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レベッカは、淡々とすべての経緯を話した。エグランティーヌは少し前に同じ話を聞いていたらしい。
リゼルヴィンが何者なのか、何故、自分がリゼルヴィンを苦しめてきたか。誰が本当の敵なのか。
安心したらしいエグランティーヌは、起きていようと努力はしていたが、アンジェリカの肩にもたれかかって眠ってしまった。ミハルの知らないエグランティーヌだった。彼女はいつでも背筋を伸ばして立っていて、いくら一度聞いたからといってこれほど重要な話の最中に寝たりしない。どれだけ彼女に負荷がかかっていて、どれだけ無理をしていたか、改めて見せつけられた気分だった。ミハルは、エグランティーヌの力になれているのだろうか。妻が自分を必要としてくれているのは実感としてあるし、きちんと言葉で伝えてくれている。それでも、傍にいる者として、無力さを痛感することは多い。
アンジェリカは眠る妹をそっと自分の膝に導いて、横になった彼女の頭を撫でた。その顔があまりにも優しく、穏やかで、レベッカは「微笑ましいこと」ともらした。
「私も、アンジェリカさまとエグランティーヌさまのような、お互いを思いやれる姉妹になりたかった」
「あら、少なくともわたくしには、あなたは妹思いの女性に見えるのだけれど。お互いに、が出来ているかはともかく。縺れた糸は解けば良いだけ、今からでも間に合うはずだわ。そうでしょう、ミハル」
頷いて、ミハルもレベッカにかける言葉を探したが、上手く笑えなかった。
アンジェリカは子供のように無垢だと言われるが、それが本質ではない。レベッカの口から語られた驚くべき事実にも、なめらかな笑みを崩さなかった。けれど、結局は評判通りの人間だ。他人の善意を心から信じている。他人の悪意を拒絶しない代わりに。
ミハルはアンジェリカのようには言えなかった。どんな理由であれ、レベッカがリゼルヴィンを傷つけたのは事実であり、リゼルヴィンからすればどんな事情があっても今さら許せるものでもないだろう。最愛の人を、何度も奪われたのだから。
そんな風に考えてしまったミハルを見透かしたのか、それともミハルの顔に出てしまっていたのか、レベッカは自嘲気味に言った。
「アンジェリカさま、ミハルさまを困らせてはいけませんよ。きっと、ミハルさまの思っている通り。私は、妹に許されるつもりもありません。ええ……それだけのことをしたんだもの。でも、もしひとつだけ許されるなら……あの子が心の底から笑っている顔を、最後に見てから、死にたいものです」
「あなた死ぬつもりなの?」
「場合によります。あの子のためならどうなっても構わない、そう覚悟しているだけです」
「じゃあ言っておくけど、死は償いにはならないわよ。話を聞く限り、リゼルヴィンもそう考えているんじゃないかしら。そうでなければあなたをここまで生かしておく理由がないでしょう。わたくしはリゼルヴィンが嫌いだけれど、リゼルヴィンが話の通じない相手ではないことは認めているわ。……今は難しいでしょうけど、必ず、本当のことを話すべきだわ。許すか許さないかは、リゼルヴィンが決めること。断罪の権利は被害者のみのものよ。誰かひとりが悪になって終われるほど、現状は単純ではないわ。それに、言ったでしょう。縺れた糸は解けばいいの、それだけのことよ」
物事は複雑で、複雑なものは単純なのよ。アンジェリカは微笑んだ。それは女神じみた笑みで、しかしその瞳の奥には強い光が宿っている。
レベッカはアンジェリカの言葉に励まされたのか、花が咲いたような笑みをこぼした。一粒だけの涙と共に。
それからレベッカは、微笑みを作り直して、きっぱりと言った。
「この戦い、鍵を握っているのは、アルベルトさまです」
アンジェリカは神妙に頷いた。ミハルもまた、そうだろう、と思う。
「あの子にとってあの人はどこまでも特別。どんなに傷つけられても。ほんと、馬鹿な子……。だけど、あの子にとって、あの人は唯一、そっとしておいてくれた人なんです。だからあの子は、アルベルトさまを好きになって、今もずっと好きなまま……」
アルベルトとリゼルヴィンが仲の良かった時期を、ミハルは間近で見つめていた。特にアルベルトとの交流は四大貴族という身分を抜いても深く、妻に何を贈れば喜んでくれるだろうとか、妻として接するにはどうすればいいだろうとか、よく相談に乗っていた。
今では考えられない、とても仲睦まじい夫婦だった。お互いがお互いのことを想いやっていた。彼らはずっと、恋愛結婚であると世間に思わせるための演技だ、と主張していたが、ミハルは知っている。その関係は恋と呼ぶにはささやかだったが、少なくとも、家族のようにお互いを必要としていたのだと。
穏やかに時が進み、邪魔が入らなければ、今頃はきっと、優しい家庭がうまれていたのだろう。激しさはなく、ただ、ゆったりと時間の流れる家庭が。
傍で見ていたミハルにも、どこで今に繋がったのかわからない。突然のことだった。すれ違いは常にあり、決してかみ合わない。けれど、それでも上手くいっていたのに。あの頃のことは、ミハルの思い違いだったようにすら思える。
「そっとしておいた、とは、どういうことなの? 自分に好意を欠片も持っていない相手を好きになるかしら?」
「常にあらゆる感情を他人から向けられるあの子にとって、何一つ感情を向けてこない相手、というのは、本当に珍しいんです。アルベルトさまは『黒い鳥』を嫌っていらしたけど……。アルベルトさまが物事を、それはそれ、これはこれ、と分けて考えられる人なのはご存知でしょう? ですから、リゼルに対してもそうすることが出来た。『黒い鳥』だとしても、妻としては別。そうやって考えて、アルベルトさまは『黒い鳥』に多少の嫌悪を向けることはあっても、リゼルヴィンという一人の人間にはさして興味を示さなかった。それが、あの子にとっては新鮮で、ようやく自由になれたんです」
「あの男の薄情さがかえって良い方向に働いていたということね」
この場にいる唯一の男として、アルベルトの友として、ミハルは苦く笑っていることしか出来なかった。話していることは深刻なのに、アンジェリカもレベッカも、一切そういった雰囲気を作らない。かえってそれがいかに二人がこの状況に怒りを抱いているかを表している。
いつだって責められるのは男か、と男であるミハルは思う。二人から見れば、反対のことを思うのだろう。
「友として、彼の名誉のために言うなら……彼も心から、リゼルヴィンを愛していますよ」
「愛は相手に伝わらなきゃ無意味よ」
「それならどうして私に靡いたのかしら?」
ミハルの懸命な擁護は、二人の美しい女によって当然のように瞬殺された。うち一人は自らの罪を認めながら。
世間の評判は当てにならないし、家庭での態度と友人への態度は別物なのよ、とレベッカは続ける。
「私はあの子を傷つけるために彼に近付いた。そして彼をそそのかした。ええ、一番の悪は私。それは否定しないし、その罪は神にも許されないでしょう。許されるつもりもありませんし。だけど……いくら呪われてるからって言い訳にはなりません。あの子が一番嫌っている私を、受け入れようとするなんて」
頭を抱えることしか出来ない。レベッカの口から言うには相応しくないが、正論だ。どんな経緯であれ神に誓って夫婦となったのなら、互いに誠実であらねばならない。その形は家庭によってそれぞれ違うものだが、リゼルヴィンが求めた誠実さは、他者に比べてとても緩いものだった。アルベルトがどんなことをしようが、ほとんど許容しただろう。リゼルヴィンが恐れていたのは、レベッカの存在だけだった。
相手がレベッカだったから、許せなかった。レベッカだったから、傷付いてしまった。
「まあ本当のところ、純粋に私とリゼルの仲の悪さが気になって、姉妹は仲良いにこしたことはない、って考えで私に接していただけだってわかってるわ。でも、それを言わなかったことが、彼の最大の失敗でしょう」
苦虫を噛み潰したような顔をして、レベッカは続けた。
不器用を通りこして愚か者だ、と友人のことを思いつつ、ミハルはレベッカに尋ねた。
「今からでも、間に合うでしょうか、アルベルト殿は」
アンジェリカは小さく「そうだとしたら都合が良すぎるわね」と吐き捨てる。リゼルヴィンのことが嫌いだと公言してはいるものの、アルベルトの肩を持つような真似はしないらしい。素直な人だが、公平に物事を見ることの出来る人だ。
レベッカはそれに笑いながら、ゆっくりと首を横に振った。
「わかりません。あの子はまだ彼のことが好きだけれど、もう戻れないところまで来てしまったから……。でも彼の努力次第で、あの子の機嫌は変わるはずです。国の現在は変えられなくても、あの子の未来を変えられるのは、彼だけだわ」
それだけ聞けたら充分だ。ミハルが二人の友のために出来ることは少ないかもしれないが、可能性があるのならやるしかない。
朝になったらアルベルトが王城へ仕事をしにやってくる。そのとき、すぐに捕まえて、リゼルヴィンに対する想いをすべて打ち明けてもらおう。彼の本心を把握して、リゼルヴィンにどう謝るべきか、一緒に考えてやろう。
エグランティーヌを安全な場所に避難させる計画を立ててから。




