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きっと望まなかったはずの結婚を、リゼルヴィンはどう思っているのだろう。
近頃、そればかり気になって、街屋敷に帰るとなんとなく彼女を目で追ってしまう。変わりにくいリゼルヴィンの表情を観察してみるも、その内側はなかなか見えない。勝手ながら少し腹立たしく思ってしまうものの、アルベルトの視線に気付いたリゼルヴィンが困ったように笑うものだから、なんとか八つ当たりをせずに済んでいた。
リゼルヴィンとの結婚は、アルベルトとて望んだものではなかった。国王陛下たるシェルナンド直々の頼みであったから、そうするに踏み切っただけで、本当はあまりリゼルヴィンのことは好きではなかった。
しかし、そもそもアルベルトは結婚やら家庭やらに興味はなく、貴族としていずれどこかの娘を妻にもらわなければならない、常識ある娘であれば他はどうでもいいし誰でもいい、とその程度にしか思っていなかった。誰でもいいのだから、リゼルヴィンをもらったところで、特別何も思わない。ただ少し、処理すべき問題は増えるだろう、とぼんやり考えた。
その程度だったため、今まで気にしてこなかったが、アルベルトとリゼルヴィンの結婚は、どちらにとっても望まないものなのだ。
リゼルヴィンは思いの外よく弁え、出来うる限り妻として働いてくれるため、今のアルベルトに不満はない。けれどリゼルヴィンは、式の直前まで当事者だというのに知らされず、完全に外堀を埋められ、文句の一つも言えない状況にされた。結婚後も、お互いに四大貴族の当主であるため、アルベルトの方からリゼルヴィン家の手助けは出来ない。その逆も許されてはいないが、リゼルヴィンは、ただのアルベルトの妻としても動かねばならない。その負担を考えると、未だ彼女にとってこの状況は望まないものであるまま、なのではないだろうか。
妻として、ここからここまではやらなければならない仕事で、ここからここまでは当主同士の過度な協力関係と判断される、などという明確な線引きはない。指一本動かすのにも細心の注意を払わねばならないような、そんな息苦しい場所に、リゼルヴィンは立たされている。
屋敷ではあまりそのような素振りは見せないが、時に遅くまで帰らず、ほとんど一人であらゆる仕事をこなしているのを、アルベルトは知っている。一時期は没落寸前とまで言われたリゼルヴィン家を立て直して以来、未だ一人で働いているのは、多忙すぎて人を選んでいる暇がないからだと本人が言っていた。人を紹介することすらままならないことに、仕方がないとはいえ自分が情けなく感じる。
そんなことを考えながら、まるで表情の変わらないリゼルヴィンを見る。夜も更けたというのに、自ら魔法で灯したランプの光を頼りに本を読むリゼルヴィンは、こちらを気にすることもない。
今夜はアルベルトの方が帰りは遅かった。出迎えたリゼルヴィンは、アルベルトを待って夕食もまだだと言う。かなり遅い時間だったため、済ませておけばよかったのに、と言えば、また困ったように笑うだけだった。リゼルヴィンがこちらに住むようになって、もう何度同じようなやりとりをしたかわからない。リゼルヴィンはそういう女だった。
屋敷の料理人も慣れたもので、軽食程度のものを用意してくれていた。それを二人で食べる。とても静かな時間だったが、居心地は悪くない。その後、しばらく図書室を借りたいとリゼルヴィンが言ったため、今に至る。
自由にしていいと言っても、リゼルヴィンは必ず、このメイナードの屋敷内で何かをするときは、アルベルトの許可を求めてからするようにしていた。許可がなければ絶対にしない。たまに煩わしく思うこともあったが、リゼルヴィンなりに線を引いて、適切と思われる距離を取っているのだろう。無理に変えさせることは、しなかった。
リゼルヴィンの手にある本は、遥か昔に偉大な魔法使いが書いたとされる本だ。とても珍しく、現存しているもののうち一冊は彼女の通っていた王立魔法学校にあったのだが、あまりに状態が悪く、まともに読めるものではなかったという。内容が個人的な興味の対象であり、ずっと探していたが、まさかメイナード家にあるとは思わず、しかも聞くところによると状態がかなり良いということで、アルベルトさえよければ是非読ませてもらいたい。
そう、リゼルヴィンにしては興奮気味に話すものだから、見せてやるつもりでいたがなおさら嫌とは言えず、また今夜はもう遅いから明日にした方がいい、とも言えなかった。
その本は、アルベルトにとってはあまり価値のないものだが、魔法に関わる者にとってはかなりの価値があるのだろう。様々な魔導師に譲ってもらいたいと言われてきたことからも、きっとそうだ。そんなに価値あるものならば、近々王立魔法学校に譲り渡そうかと薄く思っていたが、リゼルヴィンが欲しいと言うのならくれてやってもいい。
することもなく、ただ正面のリゼルヴィンを眺めていると、不意に顔を上げたリゼルヴィンと目が合った。
「あ、あの、アルベルトさま……。やっぱり、お休みになられた方が」
おずおずと差し出されたのは、図書室に入ったときと同じ提案だった。
「いや、いい」
「ですが……明日も早いでしょうし。もう、随分遅い時間ですから」
「お前も早いだろう」
「そうですけど……」
居心地悪そうに目をそらすリゼルヴィンは、もごもごと口の中で何か言って、それをはっきりとした音にすることなく微かな溜息を吐いた。
リゼルヴィンと共にいようと思ったのは、ただの気紛れだった。今日はもう少し、リゼルヴィンを見ていたいと思ったのだ。理由はそれだけで、目的もそれ以外にない。
迷惑か、と訊いてみれば、リゼルヴィンは勢いよく首を横に振った。いいえ、と、そうではありません、と言った声は、夜だからか音量を抑えられており、少し掠れていた。
「もし、私をお待ちになっているのであれば、お気になさらないでください。こんな時間に起きているのは、体にも悪いですし。盗んだり、壊したりなんて、しませんから……」
何故まず疑われていると思うのか。よくわからないが、リゼルヴィンは度々そういうことを言った。その度に、アルベルトは気に食わなくていらついてしまう。今もそうだ。アルベルトに手渡された本を受け取って、そんな顔も出来るのかとこちらが驚いたほど目を輝かせたリゼルヴィンが、盗むのはともかく壊すなんて誰も考えないだろう。
「そんなことを疑っているわけではない」
そもそも、アルベルトの妻となった時点で、その本はリゼルヴィンのものになったも同然だと、アルベルトは考えている。盗まれたところで責めない。夫のものは妻のものとほぼ同義であると同じように、妻のものも夫のものとほぼ同義だからだ。アルベルトにとってその本は無価値なのだから、なおのこと。
ほとんど息を吐いているだけのような声で、そうですかと返したリゼルヴィンは、持参した栞を本に挟んで表紙を撫でた。
「今は、これでおしまいにしておきます。続きは明日の楽しみに」
「そうするといい。欲しいのなら、そのままお前が持っておけ」
「ありがとうございます。正直、いただきたいところですけど、それは出来ません。この本はとても、貴重なものですから」
「それがどれだけのものであったとしても、読みもせず活用も出来ない私が持っているよりは、お前が持っていた方がいいだろう。私にその内容を理解することは出来ない。そのうち腐らせるだけだ」
何より、領地ファルグの屋敷に同じものがもう一冊ある、と言えば、声を上げるほど驚かれた。
「こ、これがもう一冊、ですか? 世界に五冊しか存在しない本ですよ? この分野に関わっていた者が一国潰して奪い取ったこともある本ですよ? どうして二冊も……」
「詳しいことは知らん。ただ、それの著者と当時の我が家の者が相当な仲だったと聞いている。我が家に魔導師はほとんど生まれないから、数代前から扱いに困っているところだ」
「一冊あるだけで国が潰れたのに、二冊も……。それも扱いに困っているだなんて、メイナードは恐ろしいところですね」
欲しがっているのがありありとわかる顔をしながら、しかしリゼルヴィンは欲しいと言わなかった。
また処分に失敗してしまったと思いつつ、本によっていらぬ争いがリゼルヴィンに降りかかることはないのだと考え直した。この本を狙われたことが何度あったか、もう数え切れない。それで二冊目の存在を隠していた。
ふと、今ならリゼルヴィンと話が出来るような気がした。今の、互いに穏やかな心持の状態は、正直に物を言うにはもってこいなのだろう、と。
「リゼルヴィン。少しだけ、話をしてもいいか」
訊けば頷かれた。それを見れば、なんでもないことのように、すらりと言葉が出てきた。
「お前にとって、私との結婚は嫌なものだっただろう」
エンジットの貴族の娘はそのほとんどが親の決めた相手と結婚する。身分や家柄のみで嫁ぎ先を決められることも多く、個人の繋がりより家同士の繋がりを求められるため、仲の冷め切った夫婦も多い。市井でも貴族ほど顕著ではないにしろ、結婚なんてものはそういうものだ。リゼルヴィンもきっと、望まない結婚を強いられることは覚悟していただろう。
しかし、アルベルトとリゼルヴィンの結婚が許された建前は「恋愛結婚推進のため」だ。愛し合っていることにし、恋愛なんてものの先に結婚があるのだと広く宣伝するためのもの。賢王と呼ばれたシェルナンドのよくわからない方針のための道具にされた自覚は、アルベルトにもある。
リゼルヴィンの答えがどうであれ、受け入れるつもりではあった。シェルナンドがこの結婚を推し進めた目的の一つに「黒い鳥の監視及び万一の場合の迅速な対応」に納得し、リゼルヴィンの同意を得ぬまま準備を進めたのはアルベルトだ。シェルナンドと共にリゼルヴィンを騙した。そんな男に拒絶の権利はない。
「嫌、というよりは、驚きの方が強かったなと……。こう言うと誤解されてしまうかもしれませんが、結婚というものにあまり希望を感じていなかったので」
その言葉に、そういえばリゼルヴィンは一度、婚約者と別れていたなと思い出した。
アルベルトがその記憶に行き着いたのを察したのか、それとも初めから理由を言うつもりだったのか、リゼルヴィンは細く息を吐いてからわけを話し始めた。
「以前の婚約者が、笑顔で私の姉と結婚したいと言ったその日から、結婚というものはそう良いものではないのかな、と思うようになりまして。元々それほど夢を見ていたわけではないので、別にいいかな、と。いずれどなたかとしなければならないのはわかっていましたけど、まだいいやと思っているうちに、ずるずると。ですから、自分が結婚するらしいと聞いて、もちろん自分のことなのに何も知らないなんてと驚きもしましたが、自分も結婚というものをするのだなと、驚いてしまって」
だから、驚きはしたが、嫌とまでは感じなかったと、リゼルヴィンは言う。
アルベルトは少なからずその言葉に安堵していた。望んだものではないことに変わりはない。ただの建前かもしれない。それでも、嫌だったと言われなかったことに、何か深く安堵していた。
けれどそれも束の間で、次に続けられた言葉に、微かに胸がざわついた。
「嫌、ではありませんでしたが……。アルベルトさまは、お嫌だろうなと思ったことは、何度か。私はまだ『黒い鳥』の疑惑が晴れていませんし、立場上、たくさんの恨み、呪いを受けますから。巻き込んでしまうことも十分予想出来ますし、万が一が起こったときも……。そんな私と結婚するということは、大きな厄介事を抱え込むようなものですから、誰だって嫌だろう、アルベルトさまもきっと、お嫌だろう、と」
当然のことのように話すリゼルヴィンに、ああ、この女は、『黒い鳥』として扱われることに慣れてしまっているのだと気付く。
そうでなければこんなことは言わないだろう。自分は『黒い鳥』ではないと、信じていれば。




