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街を出る前に、リゼルヴィンの屋敷を尋ねた。
歴代のリゼルヴィン家当主の肖像画が飾られる部屋の中を、ゆっくりと眺める。屋敷中に絵画は多く飾られているが、一族の者が描かれたものはこの部屋にしか置いていない。
飾られている絵画は十八枚。それ以前のものもあったらしいが、長い歴史の中で失われたという。故に、順番が飛んでいるものが多い。
部屋に入って、右回りにぐるりと一周する。古いものから新しいものへ変わっていく様子が面白いと、かつてリゼルヴィンが話していたのを思い出す。
最も新しい絵画は、リゼルヴィンの父、アンドレイ=リゼルヴィンとその妻子が描かれたものだ。家族で描かれたものがほとんどであるこの中で、違和感の一つもない絵画だ。
ただし、それこそが唯一であり、最大の違和感をもたらしていた。
何のおかしさもない、仲の良さそうな家族の絵画。知的で穏やかな目をした当主アンドレイ。美しいその妻と、気の強そうな母譲りの美しさを持つ娘、レベッカ。
一家は幸せそうに微笑んでいる。――そこに、いるはずの娘が一人、いないというのに。
この部屋に黒い髪と黒い目を持つ者はいない。現当主であるリゼルヴィンすら、いない。
リゼルヴィンがいなければ、この家族はこんな風に笑ったのか。憎らしくなって絵画に手を伸ばす。引き裂いてやりたかった。しかし、触れるか触れないかの位置で止めてしまう。
「クソが。絵だけはいいもん描きやがって」
いいものに傷を付けるなど、セブリアンには出来ない。吐き捨てて、扉の真正面の壁に掛けられた、紫の鳥の絵画に手を掛ける。それを取り外し、裏返して、元の位置に戻した。
裏側には、『黒い鳥』が描かれている。
カチリ、と小さく音が鳴ったかと思えば、独りでに窓のカーテンが閉まる。光の一切を遮断され、セブリアンの視界は黒に塗りつぶされた。
数秒後、燭台に火が灯る。ぼんやりと橙の光に照らされ、枚数こそ同じであるものの、先程とはまったく違った絵画たちが姿を見せた。
――史上、『黒い鳥』と正式に認められたリゼルヴィン家当主は、五人である。当主とならなかった者たちも合わせれば、十七人だ。
扉の前に戻り、また右回りに見ていく。
『ここは、我がリゼルヴィン家の歴史のほとんどが詰まった部屋です。紫ではなく、黒とされた、私に血を流してくれた人々のお顔を見ることの出来る部屋。落ち込んだときは、ここに逃げ込んだりするんです』
初めてリゼルヴィンがここにセブリアンを連れてきたのは、彼女がまだ十三の頃だった。
その十三の娘であったリゼルヴィンが、セブリアンには確かに見えた。いるはずのない娘が、こちらに振り向いて、少し恥ずかしそうに、ぎこちなく、無理をした笑みを向けている。かつて見た表情だった。
『まず、一人目のこの方は、言わずもがな現在の我が家が形作られる以前、伝説上の存在、神話時代の黒い鳥です』
二人目と三人目は大きな叛逆を起こす前に処刑された。四代目と、七代目だった。
『四人目の黒い鳥たる当主は、史上最も大きな被害を出したと言われています。「イゼ・レヴェンスの愚者」と呼ばれた女、十七代目の当主です。彼女の時代から、我が領地はウェルヴィンキンズと呼ばれるようになります。侯爵位を賜っていた我が家は、現在の子爵にまで落とされました。領地がそのままだったのは、時の王が彼女の子らを憐れんでのことだったと言われています』
簡単にそれぞれを紹介していくリゼルヴィンは、表情こそ無だ。しかし、心底穏やかな気持ちであるのは見ているセブリアンもわかった。この部屋には、黒の男女だけが存在する。違う色を持つのはセブリアンと、リゼルヴィンの琥珀色の瞳だけだ。目を凝らさなければ見えない暗闇の中で、いつも息苦しそうにしていたリゼルヴィンは、深く呼吸を繰り返している。
五人目は王との関係が良好であり、最後まで臣下で居続けたとされている。こうなりたいと、リゼルヴィンは憧れの目を向けた。
その他にも、黒い髪と黒い目を持つ者たちはいる。彼らは例外なく、皆、短命だった。長くとも三十を超えたあたりで死んだ。死因は様々で、病死から処刑によるものまで、あらゆる死に方をしている。
娘は最新の絵画の前に立つ。それは紛れもなく、彼女が大人になった姿だ。しかし、彼女の目にその絵は映らない。当然だ。このリゼルヴィンは、セブリアンの記憶であり、セブリアンの幻覚に過ぎないのだから。
『ここに、いつか私の絵も飾られることになっています。そのときは……セブリアンさん、あなたが描いてくれませんか』
自分を描いてくれる人間などほとんどいないのだと、リゼルヴィンは淡々と言う。セブリアンが描いたリゼルヴィンの肖像画を通り抜け、娘は指で壁をなぞる。そこに期待の一つも存在しなかった。自分の絵など描かれない、飾られないと諦めきっている顔だ。
「お前、今、どこにいるんだ」
何か言わなければと口から飛び出たのは、そんな場違いな言葉で、返事は期待出来るはずもない。そもそも、これはセブリアンの幻覚であるはずだ。
しかし、リゼルヴィンは返事をした。振り返ってにこりと自然に笑って見せた。吐き気が込み上げるほど、自然で、あり得ない笑みだった。この年頃のリゼルヴィンが絶対にするはずのない、大人になった今ですらここまで自然なものは見たことがないほどの、そこにあって然るべき笑みだった。
『すべての歴史を辿るのです。この、可哀相な、とても不幸な、黒い鳥の想いが這ってきた道を。そうすれば、この娘に辿り着けるでしょう』
「――お前は誰だ」
答えの予想は出来ていた。心臓の動きが早まっていく。
『私はリゼルヴィン。あなたの中の記憶そのもの。あなたが見てきた、哀れな少女の姿』
ゆるい弧を描く唇から紡がれた答えに、納得する。やはりこれはセブリアンが見てきたリゼルヴィンで、セブリアンの作りだした幻覚だ。
それなら特別気にする必要もない。セブリアンは自分がまともではないことをよく知っている。まともでない人間の相手をまともにするのは、ただ労力の無駄だ。たとえそれが、自分自身であっても。
目の前にいるリゼルヴィンをいつものように『リル』と愛称で呼ぶのは気が引けた。セブリアンは記憶をリルと呼んでいるのではなく、現実であり現在に存在するリゼルヴィンをリルと呼んでいるのだ。セブリアンは黒い娘を、『偽物』と呼んだ。
「お前はなんで出てきたんだ」
『あなたが私を求めたから。私を案じたから。心を分けようとしたから。ただあなたが望んだから』
「望んでなんかねえよ。お前を求めてもいない。さっさと失せろ」
偽物はまた微笑んで答えなかった。舌打ちをする。頭がおかしくなりそうだった。
どうせこの部屋から出たら、明るくなったら消えるはずだ。手順を逆に繰り返す。暗くなったのと同じようにして、蝋燭の火が消え、カーテンが開く。
黒を持つ者が一人も描かれていない部屋に戻ったのを確かめて、偽物のいた方は見ず、外に出る。
気が立っているのが自分でも強く感じた。人の少ない屋敷から逃げるように去る。出来ることなら誰の目にも留まりたくなかった。殺してしまいそうだったから。
門に着いた頃にはなんとか落ち着いた。行きを整えてから、部屋の扉を叩く。自分以外の人間がそこにいるというのは、少しばかり気持ちが悪い気がした。
「はいはーい、ちょーっと待っててくれー」
間延びした声が返ってくる。そう広くない中から、そう小さくない物音がした後、扉が開かれた。
「おはよう。よく眠れた?」
「少しだけな。お前の方こそどうだ、そこ、狭かったろ」
「うちのベッドよりましだったよ。うちのは本が積まれて、埃まみれだからね。こっちはとっても綺麗だったから、眠りやすくて助かった」
「そりゃよかったな。気に入ったとしても居座んなよ」
台所すらない部屋だ。本当に見張りをするためだけに作られたのだから当然と言える。一片が平均的な大人の男一人が足を延ばせる程度の長さの、正方形の部屋で、そこにセブリアンが簡単なベッドを作った。大した物も入れられない、狭い部屋だ。
「一人で生きていけんのか」
「そんな大げさな。大丈夫だよ。一応はあんたと同い年なんだけどなあ」
「お前と俺とじゃ全然違えだろうが」
「おんなじようなもんだよ。大丈夫、昨日のあの子が様子見に来てくれるらしいから。ええと、名前は……」
「パルミラ」
「そう、パルミラ! あの子がいたら大丈夫だろう、心配しないで出かけておいで」
「今の会話のどこに安心する要素があったよ……」
ただでさえミランダを一人にするのは不安なのに、ここはウェルヴィンキンズだ。何が起きてもおかしくはない。リゼルヴィンの言いつけを守らない住人だって、たまに出てくる。
しかし、心配していたらどうにかなるわけでもない。パルミラは信頼に値する相手だ。彼女は口数こそ少ないものの、よく気が利くし、思いやりもある。リゼルヴィンに逆らったことも、街の住人を殺したこともない。リゼルヴィンの侍女であるから、街での信頼度も高い。
一応の安心をして、ミランダに門の鍵を渡す。ミランダも真面目な顔をしてそれを受け取った。
*
濃い紫のドレスを着て、長い黒髪を丁寧に結う。手伝いはない。私は、夜会の準備も一人で済ませなければならない。
手先の器用さに自信はあまりない。鏡の前で苦戦しつつ、簡単ではあるがそれなりの見た目に整える。飾りは少なくていい。頭が重たくなるだけだ。
薄く化粧もした。可愛いとか綺麗だとか美しいとか、そういう褒め言葉はもらえないだろうが、それなりには見えるはずだ。
ドレスも靴も、装飾品はすべてシンプルなもので揃えた。あまり派手にしてしまうと、姉と比べられてしまう。今のものでも、うざったいほど比べられてしまうけれど。
国王主催の夜会だから、他より随分と気は楽だ。陛下がさりげなく気にかけてくれる上に、場所柄、それほどあからさまに遠巻きにされることもない。他であれば、痛いほどの悪意を向けられることや、ドレスをわざと汚されることもある。滅多にないとはいえ、心配をしなくてはならないよりはましだ。
姉がいなくなって、もうすぐ一年になる。父との不仲が原因の家出だったが、世間では『国の安泰を願い、信仰に身を捧げる覚悟をした』ということになっていた。私にしか行先を告げなかった姉だったけれど、父は姉のことを多少理解していたらしい。修道女となったことを、いつの間にか知っていた。
妹の私を愛しているから、神に祈り続けることで、私の中にいる『黒い鳥』を鎮め、私を少しでも普通に生きさせてやりたい。姉はそう願って出家した、と、そういうことになっていた。
父と共に王城へ向かう。馬車の中で会話はない。ただ静かに、揺られながら、私は息をする。
会場は華やかさで一杯だった。他のどの夜会よりも力を入れておしゃれに着飾る令嬢方が、空気に甘いものを混ぜている。自分の装いを見る。少し、地味すぎたかもしれない。同年代の少女たちに比べたら、それは明らかだ。失敗したかと不安が過ったけれど、気にしないことにしよう。可愛らしいものを着ていたとして、私には似合わない。反対に目立っていたはずだ。地味なくらいが、私には丁度いい。
会場を見回して、他の四大貴族を探す。今回はさほど堅苦しい場ではないけれど、それでもある程度の挨拶の順は決まっている。私たちの場合、はじめに四大貴族への挨拶を済ませてしまえば、後は王との時間まで特別何かをすることはない。向こうからひっきりなしにやってくるからだ。国政には関わらないとはいえ、四大貴族は高い地位を保証されている。たとえ、我が家が子爵の位であったとしても。
「リゼルヴィンさま」
私と父が目当ての人々を探せずにいると、背後から女性の声が掛けられた。南の『白い鳥』、クヴェート伯爵家当主、リナ=クヴェートの声だ。
よく目立つ珍しい白い髪に、赤い瞳。いつまでも若々しさを湛える顔に笑みを浮かべながら、彼女は息子のファウストさんを連れてこちらへやって来た。
軽い挨拶を交わす。私の共同研究の相手でもあるファウストさんは、態度には出さないものの、私への嫌悪を滲ませた。
「アダムチークさまとメイナードさまは、あちらにいらっしゃるみたいですよ。共に行きましょう。わたくしたちも先程来たばかりで、まだお顔を見れていなくて」
クヴェート伯爵の導きに従い、私たちはアダムチーク侯爵とメイナード侯爵のもとへ向かう。彼女の乳白色のドレスは、彼女自身をよく引き立てていた。
二大侯爵とも呼ばれるアダムチーク侯爵家とメイナード侯爵家は、我々四大貴族の中でも別格で、彼らと同じ場所にいるだけで何か圧のようなものすら感じると言う者もいた。我が家とは比べられないほど支持されており、特にメイナード侯爵家は『忠義の鳥』と讃えられている。『不義の鳥』と嘲られる私とは、正反対の人々だ。
互いに挨拶を交わし、雑談が始まる。そういえば、とアダムチーク侯爵が私とファウストさんを見た。
「魔法学校の方での共同研究の方は、どうですか」
誰もが私に目を向けた。ファウストさんはそれについて話す気はないらしく、どこかずれたところを見ている。
それぞれの後継を連れて来ているため、七対の目がこちらに向けられた。そのほかにも、周囲の人々が私をちらちら見ている。それらの視線に、少しだけ居心地の悪さが増した。
「今は、難しいと言われている失われた魔法の再現に取り組んでいます。詳しくは話せませんが、再現はほとんど成功していますので、あとは出力調整だけです」
「これまで再現すら不可能とされていたものですよね。誇るべきことでしょう。この国の民として、魔を操る者の一人として、羨ましくなってしまいます」
「我が国の魔法研究の成果は、クヴェート家の古くより積み重ねられた知識がなければ成し得なかったことばかりです。我々の研究においても、ファウストさまのお力がなければ、ここまでの成果は得られませんでした」
「……特別なことは、何もしておりません。何よりカスパール学長のお力が大きかった」
「そうですね。学長さまは本当に素晴らしい魔導師さまです。彼の方のようにあるべきと思います」
ファウストさんから向けられる視線は、鋭さこそないものの、とてもではないが好意的とは言えない。きっと気に入らなかったのだろう。私の言動の何かが。
詳しいことは言えませんが、とまた置いておく。
「来年には、きっととても良い報告が出来ると思います。すべてはそのときに」
それを最期に、私たちの研究に関する話は終わり、次に移る。
他愛もない話だ。けれど、私たちの会話は常に人の興味を引く。曖昧な、しかし不思議と具体さもある会話をする。私たちは人に望まれているものが何か、よく知っているつもりだ。
なんということもない、ただの世間話。これが重要なのだ。私たちは、仲が良くあることを望まれている。監視し合うことも望んでいるくせに、仲良くあれだなんて、私には理解出来ない。
それでも私たちは望まれた通りにするのだ。定期的に交流し、仲の良さを見せつけ、その裏で互いに監視をし合う。私たちは周囲の望み通りの関係でなければならない。
一通りそれぞれ話をしたところで別れる。輪を解き、少し離れるとすぐに誰かが近寄ってくる。気を抜く暇はない。我が家と関係のある者たち数人と会話をしたところで、陛下が会場にいらっしゃった。
皆が陛下に頭を下げる。陛下の金の髪が、青の目が、あまりに神聖なものに見えた。――違う。それは、神聖そのものだった。
陛下が短い話を終え、止んでいた音楽がまた響き始める。父の背を追った。
普段よく会っているとはいえ、やはりこんな夜は見え方が変わる。正妃フロランスさまも、今夜は特にお美しい。
お二人の前で礼を取った私と父に、陛下が笑いかける。
「堅いものはいい。気楽にせよ」
「いけません、陛下。我々の後が悪くなってしまいます」
「なに、それもまた良い。こんな夜くらい構わん」
「陛下が構わずとも他の者が構います。くれぐれも隙を作らぬよう、お気を付けください」
「心配性よな、アンドレイ。貴様のそのようなところが、娘の出家の一因だろうよ」
「その話はもう終わったことです」
「気を付けるべきは貴様の方だ。貴様は何事においても正しい選択をするが、そこに情を挟むことがない。時に求められ重宝される能力だが、いつかざっくりやられるぞ」
愉快そうに陛下は声を上げて笑った。父がこれほど恐れを滲ませるのは、陛下の前だけだった。
「陛下、フロランスさま。近いうちに魔法学校からよい報告が出来ると思います。私とファウスト=クヴェートさまの研究が、ようやく大きな成果を上げられそうです」
「ほう、それは待ち遠しいな。励めよ」
「はい。エンジット王国の魔道発展のため、今後も力を尽くすつもりです」
「期待していますよ。くれぐれも無理はなさらないように」
「はい。ありがとうございます」
そうして、話を切り上げて、陛下の前を失礼する。
父が何を恐れているのかは知らない。陛下ほど素晴らしい方の前で恐れを感じたことはなく、その気持ちがわからないのだ。陛下はあまりに頼もしく、素晴らしく、恥じることはあれ、恐れるなど。
ふと父に手を掴まれた。何かまずいことをしてしまっただろうか。触れられたのは、ほとんど初めのことだ。
「……助かった。礼を言う」
「え……」
小さく早口で伝えられた言葉に戸惑う。父はすぐに手を離した。
私は父を助けたことがあっただろうか。思い当たることは一つもない。
「何をしている。早く」
「ご、ごめんなさい」
父が私を呼んだ。考え込むと夢中になって周りが見えなくなるのは、私の悪い癖だ。
私の存在のほとんどが、一般とはずれている。人の心がわかれば、どれだけましな生き方が出来るだろう。この世界は、息苦しい。




