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  作者: 小林マコト
第三部 黒い鳥
129/131

3-2

 一瞬、ミハルはリゼルヴィンが何を言っているのか、理解出来なかった。


「――次の、王」

「ええ。私は何もかもを奪うわ。あの子から」

「……すみません、待ってください」

「何かしら」

「次の、王、とは、つまり」

「ああ」


 ミハルが何を言いたいのかわかったらしいリゼルヴィンは、とても明るい、心底楽しげな笑顔になった。それは『黒い鳥』でもなんでもない、ただ一人の女としての顔だった。


「おめでとう。あなたたちの子供が、あの子のお腹に宿っているのよ」


 にこにこと、見たこともないくらいの明るい表情だ。

 ミハルはまだ信じられなかった。信じられなかったが、リゼルヴィンがこんな嘘を吐く人間ではないと知っている。少しの混乱の後、深く息を吸い、吐き、受け入れることにした。


「それは、本当ですか」

「ええ、もちろんよ。だからこそ……こうやって、あなたを呼び出したの」


 リゼルヴィンが言うには、それは真実なのだろう。繰り返すが、リゼルヴィンはこんなことで嘘を吐くような人間ではない。


 今ここにいるリゼルヴィンは、敵なのか、味方なのか。ミハルは疑わなかった。ただ、彼女は敵でも味方でもない、と理解した。きっとはじめからそうだったのだろう。誰もが彼女を疑い、恐怖し、敵だと信じただろうが、最初から彼女は敵になるつもりも味方になるつもりもなかった。

 頭の中を整理することは出来なかったが、働かない頭をなんとか働かせ、言葉を絞り出す。


「それは……本当に、嬉しいです、とても。こんなときでなければ、もっと素直に喜べたはずですが……」

「喜ぶべきことよ。大丈夫、私の言うことをちゃんと聞いてくれたら、殺しはしないわよ。私の目的はエンジットを潰すこと。この国にいない人間を追いかけるほど、憎しみはないわ」

「それをやめてくれれば、誰も苦しまずに平穏を取り戻せるはずです」


 ピリ、と空気に棘が混ざった。ミハルの言葉は失言ではない。この程度のことで怒る女ではないと、ミハルは知っている。

 空気が変わったのは、リゼルヴィンの緊張のせいだ。より強く深く踏み込めば、止められるかもしれない。希望は薄いが、ミハルは続けた。しかしリゼルヴィンは、柔和な笑みを浮かべたまま、こちらに琥珀の目を向けるだけだった。


「私は……あなたのことを友と思っています。妻の友というだけでなく、この私という一人の個人としての友と。ですから、友が苦しむところは見たくないし、友を敵に回すことも……したくありません。それはエーラもそうです。出来ることなら、またあなたと共に平和に生きたい。今なら間に合います、戻ってきてください」


 ミハルの言葉に嘘はない。友、とは言いすぎかもしれないが、少なくとも彼女のことを恐れたことはなく、親しみもある。平穏に生きられる道があるのなら、その道を彼女に示してやりたい。幸い、妻であるエグランティーヌは女王だし、ミハル自身もそれなりの地位にある。民が納得しないとしても、こっそり逃がしてやることは可能だ。


 素直に思いを伝えているつもりだ。リゼルヴィンの言葉を待った。

 リゼルヴィンは、笑みを崩さず、どこか悲しげな声を出した。吐息のように微かな声だ。


「……みんなそう言ってくれるわ。優しいのよ……優しすぎるのよ。私は殺されることを望んでいる。そうは考えないの」

「あなたが何を望んでいるか、そんなことは別として、私たちはあなたに生きていてほしい、それだけです」

「そう。嬉しい……本当よ。本当に、嬉しいわ。だけど……残念だけど、もう無理よ。決めたの。私は私の宿命に逆らわない。私は私の中の『黒い鳥』に従うと。ごめんなさいね」

「どうしてそうも頑なに」

「決めたから、よ。それだけ」


 リゼルヴィンはゆっくりとミハルの手に自らのそれを重ね、また何か唇だけを動かして、音にならない言葉を紡いだ。

 それから、名残惜しそうに離して、指先でテーブルをなぞった。


「一週間後」


 指先で、テーブルに見えない文字を書いている。それは確かにエンジットで使われている文字であるというのに、どんなに読もうとしても読み取れなかった。リゼルヴィンが古語の使い手であることを思い出したものの、ミハルに古語の知識は基礎的なものしかない。複雑な文章を組み上げたリゼルヴィンの手元の言葉を読み解くことは、出来ない。


「私は『黒い鳥』として、あなたたちの前に現れるでしょう」


 焦りがミハルの心を落ち着かせてくれない。失敗したのは明らかだった。ここで説得出来ればこれからの悲惨な戦いは避けられただろう。これまで国を守り続けてくれていたひとを、裏切らずに済んだだろう。


 そう、裏切ったのはミハルたちの方だ。どうであれリゼルヴィンの信頼を裏切った。『黒い鳥』は『黄金の獅子』の信頼を受けられなくなったとき、その刃をこちらに向ける。リゼルヴィンが『黒い鳥』になってしまったのは、女王たるエグランティーヌの信頼が揺らいだから――信じたくはないが、そういうことだ。


「せいぜい怖がっていればいいわ。武器を集めて、魔法を組みなさい。私という、リゼルヴィンという最大の敵に立ち向かうために。――忠告はしたわよ。逃げなさいとありがたい助言も。選ぶのはあなたたちだわ。私はこれから、この国を、滅ぼすために生きる」


 リゼルヴィンの手元が光る。書いていた文字が浮かび上がって、彼女の体をかこみ、リゼルヴィンは煙のように消え失せた。


 はっと気がつくとミハルは王城の自室に一人で立っていた。

 リゼルヴィンの気配はない。だが、彼女の魔法によるものだろう。リゼルヴィンがどれだけの魔法使いなのか、この国で知らない者はない。


 慌てたところで何も変わらない。ミハルは説得出来なかった。リゼルヴィンの決意は固かった。それだけのこと。


 とにかくエグランティーヌを探した。深夜、寝室にはなく、執務室を見たが、そこにも妻の姿はない。

 廊下を歩いていた見回りに聞けば、「応接間に」という。

 来客には相応しくない時間帯だ。怪訝に思いながら、応接間に向かう。扉の前は厳重な警備が敷かれていた。大変な貴人の訪れらしい。兵士に聞けば、「第一王女殿下が」と。


「何? アンジェリカさまのことですか?」


 隣国ヴェレフに嫁いでいった第一王女が、なぜ今、ここに。信じられず、中に入れば、ミハルの知っている第一王女がエグランティーヌと向かい合っていた。変わらぬ美しさで。


 こちらに向けられた妻とその姉の視線。ミハルは混乱し、そしてすぐ冷静になる。ヴェレフには使者を出し、アンジェリカには現状を知らせてある。

 ミハルはたったそれだけで混乱したりはしない。ミハルに混乱をもたらしたのは、その場に、リゼルヴィンの姉であるレベッカが同席していたことだ。


「ミハルさま、ちょうどよかった。先ほど、お姉さまがヴェレフから到着なさって」

「お久しぶりです、アンジェリカさま」

「久しぶりね、ミハル。いいえ、今じゃ、ミハルさま、と呼ぶべきね。もう義姉ぶって偉そうな顔出来ないわ。ちょっとだけ残念」


 アンジェリカは明るく笑って、ふざけたようにミハルに対し最敬礼をした。それも男の。

 笑っている暇などないのに、ミハルはつい笑ってしまって、しかしそのおかげで気が少し楽になった。


 華やかな美しさを持つアンジェリカは、いつもそうやって場の空気を変えてしまう。それも良い方に。だからこそアンジェリカは愛されるのだ。

 エグランティーヌの顔色も、ここ数日で一番ましな色になっている。


「母国が危ないと聞いて、居ても立っても居られなくって来ちゃったわ。いくらか兵力も。たいしたことはないのだけれど、わたくしの私財で集めたの。ヴェレフは関係ないわ。だから安心して」

「それは……とても助かります。兵力は少しでも多くある方がいい。ですが……今、この国にいるのは、危険です」

「わかってるわ。わかっていてここにいるの。どうしてかわかる?」

「いえ……」

「リゼルヴィンには借りがあるの。あなたたちとは違ったところでね。昔から気に入らなかったのよね、あの陰気な顔。今こそガツンと一発お見舞いしてやりたいと思ってここにいるの。危険なところにいないなら、敵に立ち向かうことなんてできないわ。そうでしょう?」


 明るく言うには物騒なことだった。何かあったのか、以前より過激な性格になってしまっているように思えた。

 にこにこと笑って聞いていたエグランティーヌは、緊張がゆるんだのか、大きな欠伸をした。ここ数日はずっと働き詰めだったからだろう。それを見たアンジェリカは、とても優しい顔をして、エグランティーヌに羽織っていたカーディガンをかけてやった。


「エーラ、あなたはもう寝なさい」

「ですが、お姉さま」

「あなたは女王。この国を背負っているの。倒れてしまっては元も子もないわ。それこそ一大事よ。もし一緒にいたいのなら、ここで眠っても構わないわ。膝を貸してあげる。――話すことがあるのでしょう、レベッカ=リゼルヴィン」


 すまし顔で座ったままだったレベッカは、声をかけられてようやく、花のような顔に笑みを浮かべて答えた。


「ええ。この国と私の妹の未来について」


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