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それにしてもあなたは表情が変わりませんね、と言われた。
アルベルトはあまり表情が変わらない。自覚はあった。元の表情が、どこか機嫌の悪そうに見えるものだということも。
今回はかなり驚いた方なのだが、あまり顔に出てはいなかったらしい。意識していなければ無表情になってしまうというのは、他者に誤解を与えてしまう厄介なものだ。
座りなおしたカスパール、もといメルキオールは、おもむろに指を鳴らした。途端に、部屋に焚かれた香のにおいが強くなる。思わず、顔をしかめてしまった。
「すみません。ですが、あなたの呪いを弱めるためです。カスパールはあらゆる手を使って、この部屋でのみ、香がなくとも呪いからある程度逃れられるようになりましたが、あなたの呪いはあまりに強すぎます。話が終わるまで、辛抱してください」
ともすれば女と見紛うほどの美しさを持つ青年は、一見柔らかく、慈愛に満ちた笑みを湛えている。
しかし、その中に、確かにカスパールの顔に滲んでいた憂いの色を見つけ、少しばかり安堵した。初対面に等しい気がしてしまうが、信用は出来る。
「はじめから『メルキオール』として話しておけばよかったと、お思いですか」
「話の内容にもよりますが。まだ、あなたが何を話すつもりなのか、私にはわからないままですので」
「そうですね。それは当然です。そも、この話があなたに必要なのか、カスパールにも、メルキオールたる私にもわかりません。知りたくない真実を押し付けてしまう可能性も十分にあります。言ってしまえば、ただ私たちが抱えきれなくなったものを、分けてしまいたいだけなのでしょう。ただし、この話は、この国のすべての誤魔化しを暴くことになり。賢王シェルナンドの名誉を汚すことになります。けれど、リゼルヴィンが悪ではないことの証明でもあります。聞きたくないと言うのならお話しません。どうしますか」
その問いの答えを、アルベルトはすぐに見つけた。
しかしそれを言うべきか、その権利があるのか逡巡してしまう。結局、後悔しない方を選んだ。
「聞きましょう。リゼルヴィンに、多少なりも関わることならば」
そう返事をしたアルベルトは、国のことを少しも考えていなかった。常々国のために動いているメイナード家当主としては、決してあるべきでない姿だった。
けれど、アルベルト=メイナードという一個人として、そう答えていなければ後悔すると思った。今、国で何が起きようとしているのかは、まだ把握しきれていない。しかし、カスパールやメルキオールの口ぶりから、今後、大きなことが起きるのだろう。それも、リゼルヴィンがかかわって。
きっとリゼルヴィンは『黒い鳥』になってしまうのだろう。正気のままで国を乱そうとは思わないはずだ。少なくともアルベルトの見てきたリゼルヴィンは、エンジットを人一倍愛している。シェルナンドの作り上げた国だから、という理由でしかないかもしれないが、国が揺らいでウェルヴィンキンズが危険にさらされる可能性があれば、おそらく何もしない。正気を失うほどの、何か、とてつもなく苦しいことが起きない限り。
今、リゼルヴィンが国を揺らすつもりでいるのなら、『黒い鳥』となり、伝説と同じように動くだろう。
そんなとき、リゼルヴィンが悪でない証明があれば、極刑からは逃れられないとしても、世間の評判は少しでも引き上げられるかもしれない。今でさえ恐れられ、悪評ばかりなのだ。死んでも悪と評され、歴史に残るのは、悲しいはずだ。
アルベルトの心を読んだように、メルキオールは深く頷いた。
「死した後の辱めは、当人は意識も何もないとはいえ、関係者が苦しみますからね。カスパールもそれはわかっていたはずなのに、老いというものは決断を鈍らせます」
これから話すことは、決して誰にも話してはならない。すべての終わりが訪れるまでは。
淡々とした声だった。努めて感情を表に出さないようにしているような。
「まず、近いうちにリゼルヴィンは真に『黒い鳥』となるでしょう。計画ではもう少し先のことでしたが、リゼルヴィンとイストワールが出会った今、もう止められはしません。エンジットを潰す、それが計画の目的でしたが、もしイストワールがリゼルヴィンに真実を伝えていたのなら、リゼルヴィンの怒りの矛先は王族へと向かうでしょう。けれど計画に支障はありません。元より、王族を根絶やしにするために国を潰そうとしていたのですから」
「それが本当なら、止めなくては」
「今、止めることも可能です。ですが、そうすればリゼルヴィンは救われません。真の『黒い鳥』など通り越して、悪魔になってしまいます。彼女に未練の残る死を与えてはなりません。お勧めはしませんが、国だけを救いたいのなら、どうぞ」
メルキオールはアルベルトの痛いところを的確に突いてきた。
国を救いたいのならリゼルヴィンを見捨てろと、そういったのだ。反対に、リゼルヴィンを救いたいのなら、国を捨てろと。
現状を把握しきれていないアルベルトだったが、その言葉に、これから重大な決断を迫られるときが来るのだと察する。そのとき、迷わずに国を選べるかどうか。
きっと選ぶことは出来るだろう。すでにアルベルトとリゼルヴィンは、離縁すると約束してある。リゼルヴィンが今ここにいなくても、それは変わらない。
選ぶだけなら、簡単だ。二つを選べないことは、よく知っている。
「まだ少し、時間はあります。それまで悩むといいでしょう。このような決断は、その場面になければ、最良などわかりませんからね。今は、昔話を聞いてください。少し、長くなりますよ」
感情を包み隠した微笑みのまま、メルキオールはゆっくりと口を閉じ、またゆっくりと開いた。
「リゼルヴィンは、かわいそうなことに、生まれる前に殺され、無理をして生き返されました。そして、七つの頃からずっと死んだままなのです。ある女性を再現するために、賢王シェルナンドの復讐を果たすためだけに、計画に加担させられているのです」
すべての始まりはどこだったのかと問われれば、神話時代にまで遡ってしまう。
しかし、リゼルヴィンの不幸の始まりはどこかと問われれば、シェルナンド=ヴェラール=エンジットの生まれる少し前、と答えることになる。
その頃のエンジットも、それなりに栄えていた。海はないが国交は盛んで、四大貴族が王を支えていた。
平穏な国だった。そこへ、守護女神と呼ばれる存在が訪れるまでは。
イストワール、アクチュエル、プロフェットの三人は、世界を移ろう中、エンジットに立ち寄った。この国は守護女神信仰が薄いため、人目を憚る必要がなく、しばらく留まることにした。
彼女たちは煩わしいことを嫌うが、自分たちが守護女神と呼ばれ、崇められていることを利用することに躊躇いはなかった。生きるためならば手段を選ばないのだ。都合のいい時だけ女神のような顔をして、人の親切を分けてもらうことにしていた。
国教にしているような国相手にはしなかったが、エンジットには、自分たちが守護女神と呼ばれる女だと明かした。国内にいる間の庇護を求めるためである。国境ではないが、周辺諸国との外交のことを考えると、エンジットはイストワールたちを拒めない。証拠となるような神秘を見せてやれば、すぐに王城の滞在許可が下りた。国王一家からも歓迎され、楽しい滞在になるだろうと、イストワールたちは珍しく長期滞在を決めた。
一月目は穏やかに過ぎた。が、問題が起きたのは二月目からだった。
アクチュエルが国王に恋をしてしまった。世界に落ちて何千年と生きてきた中で、初めてのことだった。
人と結ばれてはいけない、という決まりはない。けれどプロフェットは、強く反対した。
「未来は言えない。あんたたちにすら。でもこれだけは言わせてほしい。あの男はだめだよ。よくない未来になる」
その先の未来は悪いものだとプロフェットは言った。アクチュエルは泣き、その生まれを憎んだが、最後には諦めようと努力していた。
しかし不運だったのは、王が部類の女好きだったこと。手こそ出さなかったが、アクチュエルをその気にさせるようなことばかり吐いて、諦めの邪魔をした。
苦しむアクチュエルを見ていられなくなったイストワールが、王に直接文句を言いに行ったのが、悪かったのだろう。
王は次の日に、イストワールを側室に迎えると宣言した。三人ともが驚いた。そして、アクチュエルはまた泣いた。
「あの人は、イストワール、あなたを選んだのね」
涙に濡れた声は、イストワールを責めているようだった。
アクチュエルはイストワールを責めたいわけではないと、わかってはいた。わかってはいたが、イストワールはどうしても責めているように聞こえてならなかった。
すぐにでも王城から、エンジットから出てしまおうとプロフェットが言う。しかし、意外にもアクチュエルがそれを拒んだ。
「いいのよ、イストワール。わたしを気にしないで。プロフェット、まだ出られないわよ。お世話になった王さまに、お礼をしなくちゃだめじゃない」
「でも、このままではいけません。わたしは側室になりたいなど望んでいません。アクチュエル、あなただって」
「いいの。わたしはいいの。あの人の近くで、あの人を見ていられたら、それでいいの。何より、イストワール、選ばれたのがあなたでよかった。わたしたちは三人で一人。あなたはわたしの妹であり、姉でもある。そんなあなたが選ばれたのだから、喜ばなくてはならないわ。わたしがあの人を諦められるまで、ここに居させて。あなたはあなたで、好きなようにしてくれていいから」
そう言われてしまえば、イストワールからは何も言えなくなった。三人はもうしばらく、エンジットにいることにした。
王も三人を手放すつもりはまだなく、滞在は許された。だがやはり、イストワールを側室に迎えると言って憚らない。来る日も来る日もイストワールは訴え続けた。アクチュエルは気丈に振舞っていたが、未だ国を出ようとしないのは、諦められていないからだ。そんな状態のアクチュエルの前で、イストワールが側室になるわけにはいかなかった。
イストワールは頑なに王を拒んでいたが、しびれを切らした王は――無理矢理にイストワールをものにした。
長く生きているとはいえ、イストワールは女だ。人の女と変わらない力しかない。押さえつけられてしまえばすぐに動きを封じられてしまうし、相手が男ならなおさら勝てない。
王は一度怒ると手が付けられなくなる男だった。イストワールの必死の抵抗を、王は暴力でねじ伏せた。死を感じ大人しくなったイストワールを見て満足し、その体を征服した。
イストワールのどこが気に入ったのか、アクチュエルのどこが気に入らなかったのか、イストワールにはわからなかった。
翌日、アクチュエルに頭を下げに行った。彼女は現在を司る。今、この世界で何が起きているのか、すべて知っている。そんな彼女に隠し事は出来ない。
アクチュエルは憔悴しきった顔をしていた。イストワールを認めて、無理した笑顔で言う。
「いいのよ、イストワール。喜ばしいことじゃない。あの人はあなたを選んだのだから、当然よ。きっと幸せになれるわね」
幸せになど、なれるはずがない。
そんな反論は許されなかった。イストワールにそんな権利はなかった。
望まない現状に対し、イストワールは無力だ。今を変えることも、未来を変えることも出来ない。ただ力ない抵抗を無意味に続けることしか、出来なかった。
神を呪うような日々だった。変わらずアクチュエルは微笑んでいたが、急激に食が細くなった。以前はイストワールとプロフェットが食べる量を合わせて、更に倍にしたような量を食べていたのに。
元の大食いに戻ったのは、イストワールの懐妊が発覚してからだった。
「素敵だわ、イストワール! おめでとう、あの人との子どもね。ああ、まだまだ先のことだというのに、もうその子に会いたくてたまらないわ!」
久し振りに、陰りのない笑顔だった。言葉に嘘はなく、心底喜んでいるようだった。
それからアクチュエルは、甲斐甲斐しくイストワールの世話をするようになった。日中はほとんど顔を見せなかった王も、子が出来たと知ればわざとらしい優しさを向けてくるようになり、イストワールは何か嫌な予感がしたものの、アクチュエルが喜ぶならばと、産むことを決意した。
アクチュエルは元の明るさを取り戻し、生き生きとした笑みで日々を過ごした。すでに何人もいた王の側室たちは、アクチュエルによって悪意ある者とない者に分けられ、悪意のない者だけをイストワールに会わせた。積極的な他者との関わりを避けてきた三人だったが、これから出産に臨み、生まれた子が成長するまではきっとこの国で暮らすことになるイストワールには、少しくらい友人がいた方がいいとアクチュエルは考えたのだ。
一時は王の顔も見られなかったアクチュエルだったが、世話をしているとどうしても王に会ってしまう。傷ついてしまうかもしれないと心配していたが、それは無用だった。ごく自然な対応をし、仲良さげに話す姿に安心した。
そんなアクチュエルを見ていたら、イストワールも頑なな態度を解さなければならなかった。王に好感は持てなかったが、イストワールは親に望まれず生まれてきた不幸な子供の歴史をいくつも知っている。少なくとも王は、子が生まれることは喜んでいた。まだイストワールは、同じことは出来ない。その分、王が望んでいると考えれば、少しは気が楽になった。生まれてくる子の人生は、そう酷いものにならないだろう、と。
いよいよ時期が近付いたとき、プロフェットが神妙な面持ちでこう言った。
「あんたは選択を間違った。でも、今ならまだ正せる。まだあんたが苦しまない道を選び直せる。忘れるんじゃないよ、あたしたちは絶望しちゃいけない。私情に左右されちゃいけない。誰も恨んでも憎んでもいけないんだ」
小さな声で、アクチュエルはもうだめだ、と言ったプロフェットは、今にも泣きそうな顔をしていた。
もう見ていられないから、先に国を出るのだと告げられて、その日からプロフェットを見ることはなくなった。プロフェットは、三人があるべき姿に、一人だけ先に戻ったのだ。長く一つの地に留まってはならない。今がおかしな状況であることを、改めて思い知らされた。
その翌日に、陣痛が始まった。死を知らないイストワールだったが、これまで経験したことのない痛みに、真剣に死んでしまいそうだと思った。隣で手を握ってくれていたアクチュエルも必死な顔をしていた。二人は強く手を握り合い、長い時間を戦った。
そうして生まれてきた子は男だった。王は大いに喜び、見守ろうと部屋の外で待機していた、仲良くなった側室たちも祝ってくれた。
唯一、アクチュエルだけは、祝いの言葉は口にしなかった。
「おつかれさま、イストワール。大変だったわね、ごめんね」
晴れ晴れとした、美しい笑顔だった。
けれど。
「アクチュエル!」
「ごめんね、イストワール。でももうだめなの。もう辛いの。苦しくて苦しくて、見ていられなくて、誤魔化せなくて――あなたを呪ってしまいそうなの」
素早い動きでスカートの中に隠し持っていたナイフを取り出し、アクチュエルはそう言った。
「あなたを呪うくらいなら死んだ方がましだわ。あなたにはその子がいるからいいわよね。あの人との子どもだもの。きっと美しい子になるでしょうね。……わたしも、あの人の子を抱いてみたかった」
ナイフを持つ手は震えてなどいなかった。とても美しい笑顔で、けれど泣きながら、アクチュエルは自らの首を掻き切った。
誰も止められなかった。それはそうだ。アクチュエルは現在を司る女。今を知るだけでなく――今を支配出来る。『現在』というほんの刹那の時、しかし人が最も縛られている時に、逆らえるはずもない。
赤い、生ぬるい血が飛び散った。イストワールの白い肌を染め、子の顔を濡らした。
床に倒れたアクチュエルは、落とされた人形のように死んでいた。何千年も共に生きたわりにあっけない死だった。ああすれば、自分も死ぬのだと思うと、自然その光景を想像してしまう。そして、そうすべきだと思った。
イストワールは間違った。絆されかけた自分が情けない。アクチュエルを最も苦しませているのは自分だとわかっていながら、アクチュエルが苦しみに耐えて笑っていることを忘れてしまっていた。
腕の中の子が泣き喚いている。誰もその場から動けず、泣き止ませられる者はいなかった。
生まれたばかりなのに、血に濡れてしまうなど、なんて最悪な誕生なのだろう。
ぼんやりとそう思う。けれど、けれど残酷な思考が止まらない。
プロフェットは絶望してはならないと、恨んでも憎んでもならないと、そう言ったのに。
「……生まなければ、よかった」
イストワールは、その子と、その父たる王を、深く深く呪った。
その子供が、後に賢王と呼ばれる王になる、シェルナンド=ヴェラール=エンジットである。




