1-1 赤い鳥
その部屋にある音は、ページを捲る音と、穏やかな呼吸音だけだった。
部屋には光が溢れていたが、照明器具は見当たらない。それだけで、魔法によって何らかの細工がされていると察せられた。
積まれた本の海を分かつ道の先、作り付けの机の前に置かれた椅子に座っているのは、銀の髪の女だ。赤い目をしたその女は、手元の本に綴られた文字を、ゆっくりと追っている。
「リゼルヴィン」
ふと、違う女の声が銀の女にかけられた。顔を上げて、その声の方向を見れば、黒い髪の女がいる。
不気味な女だ。黒くて、暗い女。見ているだけで腹が立つような、陰鬱な表情の女だった。
改めて自分の姿を完全に客観視させられるということは、とても不快なことに思えた。銀の髪の女――イストワールの姿をしたリゼルヴィンは、思わず眉を顰めてしまった。こんな女は、嫌われても仕方がないのかもしれない。そんな風に思えてしまう。
けれど、鏡で見た自分より、随分とましにも見えた。中にいるのがイストワールだからだろう。どこも屈折していない微笑みは、リゼルヴィンには決して出来ない表情だ。その笑みだけで、雰囲気が柔らかく見える。
「あなたの欲しい真実は、見つかりましたか」
今は自分が借りているイストワールの姿を思い起こす。あれほど美しい女の姿を借りられたのに、きっと自分は、また暗い表情をしているのだろう、不細工な表情をしているのだろう。そう考えながら、自分の本来の、忌々しい顔にこたえる。
「ええ、知りたくもない真実を、知ってしまったわ」
「そうですか、それはよかった」
何がよかったのか。知りたくなかった、気付きたくなかった真実を知って、吐きそうになっているのに。
これまでの自分の滑稽さを笑ってやろうかと思ったが、どうにも上手くいかなかった。口角が上がらない。しまいには目が熱くなってきて、悔しいのと、悲しいのと、惨めなのとで頭が痛くなった。
ずっと幸せだと思ってきて、不幸だなんて一時しか思ったことがなくて、周囲に不幸だと指さされるわけがわからなかった。ずっと、自分は幸せだと思っていたのに、それがただの思い込みだったとは。
騙され続けていた。一番信頼していたのに、はじめから騙されていた。
リゼルヴィンを育てたのは、リゼルヴィンのためではなかった。何一つ、リゼルヴィンを思いやってのことではなかった。
「きっと、愚かな女に見えたでしょうね。正しくそうだわ。馬鹿は、私だった……」
悔しくて悲しくて惨めで――けれど、それでも憎めはしなかった。いっそ怒りで我を忘れてしまえたなら、少しは気が楽になったのかもしれない。悔しさも、何もかもが、内側へ浸み込んでいく。
「あなたはずっと、あの男を信じてきましたね。あの男、シェルナンド=ヴェラール=エンジットを。それがどれだけ愚かなことか、わかってくれたようで何よりです。これであなたも解放されるでしょう。おめでとうございます」
「何がめでたいのよ。こんなの……知らなければよかった。私の不幸はたった今始まったのよ。何も知らないままでいられたなら、幸せなままでいられたのに」
「それはどうでしょう。リゼルヴィン、あなたも薄々気付いていたはずです。シェルナンドはあなたを通して別の者を見ている。そう感じたことは、ありませんか」
イストワールは、リゼルヴィンを責めるようだった。微笑んだままの黒い自分の姿に、ああ、これは不気味だと思う。
薄々気付いていたか、と問われれば、頷くしかない。リゼルヴィンを見ているようで、違う誰かを追っているように感じたことも、ある。
「体、お返しします。久し振りの外はとても楽しかったです。もうずいぶん、ここから出られなかったから。ありがとう」
差し出された手を無言で取る。急激に意識が遠のいて――気付けば目の前に、銀の髪の女が座っていた。
元の体に戻って、何も聞こえないことに安心した。イストワールの体でいると、常に複数の声が何か囁いてきて、心底気持ちが悪かった。
存在の貸し借りはリゼルヴィンでも初めての魔法だったが、それにしては上手く出来た方だろう。禁じられて久しいこの魔法は、失敗しても仕方がないと思いながら使ってみたというのに、思いの外簡単で、拍子抜けしてしまう。
イストワールは自分の体のあちこちを触って確認しているようで、足をさすっては苦い顔をした。
「……歩ける喜びを、今のうちに味わえてよかった。ありがとう、リゼルヴィン。最後にいい思い出が出来ました」
切なく笑って、足を大切にするように、とリゼルヴィンに言う。
問うべきか否か悩んで、どうせ自分は悪なのだからと、リゼルヴィンは素直に尋ねてみることにした。
「その足、どうしたのよ」
長いスカートで隠された足は、少しも動かなかった。リゼルヴィンにとってそれは不便だったが、イストワールにとってもそうらしい。
複雑そうな顔をしたが、イストワールはリゼルヴィンの問いに快く答えた。
「あの男にやられたんですよ。もう、三十年くらい前に。癒えることのない傷をつけられて、歩けなくなって、ここに連れてこられました。わたしがあの男を恨んでも、納得でしょう」
「……そうね」
リゼルヴィンに返せる言葉はなかった。シェルナンドを慕う側の人間として、それを慰めることは出来ない。
「知りたいですか、わたしのこと」
知りたい気もしたが、きっと知ってしまったらイストワールの味方をしなければならなくなるだろう。ただで人の過去を、しかも憎しみにつながるような過去を知ってしまうことほど恐ろしいことはない。
それはつまり、味方をすると宣言するようなことだから。憎しみをすべて受け止め、絶対に味方で居続ける覚悟がなければ、無責任に聞いてはならない。
首を横に振れば、イストワールは残念そうにした。不幸自慢が好きそうには見えないが、案外そんな人なのかもしれない。
「知りたいと思ったら、言ってください。わたしが何故あの男を殺したいのか、教えてあげましょう。きっとあなたには、理解出来ないでしょうけど。わたしにとっては重大なことですから」
「知りたくなったらね。未来のことはわからないけれど」
そもそも、もうあと少しの命だ。なんとなくではあったが、リゼルヴィンは自分の死を予感していた。
三十まで生きられるかどうか。そこを超えることはない。
死ぬことに恐れはなく、むしろ慣れている。けれど、死ぬはずのない自分が死ぬ、そう考えるたびに、笑ってしまいそうだった。死んで甦ることに慣れてしまって、どうも危機感がなく、それこそ自分が人でなくなったことを思い知らされて、恐ろしい。
「これから、どうするんですか」
「さあ。どうしようかしら」
シェルナンドの望むように進むべきか、それともその命に背くか。
リゼルヴィンを育てたシェルナンドの思惑、その一部を知ってしまった今、どちらも気が進まなかった。正しいのはどちらなのか、何もわからなくて、黙ってしまう。
イストワールだってリゼルヴィンを利用しようとしている。気付かないわけはなく、イストワールも気付かれていることをよく知っているはずだ。信じていいか考えてみれば、信じられるはずもなかった。
何を信じればいいのか。急に足元の道が見えなくなって、ただ暗闇の中、一人立ち尽くしているようだった。
「わたしのことは、信じなくていいんですよ」
リゼルヴィンの心を読んだように、イストワールはそう言った。
「信じるべきではありません。信じないでください。それでいいんです。あなたはわたしを信じない、だからわたしはあなたを信じられます。わたしが信じますから、あなたは信じなくていいんです。わかりましたね」
「え、ええ。そんなに言うのなら、そうするわ」
「そうしてください」
頷いてみせれば、満足そうに可愛らしく笑む。よくわからない人だ、と呆気にとられてしまった。
短い間ではあったが、イストワールと関わってきた中で、彼女は決して人を憎むような性格には見えなかった。基本的に優しく、どこか憂い、それでいて楽しげに笑うのだ。時折とんでもない毒を吐くこともあるが、普段はそういう女性だった。
優しく頭のいい彼女が、人を憎んだ。殺したいと思うほどに。どうしてかは聞けないが、それだけのことをシェルナンドはイストワールにしてしまったのだろう。そうでなければ、どこまでも美しいイストワールは、人を憎むなどしなかったはずだ。
「あなたが道を得たいと思うのなら、あなたが一番好きな人のことを考えてください。その人にすべてを託して、一人で賭けをするんです」
一番好きなのは誰か。その答えは、すぐに思い浮かんだ。
「そうね……それがいいのかも、しれないわね」
そうすれば、後悔することもないかもしれない。
ただ真実を知っただけでは、リゼルヴィンはシェルナンドを恨めないし、憎めもしなければ嫌うことも出来ない。
リゼルヴィンを救ってきたのが、シェルナンドだったから。その裏にどんな思惑があったとしても、救われてしまったのだから仕方がない。多少、利用されていたところで、生まれてずっと国に利用されてきたのだから、あまり変わらないように思えてしまう。
ずっとシェルナンドに逆らわず、彼の目的のために動いてきた。それは自分のためでもあると思ってきたし、今だって、まだそう思ってしまっている。
一時期は怯えながらも、なんとかその手から逃げようとしたこともあった。嫌ったわけでも憎んだわけでもなかったが、このままではいけないと、思ったことがあった。その目的に沿うことはやめないが、何もかもに従うことはやめようと。
「憎まれても、いいわよね。……もともと、殺してもらうつもりだったし」
もし、死んでしまうとしたら、最後に少しくらい、いい思いをしても構わないだろう。
イストワールの言うように、賭けをすることにした。
あの人がリゼルヴィンの願うことを叶えてくれたら、シェルナンドに逆らおう、と。




