やさしい新緑の芽吹き―――①
―――――堂島莉緒、7歳の記憶
本来、抗体のない人間は何の防御もせず「会いたい病」を発症した人物の処置を行ってはならない。それは症例とともに、世界に取り込まれてしまう可能性があるからだ。父親とあたしはこの病気の抗体を持ってるが、14年前に亡くなった母親にはなかった。
その日が母親との最期の記憶になるなんて、幼い頃のあたしは思いもしなかった。とある日曜日の昼下がり。あたしは母と手を繋ぎながら、スーパーの帰り道を歩いていた。運動会でかけっこで1位を取れたから、ご褒美にどうぶつの絵が書いたお菓子を買ってくれたことを覚えている。
あたしを包む手のひらはいつもあたたかかった。見つめてくれるまなざしは、誰よりやさしかった。洗いたてのワンピースからは、いつもお日様の香りがした。
「どうしたのっ!?」
「パパを、パパを追いかけてきたの。でも、すっごく痛い……」
「そうか。パパにずっと会いたかったんだね。少し楽にさせてくれるから、待っててね」
ーー母はその日、道端のマンホールに吸い込まれた見知らぬ少女の手を握った。看護師をしていた母は、それなりの感染対策を講じた。あたしは母の指示のもと、近隣の診療所からN95マスク、ビニール手袋、ゴーグルやらを持ってきた。そして、お昼休憩を取っていた事務員、看護師、そして院長までもが総動員し、マンホールの隙間に身体がねじ込まれてしまった少女の救出を試みている。
「浸食を遅らせるような薬はないのか!?」
「車ですっとばして来るにしても、ここから赤坂は遠い……」
コンマ1秒の速さで少女は臀部、お臍の辺りから勢いよくマンホールの中に飲み込まれていく。抗体がない人間が直接患部に接触するような真似をしてはならない。そのガイドラインを知らないはずはないのに、後先を考えず困っているひとに手を差し伸べてしまうのがあたしの母だった。
「ママさんがこのままじゃ飲まれてしまう!私も引っ張ればいいですか?」
「……この子は引っ張ればいい病気ではありません。夫がこの疾患にまつわる仕事をしています。近くの薬局に皮膚腫瘍を溶かすような薬はありませんか?形成外科や外科の先生なら、浸食を止められるかもしれない……でもこの近くにそういった施設はないですよね」
「薬だけはどうにかなるかもしれません。近所の薬局を探し回ってきます」
「わしの棚の中もよく見てくれ、何かしらあるかもしれません」
国家機密に近い病気。当時の私が成人をしてもなお、そのメカニズムはよくわかっておらず、『切る』、『溶かす』ことしか治療法がない。母を亡くした当時はあたしのように、『切る』ことのできる人員が国内に在籍していなかったことが危険に直結した要因のひとつだ。
「隙間からこいつとこいつをドリップでいけるか?」
「先生、濃度が濃すぎでは?皮膚組織が溶けてしまう」
「……大丈夫です、私がこうして手を握っている間は、上半身はまだ」
診療所の看護師と院長が決死の眼で、薬剤をわずかな隙間から流し込む。びき、ばき、ぐしゃ。鉄の向こう側から骨や図体が壊れていく音がする。――もう、無理だ。遅いかも。母の桜色の唇があきらめをつぶやいた。だけれど、その手を放すことはなかった。
「……もう到着する!こすぎ医院の前だね?待ってろ!」
「わかった!先生が来るまでは、この手を握ったままでいるから」
父が携帯電話越しに、もうじき到着することを告げる。今、音を立てて壊れている部分が少女の命に関わる部分か。それとも、どこかを欠損したとしても生きながらえる部位か。父と母は最善を尽くしたかったのだと、大人になったあたしは思う。
「汗で顔がびしょびしょだよ、ママ」
「ありがとう、莉緒」
緊迫した母の顔は化粧がへ泥のように崩れかかっていた。あたしにできることはないのかと、うさぎの絵柄のハンカチで拭ってみたりした。目の前で苦しんでいる女の子が助かり、母の決死の願いが報われるようにと、ちいさな身体中に熱き血が巡った感覚を忘れられない。
「痛くなくなるから、もう少しだよ。先生と、お迎えのおじさんが来るからね」
「お母さん、このままじゃ……! あなたごと飲み込まれてしまう。どうか手を離してください。今この子を失っても、忘れずにいれば……」
「必ず迎えが来ます! だからその時までもがき続けます!」
殺気立った存在は、診療所の院長の怒号さえ容易く跳ね返す。診療所から飛び出してきた女性は、これから起こり得ることを察し、あたしの頭をそっと宥めるように撫でてくれる。猫騙しのような感覚を無視し、母の言葉をただただ信じた。
「っづ、結構固いみたい。これは薬じゃ多分無理だ」
「踏ん張って! きっときみなら大丈夫だからッ……あっ、ぐ……」
このままじゃママもマンホールの向こう側に吸い込まれる。あたしはとっさに母のワンピースの裾を掴んだ。わずかな力に気が付いて、母は少女から片手を放し、あたしの手を握った。残されているわずかな力で包み込みながら、最期の言葉を伝える。
「莉緒、あなたは助けてあげるんだよ」
「こんなドジなんてしないで。困ったひとを、大切なひとを守ってあげて。……どうかこの手で」
なんで? どうして? さようなら、みたいなことを言うの?そんな怖いこと、言わないで。来週はママの誕生日だから、一緒にケーキを作るって約束したじゃん。パパのお休みが取れたら、メルヘン自然公園に行くことも。授業参観に来てくれることも。これからの記憶を、全部、ぜんぶ楽しみにしていたのに―――――……。
「ママ、だめっ、落っこちちゃ、だめっ!!!」
どんなにぎゅっと握りしめたって無駄でしかない。母のか細い手があたしの両手からすり抜けていく。少女と母、ふたりぶんの患部からの浸出液や血液の匂い。例えがたい『死』の香りが鼻の奥を突き抜けて、あたしのこめかみの奥をかすめていく。―――母の爪先まで飲み込まれ、診療所のスタッフ全員が静まり返った頃。父親たちの車両が公道をすさまじいスピードを出しながら現場に到着した。
「ママが下に落っこちちゃった」
「………莉緒、ごめんな……」
「パパ、助けにいかないの?」
「もう、いけないんだ……」
父親が母親の真珠のピアスと潰れかけた結婚指輪を回収する。その手は子どもの目で見てもわかるくらい大きく震えている。母は落っこちてしまったわけでもなく、かくれんぼをしているのでもなく、この世界からいなくなった。死亡確認の事実がなくとも、目の前で起きた事実をそれとなく感じ取った。
「下水道局には私から連絡をします。私の妻がご迷惑をおかけしました」
「……堂島課長」
「莉緒ちゃんも、泣いていいからね」
大人たちが一斉に幼いあたしに視線を向けると、親父は私の手を握って答えた。母よりもずっしりした骨格があたしの手を強く握りしめる。その強さは子どもの手には少し痛い。―――父の手も額も、母と同じく汗まみれだった。その熱さがふたりをつないでいたものだと思うと、ちいさな胸は声を上げて泣きだした。
あたしは一生分の悲しみを以て。信じると助けるという言葉の違いを知った。
――――――そして、『つぎはぎ』への軌道がはじまった。