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ここ数ヶ月、失踪したリゼルヴィンのことを考える時間が長くなったからか、昔のことをよく思い出すようになった。
リゼルヴィンとアルベルトの仲が、今より随分とましだった頃。もう四年前になってしまいそうな昔のことだ。大した思い出はないが、夫婦として、それなりに成り立っていた日常の風景に、何か違和感を覚えてしまう。
街屋敷から王城へ出仕の道中、この日の予定を確認する間に、あの夜の思い出はいつ頃のものだったか考える。本を貸してやっただけで目を輝かせた――それこそ、アルベルトが贈り物をしたときより輝いた目は、確かに覚えているのに、正確な時期を思い出せない。
まるで記憶に靄がかかったような状態がしばらく続いており、これも呪いのせいか、と予定を変えることにする。体が一番の資本だとアルベルトは考えているため、体調が少しでも崩れてしまえば三日以内に医者を呼ぶことにしていた。自分に呪いがかけられていると知ってからは、定期的に王立魔法学校の学長、カスパールのもとへ通い、ちょっとしたことでも尋ねることにしていた。
幸い予定では、午前は書類の整理しか入っていない。出仕前にカスパールに会った方が、後の仕事への影響は少ないだろう。
御者に行先の変更を伝える。カスパールには、何も言わずとも訪れを知られているはずだ。
魔法学校の門の前で馬車を下り、門番とカスパールの声を伝える鳥に許可をもらい、一人で中へ入る。この学校は、どんな身分の者も徒歩で移動することを定めている。身内にも呪いのことは知らせていないため、アルベルトは付き添いをつけない。一人でこの広い学校内を歩くのも、もう慣れてしまっていた。
迷うことなくカスパールのいる建物に入り、長い螺旋階段を上り切って、扉を叩く。許しを得て中へ足を踏み入れると、気難しそうな顔をした老人が、待っていましたよと言う。独特な香が焚かれ、怪しさを醸し出していた。
「突然の訪問、申し訳ない」
「構いません。今日は、どのような」
椅子を指され、アルベルトは、リゼルヴィンに関する記憶だけに靄がかかったようだと伝えた。他のことには何ら影響がないため、呪いや魔法によるものかと思い、訪ねてきた。
じっとアルベルトの目を見て聞いていたカスパールは、話が終わると、少し間を置いて口を開いた。
「それは、きっと、呪いではないでしょう。話を聞く、限りには。においもなく、気配も、ありません。念のため、確かめてみましょう」
老人はゆっくりとした動作で、ぶつぶつ呪文を唱えながら茶を淹れた。
カップに注がれたそれに、特別変わったところはない。そこへ数滴、小瓶に入った無色の液体が垂らされる。
「どうぞ。いつものように、味を、教えていただければ、それで、わかります」
慣れたもので、アルベルトは躊躇いなく差し出された茶を飲んだ。
少し口の中に留めて、味を確かめる。
「……味がない」
初めてのことだった。もう一口、飲んでみても、味はしなかった。
それはつまり、魔法にも呪いにもかかっていないということ。苦ければ呪いが、甘ければ魔法がかけられているとわかるこの茶の味で、無味というものを、アルベルトは経験したことがなかった。
やはり、とカスパールは目を細める。
「呪いでもなければ、魔法でもない。けれど、その症状は、確かに、病とは、異なります。その茶は、あなたにかかっている、これまでの呪いの作用を、検知しないようにしてありますが、あなたの身の呪いから、このような派生はあり得ません」
「では、これが一体何かは、カスパール殿にもわかりませんか」
アルベルトの問いに、カスパールは一瞬、動揺を見せた。
呪いでもなければ魔法でもない、更には病でもない何かを、カスパールは知っているのだろう。
魔導師は、そうでない者に対して説明を渋ることが多い。それは魔導師だけでなく、専門的な学問に関わる者によくみられる傾向だった。説明してやりたいのはやまやまだが、全く理解出来ない者の方が多く、諦めてしまうのだ。聞く者も聞く者で、理解出来ないためにまともに聞かなくなる。――リゼルヴィンは説明しようとしていたのに聞かなかった、アルベルトのように。
「どのようなことでも構いません。心当たりがあるのなら、教えていただきたい」
「……そう、ですね。あなたのこと、あなたにとって、重要なこと、ですから。話すべき、なのでしょう」
その言葉には、まだ迷いが含まれていた。それでもカスパールは、その迷いを持ったまま、重々しく口を開く。
「これは、魔法も、呪いもかなわない、神秘によるものでしょう。正しくは、世界の力。今の私には、対処しきれない、大きな力によるもの、です」
守護女神信仰は、知っていますね。
アルベルトは頷いた。守護女神信仰は、この大陸でもっとも信者の多い宗教だ。世界を支える、三人の女神を信仰するもの。世界を移ろい、守護の役割を持つ三人の女の話だ。
守護女神は、過去の女神、現在の女神、未来の女神によって構成されている。
過去の女神イストワールは、銀の髪と赤の瞳を持つ、すべての歴史を綴る者。
現在の女神アクチュエルは、銅の髪と紫の瞳を持つ、すべての過去と未来と繋ぐ者。
未来の女神プロフェットは、金の髪に青の瞳を持つ、すべての未来を紡ぐ者。
世界を形作り、守護する女神として信仰される彼女たちは、人の力では決して変えられない『時』への畏怖から生まれたのだろう。魔法を使っても、相当な実力がなければ時間の流れは変えられないという。逆らうことの出来ない存在を擬人化して神話とするのは、他の信仰でもよく見られることだ。
アルベルトはエンジットの民であり、またその立場もあって当然ながら守護女神信仰者ではないが、大きな宗教であるため、実態をすべて知っているとは言えないものの、ある程度のことは把握している。エンジット以外は国教としている国も多いのだから、大陸の情勢を見極めるためには知識が必要不可欠だ。外交にかかわるため、アダムチーク家はもっと詳しいことを知っているだろう。
カスパールの口ぶりから、守護女神が何らかの形で関わっているのは、アルベルトでなくてもわかった。
「守護女神は、架空の存在だと、されています。しかし、実際は、違います。彼女たちは、今も、生きているのです」
深刻そうな顔でとんでもないことを言い出したカスパールに、何と言おうか、アルベルトは言葉を探した。
「……守護女神が実在するとすれば、二千年近く前から生き続けていることになります。神の実在の照明にさえなりますが」
「ええ。神は、存在しますよ。ただ、彼女たちは、神では、ありません。害されれば死ぬ、人と何ら変わりない、柔い存在です。病を得ないだけの、ただの人といえます。魔法すら、彼女たちは、使えません。その足で、世界を移ろい、世界を見、世界の時を、正常にまわす……。それが、彼女たちに与えられた、唯一の生き方です。生き方を定められただけの、世界によって生み出された、三本の柱。彼女たちは、そういう存在です」
「そのような者が実在するとは、思えません」
「では、魔法の存在は、どのように説明しましょう。魔力も、魔法も、人の理解を、遥かに超えています。そんなものを、目の当たりにしておきながら、人でないものの存在を、完全に否定することは、不可能です。神は実在し、また、悪魔ですら、実在します。信じられずとも、構いませんが、そのような考えもあるのだと、思っていてください。他でもなく、あなたは、今、人でないものの力で、記憶をいじられているのですから」
納得は出来なかったが、カスパールの言うとおりにすることにした。魔法に関わる者の考えには、どうしても完全には寄り添えない。アルベルトにとって魔法は身近ではないのだから。だからせめて、理解も納得も出来なくても、不利益を被ることがなければ、言われた通りにすることにしている。呪いを解いてもらうためだ。
「彼女たちは、人であって、人でないものです。世界の柱となる、そのためだけに生まれた存在です。長い、長い、時の中で、神と呼ばれたとして、何も変わりはしません。彼女たちは、ある一定の位置から、成長することは、ないのですから。そんな彼女たちが持つのが、神秘、世界の力と呼ばれるものです。それには、魔法も、呪いも、かないません。世界、そのものの力ですから、人が何をしても、かなわないのです」
「しかし、守護女神と思われる女性と関わりをもった覚えはありません。解けないのは仕方ないとして、それにしてもかけられた理由がわからない」
「……記憶の操作は、イストワールの力の、応用でしょう。きっと、イストワールが、何かしているのでしょう。リゼルヴィンに関して、それのみがおかしくなっているのだとすれば。……きっと、イストワールが、リゼルヴィンに頼まれたから。だから、あなたの中の、リゼルヴィンの記憶を乱している。そう考えられます」
「リゼルヴィンが?」
「ええ、おそらく。リゼルヴィンが、消えてしまった、あの日。私は、イストワールを探すよう、彼女に言いました。そこには、すべての歴史が、真実があると。リゼルヴィンは、出会ったのでしょう。イストワールに。今のイストワールは、力を使うことも、ままなりません。リゼルヴィンが手助けをして、外への穴を、あけたのでしょう。……すべての終わりは、近付いています」
暗い顔をした老人は、深々とアルベルトに頭を下げた。
すべてを告白しなければならない。しかしそうすることは許されず、ただ、嵐が訪れるのを待つことしか出来ない。罪深いことだと、カスパールは震える声で言った。
このままでは、最悪、エンジットはリゼルヴィンによって乱され、少なくとも王族の血は途絶えることになるだろう。そんなことを言うカスパールに、どうしてもアルベルトは反論したくなって、耐えようとしても口から言葉は滑り出た。
「リゼルヴィンに女王を害すなど、出来るはずがない。あれは、あんな風に振舞ってはいるが、内側に入れると決めた相手はなんとしても守り抜こうとする女だ。途絶えるなら、王族ではなく――我がメイナードの血だ」
自分がリゼルヴィンに首を刈り取られる光景を、アルベルトは容易に想像出来た。
そんな場面になったとして、呪いのせいだと命乞いをするつもりはない。呪われているから、なんて理由では済まされないほど、リゼルヴィンを傷付けた。
他者から見れば、ほんの些細なこと。けれど、あれだけの圧迫は、息苦しかったに違いない。「メイナードの名を汚すつもりか」と何度もリゼルヴィンを責めた。子が出来ないと悩み、告白する彼女に心無いことを告げた。最も罪が重いのは――それらがほとんど無意識だったということ。
「……国のために、人を殺す覚悟は、ありますか」
唐突に、カスパールはそんなことを言いながら、立ち上がってアルベルトの目をまっすぐに見た。
「国のために人を殺し、国のために死す覚悟はありますか」
何か懐かしさすら感じる問いだった。
幼い頃から、何度も言い聞かせられた。アルベルトには、このような問いに対する、染み付いた答えがある。
「それで、国が救えるならば」
「よろしい。では……私も、その覚悟にこたえ、何故このようなことになったのか、痛みを恐れずお話ししましょう。……リゼルヴィンを止められるのは、あなたしかいませんから」
いつになくはっきりと話すカスパールは、そうして話しているうちに、急激な若返りを見せた。
曲がっていた背はぴんと伸び、乾いた白髪は艶のある青々とした黒髪に。濁った瞳も鮮やかな赤へと変わった。
すらりとした美しい青年が立っていた。長い髪を撫で、軽く一つにくくりながら、無音で何かを呟く。
アルベルトは瞬時に、その青年をカスパールと呼ぶべきではないと悟った。
着ているローブの皺を伸ばし終えた青年は、アルベルトに微笑みかける。
「驚いたでしょう。私の持つ姿のうちの一つです。どうかこの姿のときは、メルキオール、とお呼びください。そうすれば、私に……いえ、カスパールにかけられた呪いも、発動しません」




