最期の海に咲く花―――⑩
『汐見ケ丘』という海のはずれの街で、ひとつの命が終わりを迎えた。
おぞましい祟りでなく、『会いたい』にまつわる悲劇でもなく。穏やかな海の色に身をゆだねながら、役目を終えたひとりの旅人が、一生という緞帳を降ろしただけである。
海面はおびただしい色に姿を変え、押し寄せる巨大な波が地面を揺るがす。
穏やかな海に訪れた異変に、住人たちは肩を震わせ続けていた。その中には、この海に閉じ込められた少女を知らない者もいた。救急車のサイレンに驚き、生まれたばかりの赤子は大きな声を出して泣いていた。
―――それでも、混沌とした街を照らす太陽は、たゆむことなく輝いている。
『彼女を助けたい』と奮起した住人たちは、ふたつの『会いたい』が、隠されている浜辺に走った。この街にとびきりの笑顔を残した、少女たちのために。
終焉のブザーが鳴る前に、ひとつの約束が果たされた。
流れる時間。生まれ落ちた世界。目に見えるものをすべてに隔たれていたとしても。
誰も知らない海の果てで、ふたたび深い絆が結ばれた。
★★★
「……どこ、ここ」
あたしは毎朝のように後頭部を掻きむしると、夢から醒めたのだと気が付いた。
目の前の景色は、医療部の個室だろうか。右腕に付けた点滴が落ちる電子音が響いている。
かすむ視界の中で、自分自身の身体をまじまじと見つめる。左の人差し指、手の甲。
二の腕には数センチの切り傷が付いていた。そして、おでこにはガーゼが巻かれている。
「交通事故にあって、せん妄でも見続けているのかな。っ、いたっ」
ゆっくりと上体を起こすと、バストラインの下から右の下腹部にかけて、今まで経験のしたことのない疼痛があらわれた。おそるおそる指先で病衣を捲ると、切腹をしたような傷跡が残っていた。少し前に死にそうにはなった気がするけど、自殺未遂はしていない。
「子どもを産む予定もあるはずないし……」
もしくは、帝王切開の手術痕だろうか。ずっと、大切に思っているひとは、女の子だし。
盲腸にしては大きすぎる。消火器がんになるには若すぎる。『会いたい病』には、抗体があるから感染しないし。固い頭を働かせながら、身に覚えのない傷跡の理由を探し続けた。
「ああ、暇だなあ」
あたしは医者じゃないから、思考することにはすぐ飽きてしまう。
やはり、入院している時には身体が動かしにくく、暇つぶしが何もできない。
静かな部屋で過ごす時間が退屈でたまらないけれど、誰かに電話をかける気力もない。医療部のスタッフは相変わらず忙しいだろうし、もし手術か処置を受けていたとしたら、執刀医が病状の説明に来訪するのもおそらく夜になるだろう。
「どうにか歩けそうだし、散歩でもしてみるかあ」
激しい痛みをありとあらゆる場所に感じながら、ベットから立ち上がった。こうして歩き続けることも、億劫に感じてしまう。ついにコミュ障を極めたのか、それともかまいたちが現れて、激しく噛みついたのか。真相はわからないけど、この鼓動の音を聴いていると、何か大切な理由がある気がしてくるんだ―――……。
★★★
『あいつゥ! こんなにかわいい女の子を誑かしていたのか!?』
『はじめまして、あなたの名前は?』
『カレンでいいぞ!』
『あなたこそ、金髪がつやつやできれいね』
『そんなこと言われると照れちまうじゃねえか』
しばらくの間、ふらふらと歩きまわっていると、過度の病室からカレンの声が聞こえる。
症例に照れるような感情を抱くなんて、専門職失格じゃないのか、というツッコミを入れたいが、誰かとおしゃべりをする気力は果たしてあたしに残されているだろうか。
……扉の向こうにそっと、耳を澄ました。
『あの子とは、どんな関係なの?』
『誰のこと言ってんだ? 親父さんか?』
『うふふ。わかりにくいことを言って、ごめんなさい。……莉緒のことを言いたかったの』
たしかな音の輪郭が蝸牛の奥で響いた。まぶしい夏の日々の中で、ずっととなりで聞いていた言葉。ずっと心の中に残り続けた、この命の名前。サウンドソフトや音声AIにしては、その息遣いや間の取り方でさえも『約束の女の子』に酷似しすぎている。
『ああ、あいつは、大事なやつだなあ』
『というのは?』
『仲間、なのかなあ。腐れ縁といえば言えばいいのかな。逆に、きみはあいつのことをどう思っていたんだ?』
『……あたしはね』
かけがえのない宝物のような日々がはじまることを、期待してしまう。真鈴の本心を聞きたいけど、聞きたくない。音にしなくても、この世界に放たなくても。どうか同じであってほしい。あたしの点滴だらけの左手は、目の前の引き戸を勢いよく開け放った。
「てめえっ、やっと起きたのか!?」
「莉緒……」
カレンのやかましく豪快な声と、真鈴の透き通るような声が病室に轟いた。
あたしたちは、帰るべき場所に戻ってきたんだ。目頭の熱を振り払いながら、足を一歩ずつ前に進む。身体に宿る呼吸が、細胞が、瞳孔が、汗が、遠い日の約束にたどり着く。
「真鈴」
「あらら。ぼろぼろの捨て猫みたいね」
「なにそれ」
「ごめんね。あの日、いなくなっちゃって」
あたしたちははぐれた星々のように、身体を寄せ合った。ふたりの肌を伝う体温。触れ合う呼吸。当たり前のように睫毛がぶつかり合って。真鈴がとなりにしてくれる事実を、ひとつずつたしかめる。この心を支配していた寂しさが塗り替えられていく。
ただし、難点がひとつ。
「顔がよく見えない……」
「莉緒、髪の毛切ってくれる?」
「いいけど、美容師じゃないからおかっぱになるよ。回復したら、一度長さだけ切り落としてあげるから。今度一緒に美容院に行こう」
「うん。楽しみにしてる」
澄んだ声は変わらずとも、真鈴の身体はいつの間にか成長していた。骨格も女性らしくなり、もともと大きかった胸は倍増(あたし比)した。それにしたがい、頭髪も7年分の時を越えて、ベットの下につくほどの長さになっている。昔と変わらないテンポの会話の中で、真鈴らしさを取り戻すための約束を交わすことができた。
「今日も、明日も。会えるね」
「そうだね」
真鈴の言葉通り、今日も明日もずっと一緒。『会いたい』と思わなくても、そばにいることができる。これほどの幸せを手にしていいのかと、あたしの指先はひとりでに震えている。海色の瞳がその様子に気が付き、か細い両手でそっと包み込んでくれた。
「これ、あたしどう考えても邪魔者だな。お大事にどうぞー!」
カレンは踵から火が出る勢いで病室を去っていた。あたしたちの『名前のつけられない関係性』は、他人から見てもきっとそういう意味に見えるのだろう。自分たちが数秒前にしていたことを思い出すだけで、耳朶が赤く染まっていく。
「熱でもあるんじゃない? お部屋に戻ってゆっくり寝てたら?」
「……ないし。まだ帰りたくない」
「寂しくなくなるまでとなりにいようよ」
それから先は、ふたりだけの話をした。眠っている間はどんなことを想っていたの、とか。
何かを食べていたの。とか。他愛のない質問をするだけでもよかったのだけれど。
『会いたかった』とだけ、伝えればいいのに。どうして、この胸は痛んで、苦しんで、もがいて、明日を目指していくのだろう。
自分から気持ちを伝えてみると、言葉が持つ重さに驚いた。
そのひとつひとつを、真鈴は抱きしめるように受け止めてくれた。




