自動だった。だから「息継ぎ」という概念がない。
だがこの世界の詠唱は、声だ。
声である以上、息がある。
一つ目の詠唱を終えて、息を吸ってから二つ目を始めると、その吸う時間だけ、座がほどけすぎる。
——吸わずに、吐きながら入る。
そうすると、間が詰まる。
8分の1拍が、そこにある。
◇
【31回目】暴発。息を吐きながらやったが、今度は早すぎた。
【35回目】暴発。
【38回目】暴発。左耳が3時間聞こえなくなった。
◇
12日目の夜、俺は河原に仰向けになっていた。
全身が痛い。焦げ臭い。
火傷の水膨れが、両腕で30を超えていた。
「ノルンさん」
リゼが、隣に座った。
「なんで、そんなに急ぐんですか」
俺は空を見ていた。
星が出ていた。
「……急いでるように見えますか」
「見えます」
「そうですね」
俺は認めた。
「急いでます」
「なんでですか」
◇
俺は、答えを探した。
——先客がいるからだ。
そいつは俺と同じ知識を持っていて、俺より先に、必要なものを全部拾っていっている。
もし敵なら、俺は負ける。
俺には切り札が足りない。上級魔法を2つ持っているだけじゃ足りない。あいつも同じものを持っているに決まっているからだ。
差をつけるとしたら、そこから先だ。
——ゲームでも、一握りしか成功しなかった技術。
◇
「怖いんです」
俺は、そう言った。
リゼが、こっちを見た。
「あなたが?」
「はい」
「何がですか」
「知らないやつが、ひとりいるんです」
俺は言った。
「どこにいるか分からない。何をしたいのか分からない。敵かどうかも分からない。でも、俺の行く先に、いつも先回りしてる」
「……」
「そいつと会ったときに、俺に何もなかったら」
俺は、そこで言葉を切った。
◇
「ノルンさん」
「はい」
「わたし、そのとき隣にいますから」
◇
17日目。
【42回目】。
◇
俺は右手を上げた。
火傷だらけの手だ。指が2本、まっすぐ伸びない。
「——天蓋を焼く舌よ。地の果てまで、走れ。《紅蓮嵐》」
火が生まれる。
息を、吐きながら。
吸わずに。
そのまま。
「——空を裂く刃よ。《断空》」
◇
——混ざった。
◇
俺の右手の上で、炎が、螺旋になった。
火は上へ昇るものだ。風は横へ走るものだ。
その二つが噛み合った瞬間、炎は「上へ昇りながら横へ走る」形になった。
つまり、渦だ。
「《焔嵐》」
◇
渦は、俺の手を離れて、河原を走った。
火柱ではない。炎の壁でもない。
竜巻だった。
炎でできた竜巻が、河原を300歩ばかり進んで、対岸の砂利を巻き上げながら、消えた。
◇
静かになった。
俺は、右手を下ろした。
そして、その場に座り込んだ。
——通った。
——ゲームと、同じだ。
◇
河原の砂利が、赤かった。
俺は、そこへ歩いていった。
竜巻が通った跡の砂利が、融けていた。
石が、飴のように垂れて、固まっていた。
◇
「……ノルンさん」
セシルの声だった。
彼女は、口を両手で押さえていた。
指の間から、声が漏れていた。
「今、二つの座が」
「はい」
「同時に」
「はい」
「……そんな」
彼女は、それ以上、言葉にならなかった。
◇
リゼは、笑っていた。
笑いながら、泣いていた。
「何ですかそれ、何ですかそれ」
「焔嵐です」
「そうじゃなくて!」
彼女は俺の焦げた前髪を掴んだ。
「17日ですよ! 17日、毎日爆発してたんですよ! 眉、なくなってるんですよ!」
「生えます」
「そういう問題じゃないです!」
◇
その夜、俺たちは河原で焚き火をした。
セシルは、羊皮紙に何かを書き続けていた。
書いては、手を止めて、俺を見て、また書いた。
そして、一度だけ、こう言った。
「ノルンさん」
「はい」
「船の中で、私に預けた箱がありますね」
「……はい」
「あの箱に、今日のぶんも入れます」
彼女は言った。
「入れますが、鍵は、あと一つ増やします」
「一つ?」
「二つ目の鍵は、私が持ちます」
俺は、その意味を測りかねた。
セシルは、羊皮紙を丸めながら、こう続けた。
「あなたが公開を拒むなら、私も、あなただけに預けたままにはしません」
「……」
「私は、あなたを信じています。ですが、信じることと、預けることは、違います」




