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立ち上がって、いえ、と頭を下げる。スカートをつまんだ手が、少し震えているのが見えた。
向かい合って座っても、アルベルトさまが何を思っているか、表情からは読み取れなかった。こんなとき、人の心を読む魔法が使えたら、と考えてしまう。ただでさえ、私は人の心がわからないのに。
「それで、話とは」
促されて、どこから話すべきか悩む。そう深い話をするつもりはないけれど、簡単に話せることでもない。
「私は魔法については無知だ。こればかりは学んでどうにかなることでない。もしあなたが魔法に関することを話すべきだと考えていたとしても、すべて理解出来る保証はない。だから、急を要するものではなく、私に話しにくいことなら、無理に話さなくてもいい。もちろん、それでも話したいのなら聞くが」
言いよどむ私を見て、アルベルトさまが先にそう言った。
「……わかりました」
それがアルベルトさまの気遣いなのか、それともただ私の話を出来るだけ聞きたくないのか、わからなかった。
魔法を学んだところで無意味、魔法を使えないのだから当然だ。修めるまでに時間のかかる魔法を、つかえもしないのに学ぶなんて、よほどの暇を持つ人のやること。この国の常識だし、きっとどこへ行ってもそうだろう。
きわめて専門的な話を、しかも魔法の構造についての説明をほとんど省いて話そうとしていた自分を恥じる。情けない。他者への配慮が足りないのは、直すべき欠点だ。
こっそり息を吐いて、口を開く。
「我がリゼルヴィン家と、私個人について、お話しさせていただきます。アルベルトさまがご存知の部分も多々あるとは思いますが、私も我が家も、特殊な成り立ちをしておりますので、確認の意味でも聞いてください」
四大貴族としての我が家の使命は『断罪』、表向きには諸侯の監視と難解な事件の捜査協力となっている。
けれど、それはほんの一部で、国の裏側と表側の橋渡しと、裏側の取締が本来の使命だ。リゼルヴィン家独自の情報網も、裏側に生きる人々の協力があって成立している。
同じ四大貴族の中でもそれは秘密で、きっとメイナード家も、私が知らない使命を隠しているはずだ。
「我が家は、四大貴族の中でも特殊な立場にあります。『紫の鳥』の使命は恨みが付きまとうものですから、その飛び火が、メイナード家にも向かう可能性は確実にないとは言えません。もちろん、そのようなことが起きないよう、最大限の力を尽くします」
この結婚が逃げられないものだとわかって以降、我が家によく協力してくれている人々には、メイナード家にだけは手を出さないよう頼んである。むしろ、メイナード家を守るようにとすら。
それでも、私がこの国の裏側すべてを掌握しているわけではない。表に生きる私が裏と取引をし、時に処罰することで、今までもたくさんの恨みを買ってきた。表側である貴族にも、裏側にも、私の敵は多い。何か起きてしまう前に、このことは話しておくべきだと思った。
「もう一つ、私についてお話しします。自ら言うことではないと重々承知ではありますが、私はこの国で最も魔力量が多く、『魔法使い』と呼ばれる魔導師の一人です。そして、未だ『黒い鳥』である可能性を完全には否定出来ていません。当然、そのようになるつもりはまったくありませんが、それによる問題は山積しています。民の私への疑いは、私がいなくなるまで続きます。もし、もしも、万が一のことがありましたら、アルベルトさま」
何より大切なこと。これを約束してくれないのなら、私は今すぐ、アルベルトさまの評判に傷をつけることになったとしても、私が国から追放されることになったとしても、この結婚から全力で逃げなければならない。
頷いて、約束してほしいと願いながら、言いたくもないことを口にする。
「私を、あなたの手で殺してください」
そうすれば、アルベルトさまが、『黒い鳥』に協力したとは、誰も考えないだろうから。
目の裏に、誰かの記憶が映し出される。セブリアンの視界は徐々にその記憶のみを映し、それが現実であるのか、幻覚であるのかさえわからなくなっていく。
セブリアンの感情が挟み込まれることなく、ある女の感情がセブリアンの心を埋め尽くし、中身だけを入れ替えられたような感覚が襲う。ごっそりとセブリアンの中身が持ち出され、そこに無理に、誰かの記憶と、誰かの心が詰め込まれた。
くすくすと女の笑い声が聞こえた。その笑い声に、はっと我に返る。
室内であると思っていた場所は、どこかの路地だった。薄暗く、狭い。セブリアンは建物の壁にもたれて座っていた。次第にセブリアンは自分というものを取り戻し、ああ、リゼルヴィンの記憶を見ていたのだと気付く。
『私は不幸でしたか? セブリアンさん』
「……リルは不幸だ。そうに決まってる」
『本当に? 私は、アルベルト=メイナードさまとの結婚を、不幸だと思っていましたか? 本当に私は不幸でしたか? あなたが救いたいと思うほどに』
偽物は座るセブリアンを見下ろしていた。口の端を釣り上げただけの笑みを浮かべて、セブリアンを嘲笑っていた。
リゼルヴィンの記憶を見たのは、この偽物のせいだと、とっくに知っていた。今の偽物は、ちょうどアルベルトと結婚した頃のリゼルヴィンの姿をしている。
なんの拷問だ。一体、俺が何をした。
自らの内側からあふれてくる、得体の知れない衝動を感じながら、吐き捨てる。
『不幸だと思ったことなんて、一度か二度しかありません。私は――リゼルヴィンという女は、ずっと幸せではありませんでしたが、不幸でもありませんでした。でも、周りが、お前は不幸だと言い続けたから、そう信じてしまいました。わかりますか? セブリアンさん。私が言いたいこと』
「……知らねえよ」
『知ろうとしないだけ、でしょう? あなたはずっとそうでした。あなたは、リゼルヴィンを救おうとした。リゼルヴィンを不幸だと決めつけて、この女は救われるべきだと言って、リゼルヴィンが求めてもいない救いを与えようとした。そのくせ、あなたは』
平坦な声だ。偽物は未だ嘲笑を浮かべたまま、冷たく、抑揚の少ない声で、セブリアンを責め立てた。
『あなたは、リゼルヴィンに救われたくなかった』
偽物は、セブリアンの中の真実を抉り出していく。
とても平坦な声で。ずっと見てきた、リゼルヴィンの姿で。
『救われてしまったら、殺せないから。殺せなくなったら、あなたが生きている意味がなくなるから。今、一番、手に入れたいものが手に入らないことを我慢してでも、あなたは救われることを拒否した』
偽物の腕を引っ張って地面に叩き付ける。一瞬だけ顔を歪めた。偽物の反応はそれだけだった。正面のセブリアンを映さない目に腹が立った。馬乗りになる。その地味な顔を何度も何度も殴りつけた。
偽物は、セブリアンの幻覚であるはずなのに、血を流した。
「――これだ」
胸の奥から、愉快な気持ちが湧き上がってくる。リゼルヴィンの姿をした偽物の、生ぬるい血が、セブリアンをこれ以上なく興奮させた。
これこそ自分が求めていた赤だ。この、ぬるい、鮮やかで、甘ったるい匂いのする、リゼルヴィンの血液こそ、何より美しい『至高の赤』に他ならない。
ぎゅっと目を閉じた偽物を、ひたすらに殴り続ける。もはやそこにセブリアンの意思など必要なかった。長らく求め続けていた赤がセブリアンを酔わせる。口からは笑いと涎が垂れ流しになっていた。
「――何をしている、イストワール」
どれくらいそうしていただろう。不意に聞こえた男の声に顔を上げる。
相変わらず女好きのする気色の悪い笑みを浮かべて、ギルグッドがこちらを見ていた。正確には、肩で息をするセブリアンの下の、殴られて変形しかけた偽物に目を向けていた。
ギルグッドは、イストワール、とこの偽物を呼んだ。
呼ばれた偽物は、血に塗れた顔で笑った。それまで閉じていた目を開けて、セブリアンを見ることなく、ギルグッドの方を見た。
『悪魔を――いえ、出来損ないの悪魔の欠片をあるべき姿に戻しただけです。あなただって、それを望んでいたでしょう』
「初めからそれが目的か。私ではなく」
『あなたも殺します。それより先にやるべきことがあっただけ』
「私が何か気付かなかった鈍い女が、私を殺すと。やってみればいい。それを処理した後でな」
『言われずとも』
そこでようやく、偽物はセブリアンを見た。抵抗の一つも見せなかった偽物が、セブリアンの頬に手を添えて、目をしっかり合わせる。柔らかい、慈愛に満ちた微笑みが、セブリアンに向けられた。
細い手首を折ってやろうとしたのに、セブリアンは体が固まってしまって動けなくなった。その琥珀の瞳から逃れられない。
次第に偽物の、リゼルヴィンと同じ色をしていた瞳が、赤へ染まっていく。これも美しい赤だった。
『思い出しなさい、あなたの真の歴史を。封じられ、改竄された歴史を取り戻しなさい。あなたの、本当の名は何か、思い出しなさい』
静かに語り掛ける声に、耳を傾ける他なかった。一つ一つの言葉が、まるで呪文のように聞こえた。それがセブリアンに染み込んでいき――欠片を呼び起こす。
『――偽りを改めよ。あなたの名は』
問いかけに、口が勝手に開く。
滑り出た名は、聞きなれない響きだった。しかし、一年ほど前から、頻繁に聞くようになった名前。
「アルヴァー=モーリス=トナー」
リゼルヴィンの右腕の骨から作られた、リゼルヴィンを殺すためだけの存在。
その名が音となった瞬間に、激痛が走った。ギルグッドがセブリアンの胸を剣で貫いたのだ。骨もたやすく断ち切るその剣は、ギルグッドがウェルヴィンキンズにやってきてすぐ、リゼルヴィンが与えたもの。七日間、リゼルヴィンの血に浸して作り上げた魔剣。
後ろに倒れたセブリアンを、抜け出し立ち上がった偽物が見下ろす。殴られ醜くなったはずの顔は、いつの間にか回復し元に戻っていた。目も琥珀色になっている。
しゃがみ込み、セブリアンの顔を覗き込む。今にも泣きそうな、悲しそうな顔をした。セブリアンの中で、『セブリアン』と、『アルヴァー=モーリス=トナー』とがぶつかり合う。
『嘘つき。私を守るって、言ってくれたのに』
リゼルヴィンの声。それが耳に届き、後悔する直前に。
――セブリアンは、絶命した。




