最期の海に咲く花―――⑪
色々なことがひと段落した後、真鈴と一緒に汐見ケ丘を訪れた。
あたしはひとりの社会人として、大きく開けた穴の埋め合わせをしないといけない。そして、長きに渡り他者との交流から断絶されていた真鈴。傷ついた少女のままでは、この理不尽だらけの世界では生き抜くことは難しい。心理的なケアの専門職や、教育の専門家たちが社会的な自立に導くための道しるべが着々と立てられているそうだ。
―――あたしたちが暮らす場所は、東京しかない。
今回の一件であたしはこんなにもたくさんのひとに支えてくれていることを思い知らされた。そして、真鈴は毎日とても楽しそうにしているから、特に申し分はない。
でも、今回はどうしても外せない用事があった。
しばらくの間危篤状態であっためめばあちゃんは、あたしたちが救出される様子を眺めながら、人生の幕を閉じたそうだ。
あたしの意識が戻った後、彼女が亡くなったことに加えて、約束通り、死に物狂いで回収したネックレスが棺に入れられたと説明を受けた。
あたしも真鈴も最期に会えなかったことは心残りではある。
「この坂を最後に登ったのは、何歳の頃だったっけ」
「うーん、覚えてないよ。ごめんね、莉緒」
「いいよ。別に気にしてない」
真鈴と一緒に、この街が一望できる丘を目指す。色んな場所に遊びに行った幼少期とは違い、長い坂にきしむ関節と、いつの間に重くなった太ももを億劫に思う。
駄菓子屋の軒先で一緒にラムネを飲んでいた女の子が、美容師見習いとして働いているらしい。めめばあちゃんの遺品整理の前に、真鈴の髪を切ってもらいたいと、電話で相談した。何かにつけて物価が高い東京の美容室で散髪することをケチっているわけではない。
大人になってからはじめて、一緒に眠った夜に『目に見えるかたちで、耳に聞こえるもので、失った時間の輪郭を知りたい』という真鈴の言葉を聞き、あたしが考えついた案だった。
それに、あれほど街を騒がせたに関わらず。住民に何も挨拶もなく、何事もなかったかのようにケロッと都会で生きることはなんとなく癪に障る。この街の一軒一軒に残すことなく、お詫びの菓子折りを直接持っていきたいとも考えていた。
「いらっしゃいませ! あれ、莉緒ちゃん?」
「どうも」
「あら、随分大人っぽくなったのね! どこのモデルさんかと思った」
「はあ」
早速、店主との会話が成立していない。誰かを救ってみたり、他人の血にまみれてみたり、命がけでかけがえのないものを救ってみたりしたけど。あたしの性格は子供の頃からまるで変わっていない。果たして、あたしは山積みの仕事に窒息死しそうな親父を抜きにし、この街中に挨拶周りに行けるのだろうか。
「こんばんは。おばさん。お久しぶり」
「真鈴ちゃん……。とっても大変だったみたいね。おばちゃんはアホだから、莉緒ちゃんにくっついてアイドルにでもなったのかと思ってた」
「いいえ、そんな。ご心配をおかけしました」
「元気そうでよかったわ。さあ、中に入って」
店主のパンチパーマを手掛けているのは、娘さんなんだろうか。真鈴にはもちろん、真鈴の好みがあり、子供の頃と一緒の髪型でなくてもいいと思っている。けれど、永い眠りに醒めたから、あんな具合にはっちゃけたいと言い出したら、あたしは思わず動揺するだろう。
「は! そのきれいな髪は、真鈴ちゃん!?」
「莉緒ちゃん……じゃなくて、莉緒さんだね。ふたりとも、おかえりなさい!」
長い時を越えても。母親に似てとても明るい娘さんだ。まるで誕生日パーティーがはじまるかのように、大きく拍手をしてあたしたちを出迎えた。子供の頃からの活発さを残しながら、日に焼けた肌は変わらず、お日様のように輝いていた。
★★★
「わあ、きれいー」
「どう? 真鈴ちゃんの子どもの頃を思い出しながら、この子にアドバイスしたのよ」
「うん。軽くなった感じがするなー」
結局、真鈴は子供の頃と同じ髪型を希望した。娘さんは慣れない手つきで真鈴の髪に向き合っていたが、彼女の真剣なまなざしを見ながら、失敗はすることないとあたしは予想していた。それに、店主は長い時で失っていた思い出を、シャボン玉を吹くかのように
語りつくしてくれた。おとなしいけど、なぜだかおてんばさんだったのよ、と。
「取り戻していくんだね。莉緒との毎日を」
なんて恥ずかしい言葉を言ってくれるのだろう。そういう言葉ふたりきりの時に、と伝えたいところだけど、真鈴の言葉に親子は嫌な顔ひとつしなかった。それどころか、あたしたちと一緒に、同じ場所と時間の中でおそろいのやさしい笑みを浮かべていた。
何も言わず、ただただ笑いあった。
目まぐるしい東京の日々は、特別好きでも嫌いでもないけれど。汐見ケ丘という街が、この先も心が安らげる場所であってほしい、と願わずにはいられなかった。
★★★
冷房の付かない居間で、茹で上がりそうになる。
真鈴との思い出の品はあたしの住まいに持ち帰っているし、めめばあちゃんはホスピスに入院する前に持ち物や書類を整理したと聞いていた。幸い、遺品と呼べるような数えるほどしかなかった。
あたしたちの記憶が詰まったこの家は、真鈴が相続することになったらしい。
別荘のように使うのか。それとも気が変わったら東京での暮らしを辞め、ふたりで住むことにするのか。何の書類を書いて、どの印鑑を押して、誰に相談するのか。やらなきゃいけないことは山積みなのだけれど、とりあえずふたりで掃除をすることにした。
「真鈴。これ何か知ってる?」
「アルバムかな? 見たことがないけれど」
その冊子の絵柄やフォントは、つい最近のものかと思われる。伴侶と死別してから、十数年の間はひとりで暮らしていた、と聞いていた。孫と呼ばれていたあたしたちが加わっても、ずっと独身のままだった。あたしたちが離れ離れになった後。写真を残す機会があったのだろうか、と首を傾げながらページをひとつひとつめくった。
「何? これ、あたしと真鈴が子供だった頃の写真じゃん」
「あはは! 一緒にプールに入ってる! 莉緒の寝顔は子供の頃から変わらないね」
「バカ、恥ずかしいって! はじめて庭で花火をやった頃の写真もある」
めめばあちゃんは写真を撮ることが好きだった。多くの写真であたしは相変わらずしかめっ面で映っているし、入学式や卒業式などの場面では、真鈴は怯えたような表情を浮かべている。『子供らしい子供』からはかけ離れていたけれど、レンズを見つめるまなざしには、きっと愛情が込められていたのだろうと実感する。
夏の暑さを忘れて、ふたりで夢中になりながら次々と写真を眺めた。
そして、目が合うたびに昔と同じように笑いあう。
忘れていた出来事をぼんやりと思いながら、一緒にページをめくり続けていた。
『真鈴、莉緒。おかえりなさい』
最期のページに残された文字は震えていた。きっと、病の宣告をされた頃に残したものだろう。死期が迫った彼女の手元ではなく、この家にぽつりと取り残された理由を知ることはなくとも。この一冊に出会ったことはきっと意味があることに違いない。
「ばあちゃんの待つ場所に戻ってこれたんだね」
「うん……」
「待たせてごめんね。おかえりなさい、真鈴」
「こちらこそ、おかえりなさい、莉緒」
どちらが待ちわびたのか、遠い世界で手を伸ばし続けたのか。わからないままだった。だからこそ、ふたりそろって『おかえりなさい』と言ってしまったのだろう。あたしたちは生まれた街や、過ごす時間も違っていたはずなのに。この場所で数えきれないほどの幸せや笑顔を与えてもらっていたのだと、やっと気が付いた。
『芽衣子さんは、“あの子たちの幸せは私の幸せだ”、“いつでも帰りを待っている”と言い残して亡くなっていきました』
数日前に、めめばあちゃんの担当看護師から聞いた言葉が、心の中で何度もリフレインする。そっと真鈴を抱きしめると、やわらかく胸が潰れあう。ぬくもりの奥の鼓動が、同じリズムを刻み続けている。あたしたちがこれから過ごしていく時間は、きっとめめばあちゃんが渡してくれたのだろう。ひとつひとつを、この命に刻むように大切にしていきたい。
この地上に帰ってきてから、やっと涙がこぼれた。真鈴も一緒だった。
ふたりそろって赤ん坊のような声を出しながら、夜が更けるまで泣き続けた。




