7-5
「ほんっとうに悔しいわ! うっかり何もかもを呪っちゃいそうなくらいに!」
珍しく落ち込んだ風のリゼルヴィンに、ミランダは苦笑するしかない。手土産にもらった林檎のタルトを口に運びながら、頭を抱えるリゼルヴィンに慰めの言葉を探す。
「まあ、ちょっと落ち着きなよ、リゼル。私は魔法なんてものの知識はないけど、リゼルはこの国で一番強いんだろう?」
「それはもちろんよ。今でも私が一番だわ。だって、誰も私を殺せていないんだもの」
「殺す殺せないを基準にするのは、ちょっと私には理解出来ないけど……。でもまあ、それならもうそれでいいんじゃないのか? リゼルは強い、この国の誰よりも。ちょっと呪いに気付かなかったくらいで、そんな世界の終わりを見たような落ち込み方をする必要は、ないと思うよ」
「そのちょっとが重要なのよ……」
「じゃあ、もうどうしようもないね」
何を言っても無駄だと判断し、ひたすらにタルトを崩す方に集中する。泣きはしないものの、凹みきった暗い表情のリゼルヴィンは、自分の分のタルトもミランダにやる。
「え、いいの?」
「今はそんな気分じゃないのよ……。それに、もともと甘い物はあまり得意じゃないわ」
「そうだっけ? 前は食べてなかった?」
一つしかないからと大切にちびちび食べていたミランダだったが、もう一つ増えたことで一口が大きくなる。心底幸せそうな表情のミランダに、リゼルヴィンの気分も少しだけ浮上した。
アルベルトの目の色が違ったことが、まさか呪いによるものだとはまったく思いもしていなかった。カスパールに言われて初めてその可能性に気付いたが、それでも魔力の欠片すらアルベルトから見つけることが出来ず、人生で最もと言っても過言ではないほど凹んでいる。
「わからないはずがないのよ、本来なら。外見が変わったのよ? それだけ強力で、けれど杜撰な隠蔽しかされていないってことよ。私がわからないはず、ないじゃない」
もっと上手く隠された呪いだったなら、これほど落ち込みはしなかった。わからないはずのないものだったからこそ、こうも落ち込んでいるのだ。何度目かわからない溜め息を吐く。
呪いのことはアルベルトも知らなかったらしく、驚きはしていたがリゼルヴィンほど衝撃を受けたようではなかった。そうですかと一言で済まし、本来の用件に入ろうとした。
そうなるとリゼルヴィンも何も言えなくなり、カスパールを問い詰めたい気もしたが、渋々魔法学校を出て、今に至る。
元々訪ねる約束だったのだが、ミランダはすっかり忘れており、普段なら笑えるのに今日だけは笑えなかった。ミランダの記憶力のことはよく理解しているため、責めることはしないが。
「うーん、一個教えてもらいたいんだけど」
最後の一口を名残惜しげに見つめ、ゆっくり咀嚼してから、ミランダは問う。
「魔法と呪いって、そもそも違うものなわけ?」
「難しい質問ね」
ミランダの質問は、多くの魔導師が問題にしているものだ。各々の解釈に委ねられることも多い。
ゆっくりと大きく息を吸いながら、テーブルに指を滑らせる。一つ描いて、その隣にももう一つ。
「今、二つの魔法陣を描いたでしょう? このうち片方は魔法、もう片方は呪いよ」
描かれた魔法陣は、淡く光を放って目視出来るようになった。ミランダもリゼルヴィンの手元を、身を乗り出して見つめる。
どちらが呪いだと思うか問われ、前髪を掻き上げながらじっと観察してみるも、模様の違いくらいで何もわからない。
「正解はね、こっち。後に描いた方よ」
「……どう違うわけ?」
「人によって解釈が違ってくるところよ。今のところ、ちゃんと定義されてはいないの。だから、私の解釈になってしまうけれど」
魔法陣を消し、ミランダの淹れた紅茶を口に含む。
呪いはリゼルヴィンの人生に深く関わり、まとわりついてきたものだ。どちらかと言えば、リゼルヴィンの使う魔法自体、呪いに近い。リゼルヴィンの解釈に従えば、だが。
「魔法っていうのは、ちゃんとした歴史の上に成り立つものよ。発動するためには準備が必要になるもの。一部では、独自に発達していったものもあるのだけれど、この大陸で使われている魔法の大元を辿って行けば一人の魔法使いに収束していく。彼はこの大陸の魔導師の祖であり、まあ、『魔法使い』を根絶させようとした人とも言われるわね。その彼が作った『魔法式』という仕組みを使って発動される、人の力ではどうにもならない奇跡を起こす。それが、魔法」
例えばこういうこと、とリゼルヴィンは左手で握りしめるような仕草をする。何かが凍るような小さな音がしたと思ったら、開かれたリゼルヴィンの左手には、赤い宝石のようなものが転がっていた。
「これは私の魔力を結晶化したものよ。正当な手順で、正確な魔力量によって、目に見えないものを凝縮したの」
「手を握ったようにしか見えなかったけど」
「そりゃあそうよ、詠唱を省いたもの。ある程度の力を持つ魔導師は、自分で手順を決められるようになるわ。ちゃんとした道を歩いて目的地に辿り着くか、障害物を飛び越えて直進して目的地に着くかの違いよ」
なるほど、とミランダが頷く。
それに満足げに笑ってから、続きを話す。
「呪いっていうのはその反対で、手順も何もなく『ただ自分の強い想いだけで何かに影響を与える』ことよ。例えば誰かを恨んだとして、その『恨む』というもの自体がもうすでに呪いなの」
「思うだけ? それで、何か変わるようには思えないけど」
「想うだけで、結構色々変わっちゃうものよ? 誰かを恨んで、不幸になってしまえと願って、つまり呪ったら、本当に相手が不幸になることはかなり多いの。想いの力は強いのよ。想った人間も、不幸になっちゃうことが多いけれど」
「それじゃあ、この世は呪いだらけじゃないか」
「まさに真理だわ。この世は呪いで溢れている。少なくとも私はそう考えているし、そういう説もいくらかあるの」
一般人ですらそうなのだから、魔導師が人を呪ったらどうなるかなど、想像するまでもない。
想いが魔力を孕めば強力な呪いとなり、魔法と同じでありながら異なる不可解で不気味なものになる。
しかし、魔法は想像力であり、創造力だ。呪いが想いだとするなら、魔法と同じとする声は大きい。実際、大抵は魔法と呪いを同一視している。
「ま、この辺りは別に知らなくたって生きていけるわ。あなたがもっと知りたいというのなら、私が学生時代に使った資料を持ってくるけれど。私の解釈は極端なものだし、他の人のものがいいと思うわ」
「うーん、難しそうだ。今でさえ頭がおかしくなりそうだから、遠慮しておくよ。ありがとう」
「賢明な判断ね。こういうのは自己解釈でいいのよ。深く知ろうとするのはいっそ愚かだわ」
学生時代、自分が深みにはまりそうになったのを思い出しながら言う。物を考えるのは好きな方だが、答えを得るためにわからないものを考え続けるのは非常に苦しかった。
ミランダとの会話はなかなか楽しいものだ。ときどき、ミランダの記憶のせいで噛み合わなくなるが、それを含めてもリゼルヴィンにとって貴重な時間である。以前はエグランティーヌもいた空間なものだから、彼女がいないことを思うと、少し寂しくなってしまうが。女王になってしまったのだから仕方がない。
「で? リゼル、今日はどうしてここに来たんだ。ただお喋りに来たわけじゃないんだろう? 今、エンジットは大変な時期だろうに」
ミランダの言葉に、リゼルヴィンは少しの間、声を出せなかった。
何か言いづらいことを抱えてミランダに会いに来ると、いつも彼女の方からそれを言うよう促してくれる。基本的に、察しのいい人間なのだ。そして、本来リゼルヴィンは物をズバッと言えるような人間でないことも、よく理解してくれている。
深呼吸をして、ちょっと勢いをつけて、口を開く。
「離婚することにしたの」
リゼルヴィンが既婚者であることも忘れてしまっているかもしれない。そういった可能性も考え付かないわけではなかったが、それならそれで構わなかった。
ミランダもしばらく反応しなかった。何か考えるような表情をして、それからゆっくり、問いかける。
「リゼル、あんたはそれでいいの」
どうやらそれくらいのことは覚えていたようだ。きっと、リゼルヴィンが相談してきた内容も、覚えている。
答えに困ったが、誤魔化してもどうにもならない。
「……いいことはないけれど、こうするしかないわ。こうなるべきなのよ、きっと」
「それは返事とは言えない。したいのか、したくないのか。どっちかにして」
「ミランダ、それはあまりに酷だわ。……見ないように、してるのに」
むっとしたミランダは、けれど冷静に言葉を探す。リゼルヴィンもリゼルヴィンで、これから投げつけられるであろう言葉に備えた。
「なんというかさあ……」
上手く表現出来ないらしく、ミランダはガシガシと頭を掻きながら、どこか苦しそうな顔で言った。
「このままだと、どっちも不幸になると思う。どっちも後悔すると思う。だから……せめてもうちょっと、ちゃんと話した方がいいんじゃないの」
「……そうね。機会があれば、そうすべきね」
こういう返事をしたとき、リゼルヴィンは絶対にそうしないと、ミランダは知っていた。
わざとらしいほど大きな溜め息を吐いて、背凭れに体を預ける。心底呆れたらしく、ミランダはそれ以上何も言わなかった。
友人の心配を無下にしている自覚はあった。けれどリゼルヴィンとしては、助言通りに動いて決意が揺らぎ、結果せっかく出せた結論を変えてしまうことが恐ろしいのだ。アルベルトも納得しているのだ。あちらから提案してきたのだから、望んでいるのだろう。そう思うと、向き合うのはとても、恐ろしい。
「ごめんなさいね、ミランダ。あなたには救われてばっかりなのに、私はあなたを不幸にすることしか出来ないわ」
「何言ってるの、私をここに置いてくれたのはリゼル、あんたでしょ。私がどれだけそれに救われたと思ってるんだ。一生分の救いだよ」
「いいえ。私はね、今でも思うの。もちろんこれが唯一にして最善の手段であり、きっとあなたも幸せでいてくれていると、感じているわ。けれど……あのとき、クヴェートと正面から向き合える力が、私にあれば……。そう考えずにはいられないわ」
そうすれば、『グロリア=クヴェート』の名を捨て『ミランダ=フェルデラッド』として陰に隠れながら生きることもなかったかもしれない。生家で正当な扱いを受け、より良い教育を受け、もしかしたらニコラスと――。
「違うよ、リゼル。そんなことはなかった。あの家でそんなことは起こり得なかったんだよ」
リゼルヴィンの想像を切り捨て、ミランダは笑った。そこに暗いものはなく、過去に何の未練も抱いていない顔だ。
ミランダは才能があった。記憶を他人より早く失ってしまい、その時々で覚えていることと覚えていないことがあるけれど、誰よりも頭が良く、そして誰よりも努力家だった。
だからこそ、乗り越えるべき壁が他者より多くとも、今、こうしてやりたいことをやって生きている。様々な専門知識を生かし、新たな薬を、ミランダの場合は毒を作る方が多いけれど、今までなかったものを作り出している。
もしこの才能を持つミランダが、外の世界で活躍出来たなら。リゼルヴィンは考えずにはいられない。――例え、ミランダ本人が、それを望んでいなかったとしても。
ミランダは、それすらわかっていた。これまで何度もそんなことはなかったと、今この場所でなければ自分の幸せはなかったと、リゼルヴィンにはっきりと告げてきた。
「ずっと言ってるじゃないか。リゼル、あんたがいなかったら今の私はいなかった。もう私の前でそういうこと言わないでくれって、何度言わせるわけ?」
「そうね。でも、ごめんなさい。最後に謝らせて。私はまた、あなたに苦しい思いをさせてしまうような気がするわ。恨むなら――呪うなら、そうしてくれて構わない。本当に、ごめんなさい」
深く頭を下げたリゼルヴィンに、ミランダは戸惑いの声を上げた。
これから、ミランダを巻き込んで何かをするわけではない。しかしリゼルヴィンには確信に近いものがあった。何かの拍子にミランダを巻き込み、苦しめてしまうと。
ミランダの幸福を祈っているのに、この予感は消えてくれない。
せめてその身を守れるように、ミランダの手を取って、握りしめる。
「あなたの身が、守られますように。あなたが永遠に、幸福でありますように」
「……リゼル、それは呪い?」
魔法を使っているわけではないと感じ取ったのか、ミランダが言った。手を離しながら、リゼルヴィンもゆっくりと頷く。
「ええ、これは、あなたが幸せであり続けるよう力を込めた、呪いよ」
茶目っ気たっぷりに笑うリゼルヴィンは、どこか苦しげだった。
――この一週間後のことである。
リゼルヴィンは突如として、行方をくらませた。




