2-5
レベッカの纏う空気が変わったのがわかった。それまでふわふわと、無邪気そうに見えた彼女だったが、今は違う。まるで何か大きな決断をし、覚悟を決めた人間のようだった。そして、長くそうしている人間と同じように、疲れ切った顔だ。
息を呑み、どこから尋ねようか考える。エグランティーヌは確信していた。
レベッカは、リゼルヴィンの味方である、と。
彼女の口から語られるものは、きっとすべて真実だ。何故、彼女が知っているのか。何故、もう止められないのか。何故、止められないのか。問えば、確かな答えが返ってくるだろう。
しかし、どれを問うたところで、どうにもならないのだとわかってしまった。
絶望しかけたエグランティーヌの手を、レベッカがそっと取った。
「陛下、あの子を止めらないのは変えられませんが、わたくしに考えがございます。陛下があの子を助けてくださるのなら、わたくしの知るすべてをお話しします。わたくしが今までどうしていたかも、何もかも。陛下、あの子を、助けてくださいますか?」
「……ええ。そのつもりでここに来ました。あなたが、リィゼルの味方だと聞いたから」
「……リィゼル。陛下は、あの子のことを、そう呼んでいるのですね。……そう、よかった」
今にも泣きそうに笑むレベッカは、一度、ぐっと力を入れてエグランティーヌの手を握った。そしてそれを離してから、姿勢を正した。
「まず、何故これほど急にあの子が『黒い鳥』になったのかをお教えします。これはあの子の望みではありません。あの子が心底願ってそうなったわけでも、陛下、あなたが過ちを犯したわけでもありません。ただ、あの子にとっての王が、いつまでもシェルナンド=ヴェラール=エンジットただ一人であるだけ」
リゼルヴィンにとって、従うべき王はただ一人。王が死んだところでそれは変わらない。
王に命じられたならば望みもしないこともする。どんな罪をも背負う。それがリゼルヴィンであり、リゼルヴィンはそういう風に育てられた。
他でもなく、彼女の王――シェルナンドによって。
「もし、あの子がシェルナンド以外に従う人間がいるとするなら、アルベルト=メイナードだけでしょう。あの子、まだあの人が好きだから」
アルベルトの名を聞いて、はっと我に返った。
そういえばこのレベッカは、三年前――もうすぐ四年前になる昔、あろうことかリゼルヴィンの前で「アルベルトと再婚したい」などとほざいたのだ。アルベルトの妻であり、自分の妹であるリゼルヴィンに対して、だ。
非常識にもほどがある、非常識と言うにしても足りない発言をしたのだと思い出せば、急に得体のしれない女に見えた。
「失礼ですが、レベッカさま。私はあなたを信じたいと思っています。けれど、リィゼルの友人として、あなたがリィゼルにしたことを許せません。どうして今更、リィゼルの味方をしているのですか。それも、きっとリィゼルには知られていないし、話してもいないでしょう」
どうしても聞いておかなければならないことだった。レベッカは、リゼルヴィンの最初の婚約相手と結婚した過去がある。それを失った後、リゼルヴィンが結婚した相手であるアルベルトを「再婚したい相手」と言った。リゼルヴィンが傷付いたのは事実で、当時のリゼルヴィンは今にも死にそうな顔をしていた。
普通に教育され、普通の頭を持っていれば、そんなことをする人間はほとんどいないはずだ。純粋というにしては、あまりに酷い。
レベッカは苦い顔をした。都合の悪いことを指摘されたからではない。
「……仕方のないことでした。そうする他、私に出来ることはなかった。許しを乞うつもりはありません。あの子に嫌われることも、当然でしょう」
「理由があるのですか」
「ええ、もちろん。信じていただけるかは、わかりませんが。陛下、お時間は? もしよろしければ、わたくしが何を知り、何故リゼルを傷付け、何をしてきたかをお話ししましょう」
すぐさま頷く。城ではミハルがなんとかしてくれているだろう。これを聞かなければ、レベッカを味方と認めるわけにはいかなかった。
語りだしたレベッカの表情は、変わらない。諦めと覚悟に満ちた微笑みを浮かべていた。
「私は父に一つ、任されたことがあります。私と父は仲が悪く、よく対立して、それで私が出家したことはご存知でしょう。その直後、私の居場所を探し出した父から連絡がきて、頼まれたのです。リゼルを、守ってやってほしいと」
父アンドレイとの仲が険悪になり、レベッカが家を出たことは、今となっては有名な話だ。
世間では甘えだとかいう厳しい声もあったが、おおむねレベッカを庇う声の方が多かった。レベッカにとってもそれは切実な問題で、家にいることが苦痛でたまらなかった結果だ。妹であるリゼルヴィンに家のことを頼めば、彼女は快く引き受けてくれたため、これでリゼルヴィン家、何よりもアンドレイとの関係が途切れると信じた。血の繋がりはどうしようもないとして、毎日顔を合わせなくて済むだけで充分に気が楽になった。
しかし、修道院に入ってしばらくして、父から密かに手紙が送られてきた。長い長い手紙だった。居場所はリゼルヴィンにしか伝えておらず、偽名まで使って身分を偽っていたため、初めはリゼルヴィンがアンドレイに教えたのだと思った。しかしそうではなく、自力で探し出したのだと手紙には書かれていた。
そこで、父の状況をようやく知った。
レベッカは、母のことは好きだったが、どうにも父のことが好きになれなかった。
幼い頃からずっとだ。物心ついた頃にはすでに、父への反発がレベッカの中にあった。当時は理由がわからず、ただ不快感のみが反抗心を生んでいた。
成長するにつれ、なんとなく、父のにおいが嫌いだとわかるようになった。立派な人だと言われていた父だが、レベッカには形容しがたい悪臭のする人間でしかなかった。レベッカ以外にはわからない悪臭だ。
そんなわけで、何度も衝突してしまったが、レベッカも好きで突っかかっていたわけではない。父との喧嘩で母に叱られる度、自分だってしたくて喧嘩をしているわけではないと泣いたのを覚えている。
父の、妹への態度も嫌だった。あの冷たい無関心な瞳がリゼルヴィンに向けられるたび、無性に腹が立った。父の何もかもが嫌だった。だから家を出た。
手紙には赤裸々な言葉が綴られていたわけではない。リゼルヴィンに対してどう接していくつもりなのか、レベッカにどう動いてほしいかが書かれていた。長く、詳細に。
それを要約すると、こういうことになる。まず、これから先も、リゼルヴィンに対しては無関心を貫く。婚約者を見繕ってやり、成人を迎えてすぐに結婚させる。次期当主としての教育が終われば、早々にその椅子を明け渡し、どこかエンジットの端にでも隠居する。リゼルヴィンとは一切関わらず、『紫の鳥』としての業務にも手を出さない。レベッカは好きに生きればいい。ただし、リゼルヴィンを守ってやってほしい。
すべて細かに書かれていたのに、リゼルヴィンを守ってほしい、という項目だけはその一文しかなかった。何から、どうやって守ればいいのか、そもそもあれだけの魔法の才能がある妹を守る必要があるのか。レベッカにはわからなかった。
しかし、レベッカは知ってしまった。王シェルナンドが、リゼルヴィンを利用しているだけだということに。そして、自らの才能を知ってしまった。
「私には、一切の魔法が通じません」
エグランティーヌの様子を見ながら、レベッカは滔々と語る。感情を手放したような声だった。
父母が事故で死ぬ一年前に知ったことだ。レベッカのいた修道院に、王立魔法学校の学長であるカスパールが訪れたときに告げられた。あなたは一切の魔法が効かない、珍しい体質だ、と。
そして、それを自覚したとたんに、すべてを知った。カスパールにかけられた呪いのことも、父母にかけられた魔法のことも、すべてがレベッカにはわかってしまった。
レベッカには、一切の魔法が通じないという体質と、世に存在する大抵の魔法の仕組みを瞬時に理解出来るという、とても珍しい才能があったのだ。
このことは誰にも話していない。シェルナンドに知られてしまえば、すぐに処分されてしまうだろうからだ。そうなってしまえば、リゼルヴィンを守れなくなる。
父母は魔法をかけられていた。リゼルヴィンを愛せないという魔法だ。いっそ呪いに近い性質のそれは、父母の本心とは関係なく、リゼルヴィンを嫌ってしまう。ないものとして扱ってしまう。そういうものだった。
シェルナンドはレベッカにも同じような魔法をかけようとしていたと知ったとき、ぞっとして自分の性質に心底感謝した。しかし、それがまたレベッカを苦しめた。レベッカが魔法にかかっていないことを気付かれなかったのは、レベッカがシェルナンドの望む通りに動いていたからだ。魔法など関係なく、レベッカはレベッカのまま、リゼルヴィンを不幸にしていたのだ。愚かな自分を嘆いたが、そうしたところで過去には戻れない。リゼルヴィンに謝ることも出来なかった。そうすれば、シェルナンドにレベッカが冷静であることがばれてしまう。
レベッカにかけられそうになっていた魔法は、リゼルヴィンを愛したまま、不幸にするという魔法だ。悪意しかないそれの通りに、レベッカは動いていた。そして、そう動かざるを得なくなった。魔法にかかっているふりをしなければならず、痛む心を引きずったまま、リゼルヴィンと接した。
妹が望まない行動を取り続けた。そうしなければ、リゼルヴィンは守れない。必死に演技を続け、王の動向を探るため王城の勤め人に近寄り、擦り寄り、時に王城の使用人に紛れた。同時に、『黒い鳥』についても調べた。
シェルナンドがリゼルヴィンを『黒い鳥』にしようとしている、と気が付いてからは、いっそうリゼルヴィンの嫌がることをした。彼女を不幸にするためだ。
「あの子は、不幸でなければなりません。人は一度誰かのぬくもりを覚えてしまうと、それを失ったときに深く深く悲しんでしまいます。ぬくもりを知る前には戻れないのです。リゼルも、一度幸せを知ってしまったら、もう忘れられないでしょう。シェルナンドもそれを承知でした。だから、好きな時期に絶望させて『黒い鳥』に出来るように、不幸であり続けることをリゼルに強いました。父も母も、それに利用されていただけでした」
信じがたいことでしょうけれど、と前置きをして、レベッカははっきりと口にした。
「賢王シェルナンドは、『黒い鳥』を作るために行動していました。そして、今も。リゼルヴィンを『黒い鳥』にするために動き続けている。だから私は、シェルナンド=ヴェラール=エンジットから妹を逃してやるために、リゼルの憎しみをこの身に受けようとしているのです」
強い意志の宿った瞳だった。
これは誰だろう、と思う。目の前の女はエグランティーヌの知るレベッカ=リゼルヴィンとはまったく違う人間に見えた。レベッカの姿をした、他の誰かにしか見えない。それくらい、今のレベッカはエグランティーヌの知る彼女と雰囲気が違った。
エグランティーヌの困惑に気付いたのか、レベッカはにっこりと笑って見せた。
「憎しみを自分に集めることって、意識をすると結構難しいのよ、陛下。自由に振舞ってあの子を苦しめていた頃に戻りたいくらい。だって、わかっていて悪いことをするのは、どうしても難しいの。嫌われたくないって思っちゃうから。でも……結局は、もう止められなくなっちゃった。あの子はもうすぐ『黒い鳥』になる。私だけの『黒い鳥』じゃなくて、存在そのものが『黒い鳥』になるの。ごめんなさい、女王陛下。私はただ、妹を、あなたのお友だちを不幸にしただけだったわ」
悲しみの色は一切ない。諦めの色も。
その目には何もなかった。ただ何か、深い、意味あるはずのものが宿っていた。エグランティーヌには読み取れない何かが。
深い息を吐きながら、レベッカは続ける。
「父は魔法にかけられていることを自覚していました。それを他言出来ないことも。だから遠回しに、私にリゼルを任せたのです。父は私に、リゼルの味方であることを望んでいたのでしょう。こうして敵になっていることを知れば、きっとまた叱られてしまうかも」
掴み切れない女だと思った。もとよりエグランティーヌは人の性質を見抜く力が欠けている。その自覚があるからこそ、ミハルに出会ってからは彼の力を頼っていた。エグランティーヌは表面的な言葉をそのまま受け取り、そのまま信じてしまう。そもそも他人の気持ちがあまり理解出来ないのだ。エグランティーヌの欠点の一つだった。
そんなエグランティーヌが、このレベッカという女を理解出来るはずがない。華やかな女だと評判だった。良く言えば純粋で、悪く言えば自己中心的な女だと。しかし誰もが彼女を憎めなかった。華やかで、誰もが目を奪われる。彼女がどんなわがままを言ったところでかなえてやりたくなる。それだけの不思議な魅力があった。人を惹きつける才能に溢れていた。
けれど目の前の女は、そんな女には見えない。わがままなど言うような女ではない。そう感じた。その差がエグランティーヌを混乱させた。
「……納得がいきません。いえ、それがあなたにとっての最善であったのだろうとは理解出来ます。しかし、そのせいでリィゼルが不幸になるなんて、本末転倒でしょう。不幸にならなければいけない人間などいないはずです。第一、リィゼルが不幸になれば、『黒い鳥』になってしまう。わかりきったことのはずなのに、どうしてそんな、危険なことを」
「先程も言いました通り、第一はあの男の目を欺くためです。あの子を不幸にしたのは、不幸に慣れさせるため。どんなに辛い未来が訪れても、昔を振り返ればあの頃よりはと思えるように。賢い方法ではないとわかっています。私にとっては最善の方法でしたけど、他から見たらそうではないことも。……こうして言葉を重ねていくと、どうしても、言い訳になってしまいますね」
苦く笑った彼女は、一度口を閉じ、こちらの出方を待った。
これを伝えられて、エグランティーヌはどうすればいいのか。必死になって頭を動かしていると、ずっと黙っていたギルグッドがようやく言葉を発した。
「主さまの行方は?」
「それがわかったら苦労しないわ。ずっと探してはいるのよ、でもだめ。あの子が本気で逃げたんだもの、いくら私に魔法が通用しないからって、証拠隠滅は出来るわ。目撃情報がなさすぎて、見つかるはずがないじゃない」
「なるほど、まだ見つかりはしていないと。ただ――エニーをここに連れてきましたね。きっと近いうち、主さまはここに来ますよ。エニーを奪い返しに」
「……あの子がどうしたっていうの。まさか」
「正解だと思いますよ。エニーは主さまにとって重要な存在です。魔法の仕組みがわかるというなら、エニーがどんな才能を持っているかもわかるでしょう」
「そんな、ひどい、それはないわ、あの子がそんなひどいことを」
「しますよ。『黒い鳥』ですから」
エグランティーヌにはわからない会話だったが、レベッカの青ざめた顔を見れば、それがよくないことであることは理解出来た。エニーとは誰なのかとギルグッドに尋ねると、にこやかに答えが返ってきた。
「リゼルヴィンという最強の女を殺す、唯一の毒の血を持つ幼い女の子ですよ」
「ちょっとで足りる血じゃないわ。エニーの血を、一滴残らず飲み干さなきゃ、死なないわよ」
「それは……まさかリィゼルは」
「ええ」
何が面白いのか、ギルグッドだけが笑っている。
あの子はそんなことしない、と小さな声で繰り返すレベッカは、まだ良心ある人間だったらしい。エグランティーヌも吐き気がした。
「我が主さまは、いざとなれば、エニーの血を搾り取って、飲み干して自ら死ぬつもりです」
そのためにエニーを拾ったのだと、ギルグッドは言う。




