やさしい新緑の芽吹き―――⑥
――――汐見ケ丘の日々④
「まりん?」
薄暗い部屋の中で電気を付けようとすると、小さな影が揺らめいていた。シンクの前で下を向いて立ち尽くしている。遠くから何度も声を掛けても振り返らなかった。あたしは怯えているようにも見える背中に近付いて、そっと指先で触れる。
「どうした。気持ち悪いの?」
「りお……」
真鈴の青白い右手は、白い包帯が剥がれている状態だった。数センチ露出している部分は、魚の鱗のようにも見える。テレビが消えたリビングの中で、ぼた、ぼた、という真鈴の血が滴り落ちる音だけが聞こえた。
「自分で切ったの?」
「うん」
大きな深海色の涙を浮かべながら、青ざめた顔の真鈴があたしを見つめている。真鈴がその手で自分の腕を傷つけた―――リストカットをしたと解釈すればいいのか。あたしが知らない間に何かを思いつめるほど悩んでいていて、もしくは命を絶ちたかったのだろうか。……なんであたしに打ち明けてくれなかったのだろう?
「なんでこんなことしたの?真鈴。どうしてあたしに悩んでることを話してくれなかったの!?」
「……莉緒だったから言えなかった。」
「私、真鈴になにか嫌なことをした? 傷つけてしまうような言葉を言ったかな」
「ちがう、だけど、莉緒だったから言えなかったの!」
あたしが自ら命を絶つことへの背中を押してしまったのだろうか。真鈴の強い訴えを聞いて戸惑いながら、真鈴の手首を結ぶように掴んだ。爪先に沁み込むほどの大量の血が、眠っていた記憶を呼び覚まさせた。
『莉緒、あなたは助けてあげるんだよ』
『こんなドジなんてしないで。困ったひとを、大切なひとを守ってあげて。……どうかこの手で』
自分の感情をぶつけることは何も生まない。真鈴を大切に思っているのなら、手当てをしてあげなきゃ。あたしは震える手で蛇口をひねって、傷口をよく洗っていく。患部の手触りも人間の皮膚の感触とかけ離れているーーきっと珍しい皮膚病だろう。明日、朝一番に病院へ行けばいい。
「だめ、きたないから。やめて」
「……汚いのは真鈴じゃない。きっと珍しい病気にかかってしまっただけだ」
「莉緒はどうしてそんなに優しいの?」
真鈴は耳朶を赤くして泣いたまま。華奢な肩は呼吸苦で大きく上下している。瞳の覆う瞼は泣きはらしたうさぎのようで。こんな恐ろしい症状がいきなり襲いかかり、怖かったのだろう。傷口をペーパータオルで拭いて、大きな絆創膏を包み込むように貼りつける。
「もうひとつだけ、お願いしてもいいかな?」
「いいよ」
「よく眠れるようにぎゅうっとして」
あたしの両腕が返事より先に真鈴へ伸びていく。真鈴は指先を震わせながら、命の重さのすべてを預けてくる。ひとたび抱き合うと、あたしの心も重さを失い、膝から床に崩れ落ちる。ーーー夏の夜は暑いけれど、どうかずっとこのままでいたい。
「ありがとう。りお」
「落ち着くまでしばらくこのままでいなよ」
本当は、あたしの方が真鈴に抱きしめてほしかったのかもしれない。母親と同じ顛末を辿るなんて、勝手に早とちりして怖がっていた心を。小さな頃と同じ声を出しながら、真鈴は泣き続けていた。ぬくもりを帯びた粒が、あたしのTシャツの左胸に沁み込んでいく。
それからしばらくの間、隙間もなく身を寄せ合っていたのに。真鈴の希望でまた別々に眠ることになった。真鈴があたしに左胸に残した感情が切なさなのか、トラウマの残光なのか。正体がわからない。心臓の近くについた涙の跡をなぞりながら、ひとりぼっちで眠りについた。
★★★
午前9時。あたしは目をこすりながら布団から出た。今日は真鈴を隣町の病院に連れて行こう。大がかりなことになってしまうかもしれないから、めめばあちゃんも一緒に出発したほうがいい。
「まりん、病院に行ける?」
あたしは階段を駆け上りながら、扉の向こう側にいる真鈴に話しかける。――――話しかけている、はずだった。踊り場に辿り着くと、床を塗りつぶされたように血液が沁み込んでいる。ドアの隙間を大きく開くと、真鈴はそこにいなかった。
あたしと真鈴が座っておしゃべりをしていた場所に、赤い風景が広がっていた。
真鈴の白い髪の毛がいくつか束になって落ちている。お風呂上りに着けていた貝殻の形をしたクリップ。子どもの頃、あたしと一緒に写ってる写真にも血痕が残されていた。
きっと悪い夢を見ているんだろう。あたしは衝動がまかせるまま、ボールペンをペン立てから取り、自分の腕を勢いよく突き刺した。ペン先の尖った感覚が皮膚をへこませる。――――痛い。夢じゃない。じゃあ、今見ているこの風景は?
「……ま、り……」
どうにか声を出して、めめばあちゃんを呼ばなきゃ。突然目の前で起きた衝撃に呼吸が押しつぶされる。からっぽの身体は、打ちのめされるように倒れた。畳に顔が近付き、濃い血の匂いが鼻の奥に充満する。あたしは身体に備わっている全ての感覚で、”いなくなってしまった”ことを理解してしまう。
―――どうしてきみはこんな痛みを受け入れなければいけなかったの?
透き通るような白い肌が、ふわりと綿毛のようになびく髪が。ちゃんと真鈴の涙を受け入れてあげればよかった。どうかこの手を離さなければよかった。
「莉緒、真鈴を探しに行こう」
力をなくして部屋に倒れていると、めめばあちゃんが視界に入ってきた。しわがれた手は、びっちょりと汗で濡れている。そのあたたかさで、あたしはふっと目が覚めた。いつもはつらつとしている瞳には、ひかりが灯っていない。きっと趣味の悪いいたずらだろうと、戸惑うふたりの心は汐見ケ丘の街を走り出した。
★★★
「まりーん!!」
「どこにいるんだー!? かくれんぼしないで早く出てきておくれー!」
きっとあたしがおかしな認識をしているだけ。子どもの頃みたいに、真鈴はどこかに隠れているはずだ。海岸の隅の雑木林の中。広場にある土管の中。海の岩肌の隅。売店の自販機の裏。いつの間にか、サンダルを履いた小指には靴ずれが出来ていた。なのに、痛みは全然感じない。
「真鈴、見ませんでしたか?」
「あれ?昨日も一緒に歩いていなかった?」
近所のひとの間では、あたしたちが姉妹であるかのように有名だった。真っ黒なクマが出来た顔で真鈴を探し回るあたしの姿を見て、多くの方が消防や交番に連絡をしてくれた。突然の街の混乱に週末のサーファーたちがどよめき、車で足早に街を去っていく。
「あいつはあたしの大事な孫だった……」
「おばあちゃん、大丈夫。見つかります」
「真鈴ちゃん、きっと見つかるよ」
真夏の太陽の下で必死に探し回るばあちゃんの肩を、スーパーの店主がそっと抱きしめる。この前一緒にラムネを飲んだ女の子のちいさな手が、震えているばあちゃんの手をたしかに握っている。あたしは白昼の中、真鈴の名前を呼びながらアスファルトの上を駆け回った。
――――サイレンの音が響く。少しずつ心臓のリズムが柔くなったころ、父は車のドアを勢いよく開けた。父はあたしたちが街を出る前に、汐見ケ丘に駆け付けてくれてくれた。あたしの心を鎮めるために、そして。『会いたい病』の検視のため。
めめばあちゃんが公衆トイレの裏側に呼ばれている。誰かに誘拐されたとか、血が止まらなくてひとりで救急車を呼んだとか。そういうことを伝えているのかな。どうか、その命がなくなっていませんようにと。Tシャツの端を強く握った。
「莉緒。ごめんね、真鈴は」
ふらふらと歩いてきためめばあちゃんから、事実を告げられた。まぶしい日差しの中、あたしの心臓は凍りついた。大切にすればするほど、こうしてなくしていくばかり。だけど、なんで。すぐ隣にいたのに、その気持ちを伝えてくれなかったのだろう。
あたしに『会いたい』が届かなくて、泣いていたとしたら。
真鈴の心を、もっとちゃんとした約束で結んであげればよかった。中学を卒業したら汐見ケ丘に引っ越すことも考えてればよかった。一緒に東京に行く計画を立てていればよかった。
「真鈴、まりん……」
あたしは声を絞り出しながら地面に座り込む。太陽を反射した地面の熱さに、目の前が真っ暗になった。真鈴との明日は、もう取り戻せない。だけど、あたしは生きなくちゃいけない。生きるということがこんなに残酷なら、心ごとなくしてしまおうとさえ思った。
箱庭のような狭い街の中で、真鈴が亡くなった事実が知れ渡った。一緒に涙を流して心を痛めたり、祟りが来たんじゃないかとどよめく街中のひとたち。それぞれの感情が混ざりあった海岸の隅に、嵐のような風が音を立てて吹きぬけた。
「……わあっ」
海岸の堤防の隅に、真鈴の瞳と同じ色の花が咲いていた。その青を見つめていたのは、あたしとめめばあちゃんだけ。真っ赤になった目でそっと目くばせをする。大切なものを失ってしまった悲しみも、痛みも。言葉にする日は当分先になりそうだけど、心の奥の気持ちは、きっと一緒。
――――きみは、命を使ってあたしの生きる理由になってくれた。そうやって考えないと、あたしは大人になっても押しつぶされてしまいそうだ。きみはまたふとした瞬間に現れて、『まだ終わらせてはいけないよ』、と伝えて去っていくのだろう。心電図の音は過ぎた時を物語るように響いた。




