1-7
何かお手伝い出来ることはありませんか。
囁くような声でリゼルヴィンは言った。食事の手を止めて彼女を見る。よく通る声だということもあるだろうが、聞こえなくてもおかしくはない小さな声だったのに、アルベルトの耳には彼女の言葉がはっきりと届いた。
久々に一緒に食事が出来た。アルベルトもリゼルヴィンも、今日は帰りが早かったのだ。あまりに珍しいことで、アルベルトから誘った。声をかけなければ、きっと部屋に籠って出てこなくなるだろうと思ったからだ。
「何か、したいのか」
しまった、と眉を顰める。声が鋭くなってしまった。これでは怒っているように思われても仕方がない。
弁明のために開いた口はリゼルヴィンに遮られた。リゼルヴィンの口は、いつもと変わらず滑らかに音を出す。
「いえ、特別これがしたい、ということはなくて。本当に、何かお力になれればいいなと思っただけです。私の力で出来ることなら、アルベルトさまの手助けになるかと……。ご迷惑でしたら、聞かなかったことに」
どこか調子でも悪いのか心配になりそうなくらいに小さな声だった。いつもは人より少し大きいくらいなのに。
何かあったのか、と尋ねてみる。するとリゼルヴィンは、俯きがちな顔を上げて、驚いたとでも言いたげに目を見開いた。
「い、いえ。何も」
「そうか。それならいい」
「はい……。あの、アルベルトさまこそ、どうかなさいましたか」
どうかしたか、と問われても、変わったことは何もない。内側にどろどろしたものを隠して、リゼルヴィンの前ではほとんど使わなかった表情筋を動かし、口では彼女の真似をした。
「何も。私のことはいい。今夜はお前のことが聞きたい」
女性たちに人気の笑みを完璧に作り上げ、優しい声を心掛ける。
すると、おぞましいものでも見たかのようにリゼルヴィンは身を震わせた。ひどく顔を歪めて、女性がすべきでない顔をする。
それも一瞬のことで、困ったような笑みを浮かべる。
「私のことなど。あの……本当に、忘れてください。なんでもありません。よくよく考えてみれば、私に手伝えることなどありませんね。ごめんなさい」
また俯いたリゼルヴィンに、アルベルトも笑顔を消す。
リゼルヴィンの仕草や言葉は、どこか演技じみている。先程のとんでもない顔がそれを証明していた。アルベルトに対するものと、公の場でのものとではまったく態度が異なり、幼い頃の彼女ともまた違った。場面ごとに人格を変えているのか、と本気で疑ってしまうほどに、リゼルヴィンは多くの顔を持っている。
本物を得ること。それが重要なのかもしれない、とアルベルトは考えた。考えて、その方法を頭の中でいくつか浮かべる。行動に移すことはないだろうが。
「……一つ、頼みたいことがある」
思いつきを口にしてもいいのか躊躇いながらそう言えば、リゼルヴィンは勢いよく顔を上げた。上げたり下げたり忙しくさせているな、となんとなく思う。
「近頃、『魔力を盗まれた』と訴える魔導師が増えているのは知っているだろう」
「え、ええ。こちらにもそのお話は届いております」
「それについて訊きたいことと、頼みたいことがある。本当に、そんなことは可能なのか? 盗まれた魔導師は無力化されると聞いたが」
魔力の連続窃盗事件は、今はまだ被害者が少ないが、今後被害が拡大する可能性は高い。そうなれば大きな問題となるだろう。一般の警察では魔法を使われてしまうと敵わないため、王宮魔導師たちも動かされているが、何も手掛かりがないと聞いた。
アルベルトはこの件に関わっていないため、具体的に現在どのような状況になっているかはわからない。魔法についても無知に等しいため、リゼルヴィンに訊いてみることにしたのだ。魔法に関することで彼女の右に出る者はそうそういない。
「可能と言えば可能ですが、難しいことです。魔法使いと呼ばれる程度になれば簡単でしょうが、並みの魔導師ではとても。私は盗んだことも盗まれたこともないので、具体的にどう、とは言えませんが、確かに無力化されるそうです。一切の魔法が使えなくなると」
「なるほど。ならば魔法使いであるお前に頼みたい。――無力化させたい魔導師がいる。すでに陛下のご許可はいただいている。頼めるか」
リゼルヴィンが息を呑んだ。まさかそんなことを頼まれるとは思わなかったのだろう。わかりやすい困惑を見せた後、話を聞くだけなら、と答えた。
聞いてしまったら断れなくなることを、アルベルトは知っている。リゼルヴィンとはそういう女だ。アルベルトが見てきたリゼルヴィンの顔はそう多くなく、胸を張ってリゼルヴィンのことを知っているのだとも言えないが、これだけは確信していた。
「その魔導師というのは、お前の師カスパールだ、リゼルヴィン」
意外な人物の名に、リゼルヴィンは立ち上がって抗議しようと口を開き、言葉が見つからないのか閉じて、じっとアルベルトを見つめた。
カスパールは善良な人だ。アルベルトもよく知っている。あれほど無害で知恵ある人は滅多にいない。
「……理由を、お聞かせください」
怒りの籠った声は震えていた。ゆっくりと座りなおしたのを見て、望まれた通りに話す。
「不正の疑いがある。魔法を使って逃げられてはどうしようもない、そうなる前に無力化させておきたい」
「不正? 学長さまがそんなことをなさったと? そんなはずがありません。一体どんな疑いがあると言うんです」
カスパールはリゼルヴィンの恩師であり、よく慕っているということは知っている。知った上で頼んでいる。
ここからどう説得するか。慎重に言葉を選んだ。
「私に学長さまを裏切るような真似は出来ません。どうしてもと言うのなら、グロリアさまにでも頼んでください。彼は王宮魔導師ですから、私より信頼出来るでしょう」
「彼が私に頼まれてくれるような男か?」
「私もあなたの頼みを聞くような女ではないと、そう言えば引き下がってくださいますか?」
「それはない。お前はいつも頼まれてくれるだろう」
頼めるような魔法使いはリゼルヴィンかファウスト=クヴェートだけ。残念ながらファウストは現在多忙で、とても頼めるような状況ではなかった。リゼルヴィンはしばらく、普段よりは時間があると言っていた。頼むなら、リゼルヴィンしかいない。
そう言ったところで機嫌が取れるわけでもなく、不正の疑いとは何か、ともう一度問われた。
溜め息を呑み込んで、逡巡し、答える。
「私にはわからない世界の話だ。『魔導師の骨を呑んだ』らしい。魔導師の間では禁忌なんだろう。宮廷内の魔導師や、魔導師をよく思っていない者たちから不満が上がっている。禁忌を犯した者を学長などにしておいていいのか、と」
「たったその程度で不正ですって? なんてこと……いつからこの国はそんなに腐ってしまったのよ。魔導師の骨を呑む、ということは確かに禁忌とされていますが、正式に禁止されてはいません。ならば正式に罰することも出来ないはずです」
「確かに法で定められてはいない。こちらとて悩んでいるところだ。陛下もな。だが、捕らえず、自由にさせているわけにもいかない。知っているだろう、今は微妙な時期だ。結果がどうなろうと、こちらが動いたと見せたかどうかが後々作用してくる」
「そんなことは知っています。けれど骨を呑んだ程度で、とんでもない悪であるような扱いになるのが気に食わないんです。魔導師にとって魔力を盗まれる、魔法を使えなくされるということが、どれだけの屈辱がわかっていらっしゃらないようですね。今後は軽々しくそんなことを言わないでください。不愉快です」
口調こそなんとか保っているものの、無表情は崩れていた。
骨を呑むのは禁忌、それは確かなことだ。けれどこれまでのカスパールの働きを考えれば、その程度のことは目を瞑ってもいいはずだ。
アルベルトが魔法に関して知識が薄いことを狙って、その程度のこと、と繰り返しているのだろう。怒りだけなく、焦りもこちらに伝わってきた。なんとしてもカスパールを守りたいらしい。
冷静な声を意識する。鋭くなりすぎなければいいが、と慎重になりながら、リゼルヴィンをよく見た。
「お前がカスパール殿を敬愛していることはわかっている。だからこそだ、リゼルヴィン。ファウスト=クヴェートに頼めないということも確かにある。だが、お前ならばカスパール殿を説得出来るだろう。こちらも手を回して早期に解決出来るよう尽くす。それでも、駄目か」
「嫌です。他を当たってください」
そもそも一体どこからその話が洩れたのか。呟き、苛立ちを隠さず舌打ちするリゼルヴィンを見て、アルベルトも溜め息を吐いた。
出来れば言いたくなかったが、言わないわけにはいかない。頭痛がして、気分も悪い。もう長くは耐えられないだろう。呑まれてしまえば、きっと二度と冷静にはなれない。
リゼルヴィンの目を見る。目が合うのを待って、言った。
「今の話はすべて嘘だ、リゼルヴィン。魔力の窃盗が続いているのは事実だが」
「……なんですって」
これまでアルベルトは一度も嘘を吐かなかった。真実を隠すことはあっても、それを嘘で補うことはしなかった。
リゼルヴィンが驚くのも無理はない。だが、その驚いた表情は、三年前にはしなかった顔だ。
「これは――現在だろう」
「……何を」
「これは、昔の話ではない。そうだろう、リゼルヴィン。私の記憶ではない。記憶から引きずり出されたものではなく、確かに今ここで起きている。違うか」
「何を、言っているのよ」
「今日は一日、カスパール殿と共にいた。あの部屋の香は『世界の力』にも多少は効くらしいな。それとも、お前が私にかけた魔法のおかげか。どちらかはわからないが、もう私は気付いている。誤魔化さなくてもいい」
お前はもっと感情が希薄だった。
そうは言ったが、アルベルトは心の中だけで少し訂正した。リゼルヴィンは感情を表に出さなかったが、自分もまた、感情を表に出す努力をリゼルヴィンの前では怠っていた。
だからお互い、丁度いい距離を見つけられなかったのだろう。それで上手くいっていたように見えたのは、ただ、リゼルヴィンが常に気を使っていたからではないか。
ぐっと唇を噛んで、こちらを睨みつけるリゼルヴィンから、目を逸らさないでおく。
「どこかに消えてしまったと思っていたら、すぐ傍にいたのか。それも、私に匿われる形で。流石だな、リゼルヴィン」
「……私の力だけじゃないわ」
「それでも、お前が思いついたんだろう。イストワールという方は思いつかないはずだと、カスパール殿は言っていた。お前が優秀だということは、十分に理解出来た」
「……そうね」
もう誤魔化す気もなくなったらしく、リゼルヴィンは力を抜き、背もたれに体を預けた。
猫背になったリゼルヴィンはまた俯いてしまい、唇だけを動かして何か呟いた。その瞬間、アルベルトの頭痛が消える。靄がかかっていた記憶もはっきりした。気分の悪さは、治らなかったが。
しばらくして顔を上げたリゼルヴィンは、困ったように笑っていた。よく見た、嫌いではない笑顔に、よくない予感がする。
「ざーんねん。あとちょっとの間は楽しく過ごせると思ったんだけど。駄目ね。悪いことをしたら、どんなことをしようと上手くいかなくなっちゃうんだわ」
「……どうして、いなくなったんだ」
「特別な理由なんてないわ。ただ、いなくなってしまいたかっただけ。もう面倒になっちゃったのよ。何もかもが」
「何故ここにいる」
「あなたと一緒にいたかったから」
リゼルヴィンの真っ直ぐな言葉に、アルベルトの方が面食らってしまった。
なんでもないことのように言われたそれは、淡々としていて、しかしその中に何かの期待が含まれていることは、アルベルトにもわかった。リゼルヴィンは何か、アルベルトに期待している。けれどその期待は、叶えられるはずのないこととして、諦めによって形作られていた。
「あなたと、仲直りがしたかったのよ。正攻法では受け入れられないはず、だったら騙してでも、ほんの少しの間だけでも、仲良くいたい。それだけよ。あなたを操って何かしようなんて、考えてないわ」
「何故……」
「今日のあなた、本当におかしいわね。目に見えて動揺しちゃって、珍しいわ。あの無表情はどこに行っちゃったのかしら」
くすくす笑う声は無邪気だった。疲弊の色は滲んでいるものの、その中に嘘は含まれていない。
「学長さまは本当に素晴らしい人ね。あの方は魔法を弾く香を作れるとは聞いていたけれど、まさかイストワールの力まで弾くなんて。今日は違うにおいがすると思ったら、そう、そういうことなの。本当、敵わないわ」
アルベルトが何も言えなくなっている間、リゼルヴィンは乾いた小さな笑い声をあげていた。諦めによる笑い声は虚しく、何か言わなければと言葉を探したところで、舌が重く感じて一言も口に出来ない。
ゆっくりと立ち上がったリゼルヴィンは、パチンと指を鳴らした。途端、微かに匂っていたカスパールの香が消える。
「わかってしまえば、簡単なのよ。わからないから引っ掛かる。ここまでね、アルベルト。もうしばらく、表に出てくるつもりはないわ。誰かに言いたければ言って。私はちゃんと生きているし、何か支度をしている。ずっとメイナードの街屋敷にいたけれど、もうどこに行ったのかわからないって」
「……もう、いなくなるのか」
どうにかしてここに留めなければ。
そう思って絞り出した声は、掠れてみっともなかった。
「ええ。あなたもその方が嬉しいでしょう」
慌ててリゼルヴィンに駆け寄った。空中に指を滑らせるのを見て、どこかへ転移するつもりだとわかったからだ。その左手を掴み、どこにも行けないようにする。
「……離して」
「離さない」
「どうしてよ。私がいない方があなたにも都合がいいでしょう」
「訊きたいことがある」
掴んだ手は離さず、アルベルトはじっとリゼルヴィンと目を合わせた。気まずそうにするリゼルヴィンは、逃げないから離して、ともう一度頼んできたが、黙殺する。
右腕は手袋をしているが、左腕はしていない。そのためリゼルヴィンの体温を直に感じられた。とても冷たい手をしている。
「これから、何をするつもりだ」
アルベルトの問いに、びくっとリゼルヴィンの肩が跳ねた。何か乞うような目をした後、また諦めたような顔をして、最後にはこちらを見下すような笑みを浮かべた。
「何をするつもりだと思う?」
「訊いているのはこちらだ」
「じゃあこう答えるわ。あなたの答えによる、と。――あなた、もし私が『黒い鳥』になったとしたら、私と国、どっちを選ぶ?」
その問いは、メルキオールの言葉と重なった。
リゼルヴィンが『黒い鳥』になる。それは、エンジットの敵になるということ。
国を救うためにはリゼルヴィンを捨てることになり、その逆も同じ。決断を迫られるまでに、まだ時間は残されているとメルキオールは言っていたが、こんなに早くそのときが来るとは。
ここで下手な返事をしてしまえば、リゼルヴィンは悪になる。アルベルトはほとんど確信を持ってそう感じた。理由はわからない。だが確かに、ここが分岐点になる気がした。
リゼルヴィンの目が返事を急かしている。緊張しているのは、リゼルヴィンも同じだった。
「もし、あなたと私の立場が逆だったなら。……私は、あなたを選ぶわ」
あなたには、そんなこと出来ないでしょう。
そう言われている気がした。今日のリゼルヴィンは大胆だった。夫婦仲が今より良好だった時期にもなかったくらいに。
答えはとっくに出ているが、それを口にしていいのかどうか。考えて、けれどリゼルヴィンの言葉を聞いて、すぐに答えた。
「国を」
短く、どちらとも取れる答え。しかしリゼルヴィンの目は絶望に染まった。
アルベルトは国しか選べない。どうしても、そんな風に育てられた。国以上に大切なものなどない、そう思い込んでいる。『黒い鳥』を相手にするとなれば、なおさら。
リゼルヴィンが薄く口を開いたのを遮って、続ける。
「私は、国を選ぶだろう。だが、お前が望むなら――お前を選んでも、いい」
もし、リゼルヴィンが望むなら。帰りの馬車の中で考えていた。
アルベルトは国を守るよう育てられた。アルベルト自身、国を一番に考えて、仕込まれた教育は正しいと信じている。
だが、リゼルヴィンの「自分は不幸ではない」という言葉を理解した今――その異常性も理解した。
リゼルヴィンには拒絶されていると思ってきたが、こんな風にどちらか選べと問われるということは、きっとまだ完全には嫌われていない。繋ぎとめられるのならばそうしたい。何が悪かったのか、自分はどこを直せばいいのか尋ねて、すべてを謝って、もし許されたら、共に。
望まれれば、国を捨てられる。今ならば、きっと。
「……なによ、それ」
アルベルトの都合のいい期待は、リゼルヴィンの笑みで打ち消された。
「私に選ばせようというの。そんなの、選んで後悔したとき、私のせいにしたいがためでしょう。最悪だわ」
掴んだ手の力が緩んだ隙に、リゼルヴィンはアルベルトから距離を取った。
まずい。逃げられる。もう一度その手を掴もうと伸ばしたところで、アルベルトの目にも見える魔法陣が宙に描かれた。
「見損なったわ、アルベルト=メイナード! あなたに委ねようとした私が馬鹿だった!」
アルベルトはリゼルヴィンの魔法を無効に出来る。しかしそれは、アルベルトに危害を加えるものや、アルベルトがリゼルヴィンに触れている間だけのもの。
転移の術はすでに完成している。リゼルヴィンの体は淡く光って――言葉を残して霧散した。
「エグランティーヌに伝えなさい! 『黒い鳥』は、あなたの首を狩りに行くと!」




