3-1 青い鳥
体が冷えていく。
指先からはじまり、凍るように冷えていく。音が遠のき、視界がぼやけ、炎の熱さもわからず、肉の焼けるにおいもない。
冷えていく。真冬の夜のように。深い水底のように。
やがてすべての感覚が閉ざされ、冷たさすら感じなくなる。ああ、自分は死んだのだ。淡々とそう思いながら、しかし心は何一つ動かなかった。
ふと光が差し込んで、体がやけに軽くなる。目を開けると見慣れた広場に立っていた。よく晴れた日だ。それなのに、人は誰もいない。
目の前には火刑のあとがあった。実際に見たことはないのに、それが火刑によるものだと一目で理解した。炭になった薪には、まだ燻っているものもあった。
体はとても軽いのに、言うことを聞いてはくれない。動かそうと思っても動かない。仕方なくその場に立って、見たくもない景色を見続けた。
見飽きた頃に、体が勝手に動き出した。しゃがんで、火傷も厭わず、まだ熱を持つ炭をどけ、その中にある骨を拾い上げた。
そこに意思はない。体だけが勝手に動いて、勝手に骨を拾っていた。
拾って、抱え込む。何も考えず、何も感じず、ただ、それを繰り返す。
そんな夢を、リゼルヴィンは必ず年に一度、見る。
誕生日の夜に自らの死を見るのは、魔法使いの条件だった。
「――本当に一人で来たのね」
驚きの混ざった声は、聞き慣れたものより少しだけ気だるげだった。
「もちろん。それが約束ですから」
「真面目ねえ」
その店には誰もいなかった。赤の似合う目の前の女と、ミハル以外には。
カウンターの一席に座る女に促され、隣の席に着く。満足げな笑みを口元に浮かべた女は、ゆったりとした動作で席を立ち、カウンターの中に入った。
「とてもいいお酒があるの。安物だから、あなたの口に合うかはわからないけれど」
女は棚から一つ瓶を手に取って、ミハルに見せた。
肩も背中も大胆にあいた露出の多い赤いドレスに、二の腕の半ばまである黒い手袋。右腕はさらに肩まで包帯が巻かれ、肌がまったく見えない。伸びた髪は以前よりいっそう黒々としており、右から前に流されていた。
「安物でも、あなたは好き?」
「ええ。安物だから好きなの」
「では、それを」
「あなたのそういうところ、好きよ」
不慣れな手つきで栓を開け、二つのグラスに注ぐ。片方をミハルに差し出し、瓶を傍らに置いて、自分のグラスを持ち、軽く掲げて見せた。
「待っててあげたのよ」
「気を遣わせてしまって、申し訳ない」
「いいのよ。私が好きでやったことだから」
女に合わせてミハルもグラスに口をつける。妙な空気が流れていた。やけに落ち着いていて、しかし腹の底に何か落ち着かないものがある。女はじっとミハルを見て、ミハルも女を見た。
ミハルの知っているこの女は、こんな目をする女ではなかった。
「あなたとこんな風にお酒を呑む日が来るなんて、少しも思ってなかったわ」
「私もです」
「こんなことになるなんて思ってなかった」
「私も」
徐々に女の表情が曇っていく。余裕ぶっているだけで、こんなことが似合う女ではないことを、ミハルは知っている。
「……何か訊かないの」
「何を訊いてほしいんです? ――リゼルヴィン」
あえて敬称をつけなかった。今夜この場所でだけは、煩わしいことはすべて忘れたかった。
女――リゼルヴィンは深い深い溜め息を吐いて、指を鳴らした。
その瞬間、喪服にヴェール付きの帽子の、見慣れた姿になる。髪型だけはそれまでと同じだった。
ミハルは不思議と恐怖の類を感じなかった。むしろ、この姿のリゼルヴィンの方がいい、とすら思う。先程までの姿はミハルの知っているリゼルヴィンとはかけ離れすぎていて、なんとなく落ち着かなかった。
「一人きりでこんなところにノコノコ来ない方がいいわよ。あなたの立場ならなおさら」
「呼んだのはあなたでしょう?」
「ええ、そう。呼んだのは私。でも、来ると決めたのはあなた。私は常に、最終的な決断はあなたたちに任せているつもりよ」
不安定な人だ、と思った。自分自身を支える芯を失った女だ、と。
立場上、四大貴族の中でも最も多くの人と関わってきた。言葉も文化も違う人々と。リゼルヴィンという女は、ミハルが今まで会った人々の中で、最も不安定だった。
誰しも複数の顔を持ち、複数の人格を使い分けて生きている。しかしリゼルヴィンの場合は、使い分けるというよりは、振り回されている印象を受けてしまう。三流役者の不自然な芝居を見せられているようでもあり、精神のバランスを崩してしまった人間の相手をしているようでもあった。
演じきれていない。四大貴族にしては、リゼルヴィンは演技が下手な部類だ。
「エーラがあなたに会いたがってる」
「知ってる」
「戻るつもりは、ないようですね」
「当然よ。今さら……戻れないわ」
「エーラは、あなたが戻って来られるように、四大貴族以外には知られないよう努めていますよ」
「それも知ってる。でも、私は戻れないし、戻らないのよ、絶対に。残念だけれど、私はもう『黒い鳥』だもの」
不敵に笑ったリゼルヴィンは、『黒い鳥』であり続けるために無理をしているように見えた。それが本当にそうなのか、ミハルの願望なのかは、わからない。
昨夜のことだった。ミハルの耳に、リゼルヴィンが囁きかけてきた。彼女の姿はなく、すぐにそれが魔法によるものだと気付く。
囁きは一方的で、すぐに聞こえなくなった。明日夜、指定された時間に、ある場所へ、一人きりで来るように。ミハルは誰にも話さず、誰にも知られないように、その言葉に従った。
ミハルは自分がどれだけ無力かを知っている。アダムチーク当主だった頃ならまだしも、今のミハルは女王エグランティーヌの夫という立場でしかなく、元四大貴族だったということで、王家と四大貴族の癒着を防ぐためにほとんど権力を持たない。不満はなく、ミハル自身から言い出したことでもあるため、何一つ文句はない。しかし、今この状況だと、魔法も使えず、武器もない自分が情けない。
もし魔法が使えたとしても、リゼルヴィンに勝てる気はしないが。
「私に、何か話したいことが?」
「楽にして。何も今すぐあなたを殺すつもりはないわ」
ふ、と笑ったリゼルヴィンは、おもむろにテーブルを指でなぞった。滑らかな指先が何か見えない模様を描いて、最後に細く息を吹きかけた。
すると、ぼんやりと模様が光りだす。
「ここに手を当てて」
少し躊躇ってしまったミハルは、しかしそっと模様の中心に右手を置く。
リゼルヴィンは嬉しそうに、柔らかく言った。
「説明もなしにそんなこと言われても、怖いわよね。大丈夫、死ぬような魔法じゃないわ。……従ってくれて、ありがとう」
一日、長引かせてあげる。
とても小さな声だったが、ミハルはその言葉に、自分は間違いを選ばずに済んだのだと知り、安堵した。
いくらリゼルヴィンを信じていようと、堂々と『黒い鳥』だと宣言されれば、多少は恐怖も抱く。大丈夫だと思っていた自分が情けなかった。
それでも、まだ、リゼルヴィンを芯から恐れることはなかった。ミハル自身、不思議なくらいに。
ミハルにとって、リゼルヴィンは恐るべき相手ではなかった。
確かに『黒い鳥』である可能性は常にあり、その魔力は人間の持つものとは思えない強さを誇るものの、ミハル自身を害することはなかったからだ。何より、妻エグランティーヌの友人であるということが、ミハルに安心を与えていた。
どれだけ揺らごうとエグランティーヌはまだ信じているのだから、自分も、リゼルヴィンを信じなければ。気を引き締めて、リゼルヴィンの目を見る。
「これは?」
「あなたの身を守る魔法」
「……は」
意外な答えに、つい間抜けな声を出してしまう。
吹き出したリゼルヴィンは、控えめにしばらく笑って、ミハルの右手に、自分の左手を重ねた。
「私、これでいて結構優しいのよ。あなたはあの子の大切な人だから……ちょっとだけ、守ってあげる」
リゼルヴィンが唇だけを動かし、願うように目を閉じると、模様が放つ光はいっそう強くなり、消えていった。
瞼を持ち上げたリゼルヴィンの手が離れていくと、そこに模様はなく、ミハルの体に変化があるようにも思えなかった。ただ、満足げなリゼルヴィンの表情だけが、ミハルに妙な違和感を与えた。
「……これが、呼び出した理由ですか」
「いいえ? これだけなら、どこでだって出来るわ。呼び出す必要なんかないわよ」
「では、他にも理由があると」
「ええ。ここからが本題よ」
溜め息にも似た呼吸の後、リゼルヴィンは強く言い放った。
「出来るだけ早く、あの子を連れて逃げなさい。でないと正当な王族の血はすべて絶えることになるわ。ここに居続けるなら、私はあの子を殺すことになる。あの子も、あの子のお腹の、次の王様さえ」




