やさしい新緑の芽吹き―――⑩
葉さんの父親が小さな肩を揺すっても。
その瞳は不思議そうな顔をしてあたしたちを見つめている。
「ほぅら!あたしのエレクトーンに負けんなよ」
「きっとお空を通って、ママに伝わるよ!」
「若葉さんの歌、お母さんが待ってるから!」
―――音痴な歌じゃ足りない。あたしの傷ついた左手は、若葉さんの小さな手を目指した。状況が理解できてなさそうな表情を浮かべて、反射するようにそっと指先を繋いでくれた。
その肌は、救出の時にはじめて握った時よりも、ずっとあったかい。
まだ取れないガーゼの中で、桜貝のような小さな爪先が輝いている。
「……とおき、やまに」
あたしが若葉さんに近寄ってしばらく経つと、その唇はおずおずと音色を口ずさんだ。
その声をより確かに届けたい。カレンの伴奏のボリュームを落とす。
若葉さんの父親はスマートフォンと連動したマイクを、必死に準備する。
その音色が途切れないように、手を握っている。
―――症例からしたら『ただのつぎはぎのおねーさん』なのに。
一番キャラじゃないことをしている。子どもはもともとあまり好きじゃないし。
だけど、何も脳のないあたしにできるのは、今のところこれしかない。
「ひはおちてー!」
零れ落ちる音色を、マイクが必死に掬いあげている。
若葉さんの父親は、真剣なまなざしで我が子を見つめていた。
次第に、スマートフォン画面の向こうで、すすり泣くような音が聞こえてきた。
『うふふっ、―――しばらく会えないうちに、お歌がうまくなったのね』
『病院の窓から若葉が苦しいって言っている姿を見ていたのよ』
『……もうそんなに元気になったのね』
若葉さんの母親が、必死に紡ぎ出した言葉たちが聞こえる。
その声の主に気が付いたのか、汗ばんだ手はあたしの指先から離れていった。
―――大きな黒目は、まるで太陽を映し出したようにきらきらと輝いている。
「ママ!? どうしてママの声がするの?」
若葉さんは首を傾げながら、スマートフォンを持ち上げたり、ひっくり返したりしている。
無垢な驚き方をしている姿を見て、父親とカレンはほっとしているようだ。
どういう言い訳をするのだろう? どんな魔法がかかっているというのだろう?
あたしは、無表情のままひとりで考察を繰り広げていた。
「また会える時が来ても、魔法は溶けてないかもしれない。」
「いつか若葉を抱きしめるひとがいたら。それがママだから。
――――その日まで待っててね」
「ママを見つけてくれてありがとうね。大好きだよ。若葉」
身体や空間を介さなくても、目の前の景色はひとつの再会のかたちだった。
若葉さんの父親は、零れ落ちそうな涙を血管の浮き出た腕で抑えていた。
あたしがふと隣を見ると、カレンの鼻先と耳朶はすでに真っ赤に染まっている。
「大人げないから、一度部屋に出よう」
「あたしもお母ちゃんに会いたくなっちゃった……アメリカにがえるぅ」
「はいはい。若葉とお父さんとお母さんには家族水入らずの時間を送ってもらおう」
「うえええ~~ん!!!」
カレンがエレクトーンを弾いている時は、別人のようにかっこよかったのに。
なのに、今は一変して症例の前で感傷的に泣きだすただのアホ。
―――それほど、彼女にとって母親が大事な存在なのだと思うけど。
「ごめんなあ、お前のこと考えないで……」
「別に。なんとも思ってないし」
若葉さんの病室から、あたしたちは退出した。
カレンが大きな音を出して鼻水を啜っているから、あたしはハンカチを手渡す。
ずっと子どもみたいな顔をしているのがおかしくて、思わず笑ってしまう。
「ばかにしてるだろ~~! 今、お前のこと誉めてやろうとしたのにッ!」
「いってえわ、病み上がりの人間を叩くんじゃない」
カレンが顔をぐしゃぐしゃにしたまま、あたしの肩をとてつもない力で叩いてくる。
両手が離れても、肩から肩甲骨にかけてじんわりとした痛みが残る。
「……おめえがつないだんだよ、若葉ちゃんとお母さんを……」
「いや? 電話をかけたのはお父さんだけど」
「お前のそういうところ、ほんっとうに嫌いッ! 」
「笑うのか怒るのかどっちかにしろよ」
カレンの誉め言葉が聞こえなかったわけではない。
瞬間的に浮かび上がった恥ずかしさを、心無き言葉で避けただけ。
カレンは両手をばたばたと動かしながら、あたしに何かを訴えているけど。
『あなたが”りお”という名前になったのは、そういう理由よ』
―――ひととひととをつなぐ、白くてきれいな花。
きっとカレンの言葉の真意は、「お前のつぎはぎが若葉さんを救った」だと思う。
あたしの母親が亡くなる前に語った、名前の由来を思い出す。
☆☆☆
「これで、莉緒。りーおー」
小学6年生の時、真鈴にあたしの名前の由来を教えた。
その日は一緒に市民プールに行く予定だったけど、あいにくの天気に見舞われた。
季節外れの大雨は、大きな窓から聞こえていた波の音を掻き消していく。
「くさかんむりに、りきゅう? いとに、もの?」
「カタカナのチとか、千って言えばいいのに、利休って。」
「だって、横に棒がふたつついてるじゃん! 間違ってないよ」
真鈴はテーブルの上に身を乗り出し、文字が書かれた紙を指さす。
その胸の風船は、1年前に見た時よりもずっと膨らんでいる気がした。
「あたしにはそんなにない」なんて。キャミソールを引っ張って眺めてみるけど。
「それで、この感じはなんて意味なの?」
「”り”は、特に漢字ひとつとしての意味はないんだって」
「そうなの……? じゃあどうして」
「あたしが生まれた日に、家の庭にジャスミンの花が咲いていたんだって。
漢字で書くと、”茉莉花”。日本の読み方で、”まつりか”って言う」
「へえ……そうなんだ。なんだかかわいいね」
真鈴は深く頷きながら、白馬のような睫毛を揺らす。
身体のようすが変わっても、どんなに綺麗になっても、きっと真鈴は真鈴のまま。
頭では理解しているのに、この胸の中で広がる気持ちの正体がわからない。
「それでね、”お”。さっき真鈴が言ったように、”糸”と”者”だよね?」
「うん」
「糸と糸で、ひととひとをつなぐひとになれるように」
「はわ……そんなに深い意味があったんだね」
かすかな戸惑いをごまかすように、淡々と言葉の意味を真鈴に教える。
机の上に頬杖をつきながら『つなぐ』という言葉の意味を考えているようだ。
この時の真鈴の脳裏には、どんなイメージが浮かんでいたのだろうか。
―――人脈が広い。会話と会話をつなぐ。手先が器用。皮膚と皮膚を繋ぐ。
もし母親とまた会うことができたら、言葉の真意を尋ねてみたい。
遠い夏の日のあたしは、こんな数奇な道を辿ることを知らなかった。
「本当に、莉緒を表す言葉みたいな名前だ! 素敵だね」
記憶は日に日にセピア色に色褪せて、取り戻すことなんてできない。
その声が、あたしの崩れてしまった心をつなぎとめている。
どこか皮肉めいた自分の名前を嫌いにならなかったのは、真鈴の言葉があったから。
そんなただのくだらない昔話をカレンにしても仕方ない。
だって、あたしの名前の意味を教えなくても知っているから。
『カレンもその歌声で誰かを楽しませているんじゃないか』
と、伝えようとしたけれど。あたしはごもごと口を噤んだ。
彼女の歌に、深みを与える涙だと思うから。
余計な奴の話なんて聞かず、思う存分に流し続ければいい。
☆☆☆
若葉さんの退院から数日後。あたしたちの部署には少しずつ動きがあった。
―――まず、ひとつめは。カレンと庁の吹奏楽部が3か月後にコンサートを開くこと。
偶然、若葉さんが通っている近隣の保育園からオファーがあったそうな。
『会いたい病』の感染対策の影響で、12課からはカレンのみ出演するそうだ。
親子揃って音痴で、ピアニカですら厳しいあたしたちが出る幕すらないけど。
―――ふたつめ。あたしの代わりの人材を確保できた。
医療部の形成外科の医者がひとり、抗体を持っていたらしい。
一か月前から、彼があたしの代理として現場に行くことがあったそうだ。
そのうちタイミングが合ったら、しっかりと顔を合わせてお礼の言葉を伝えなきゃ。
「またしんどくなったら来てください」
そして、あたしの左手はどうにか完治した。
保護具を付けない久々の手の感触を、一瞬回って新鮮に感じられる。
カレンはきっとボーカルの練習をしているだろうし、何か楽しいことでも……。
縫合の自主練はもちろん、壊れていたポーチを治してもいい。
自分へのご褒美として簡単なケーキでも作ってみようかな。
ソーイングセットも古くなってきたし、久々に買い物に出ようか。
「あ、親父。買い出しならあたしが行ってくるぞ」
「おかげさまでこの手も治ったし」
エレベータ―ホールに向かう道を、父親の大柄な身体が塞いでいた。
皺の中に隠れた瞳は、あたしに何かを伝えたそうにしていた。
―――それだけは視線だけで分かった。あたしと親父の温度差が違う。
「莉緒、おめでとう。2か月の間、よく頑張ってきたな」
「ああ、どうもな。おかげさまでゆっくり休めた」
「……お前に伝えなきゃいけないことある」
神妙な面持ちで、あたしの頭のてっぺんから左手を交互に見つめていた。
代わりの人員が準備できたそうだし、そろそろあたしはリストラか。
それとも実家にあるあたしの喪服が汚れていたとか。
「今、伝えるべきことではないと思う」
「今度は親父が病気をしたのか?」
「いや」
ああ、再婚ですかね。おめでとうございます。
親父があまりにも長く躊躇っているから、きっとそういう話題だろう。
あたしはそういうことは気にしないタイプだし、お祝いには何を―――……。
「真鈴ちゃんが、生きているかもしれないんだ」
「はっーーー」
あたしはしばらく続いた療養生活に疲れたのか、ひどい妄想をしているようだ。
父親が手元に持っている数枚の写真と、めめばあちゃんの言葉。
あの日は、若葉さんの誕生日会の準備をしていたから。
フォーカスが重なりはじめたことを、見て見ぬふりをしたけど。
「……そうか、莉緒。とりあえず場所を変えよう」
目の前で身体中の力を失うあたしを、父親は言葉で気遣ってくれた。
事実ではない、きっと違う。夢を見続けているだけ。
父親が連絡を連絡を入れずにこんなことを言い出すのがおかしい。
あたしと父親のふたつの足音は、面談室へ向かった。




