さよならの日に降る雪―――⑦
それから、1週間ほど経過したある日。
突然、環さんがあたしとの面会を希望していることを看護師から伝えられた。
病気に関すること、足の傷の治りが悪いことに対してのクレームが告げられるのかと思いきや、同級生から贈られてきた造花を窓辺に飾ってほしいというごく単純な動機だった。
「不器用な私がやるよりも、手先が器用な莉緒さんにやってもらおうと思って!」
「花瓶にただ刺すだけでしょう? 環さんにもできると思うけどね」
「色の並べ方とか、きれいにできると思って!」
「あたしはどちらかというと、お裁縫とか切り絵の方が好きだよ」
「いやいや、そんなことないですよ。きちんときれいですよ」
環さんがあたしを褒めてくれて、まんざらでもない気持ちもあるけど。実を言うと症例とふたりきりになる時間はあまり好きでなかった。あたしはなかなか自らひとの気持ちを想像することが苦手で、知らず知らずの間に相手を傷つけてしまったり。打ち明けてくれた想いを踏みにじってしまうかもしれないという緊張感に支配される。
「莉緒さんは、歌は好きですか?」
「それは歌うことなのか、音楽を聞くこと?どっちを指しているのかな?」
「どっちも!」
「……どっちも好きじゃないよ」
女子高生と話すのなら、ヒットチャートぐらい見ておけばよかったなあ。あまり心の中身を詮索せず、時間を埋められる話題を提供してくれたのに。私はこの歳になっても恥ずかしいほどコミュ障だ。外科医ほど上位資格ではないけれど、処置だけを永遠に続けるロボットになってしまえと思う瞬間がこれまで数えきれないほどあった。
「趣味は何ですか?」
「紅茶と甘いもの。スコーンとか」
「えへへ、クールに見えて結構可愛らしい趣味を持ってるんですね。新宿の千歳急行百貨店の地下の……」
環さんと話していていつも思うのは、こんなに明るいような方がこのような病気を発症していることは非常に珍しく感じた。今まで治療をしてきた症例は、表情が乏しくあまり感情を表現しない方が多かった。彼女の傷口がなかなか塞がらないから入院期間が長引いているだけで、身体は比較的元気というのもあるけれど。それか、お芝居が好きだったという側面も影響しているのかな。
「元気になったら差し入れで買ってきますね!」
「いやいや、いいよ。あたし達は立場的にそういうの受け取れないなあ」
「じゃあ、名刺代わりに私と先輩の講演のDVDとかがいいですか?」
「……名刺代わりに作品を渡せるってすごいよね。さすが女優さんの卵だよ。
だけど、どれだったらもらえるかじゃなくて、物自体が受け取れないの」
「そっかあ。命の恩人なのに、残念」
「環さんが元気になってくださることが一番のお礼ですよ」
立場的に問題のない、当たり障りのない会話はこれでいいのかと模索する。この瞬間にも、じわりと滲み出す手汗を白衣でぬぐう。うろたえる私をよそに、環さんは可愛らしい無邪気な笑顔で笑ってくれた。こんな表情を見せられるほど回復できたのなら、退院してからもきっと問題なく日常生活を送ることができるだろう。
こういう方ほど、本心を隠してしまっているのではないかという懸念もあったが、今こうして少しの間でもお話ができたことに安心した。緊張はしたけれど、忙しいからと断ったり、遠回しにすることをしなくてよかった。
「じゃあ、あたしはこれで。また何かあったらよん……」
「莉緒さんは、会いたい人とか、忘れられないひととか。いますか」
「……え」
タイミングを見計らって退出しようと思った瞬間、環さんから心を突き刺さすような言葉を投げかけられた。勢いよく振り返ると、子猫のようなきょとんとした表情で私を見つめてくる。ぶっきらぼうになってしまってもいけない。嘘をつくことをしても何もいいことはないし。一度だけ深呼吸をして、あたしの気持ちを聞いてもらうことにした。
「いるけど、近くにはいないね」
「地方とか海外にいらっしゃるんでるか」
「ううん、死んだよ」
「えっ……」
その事実を環さんに伝えた時。無邪気な表情は崩れ、長い睫毛は驚いてくじゃくの羽根のように大きく開かれる。真鈴が遂げた死はあまりにも壮絶で、このまま話を続けようか悩んだ。だけれど、その死を含めてあたしを築き上げる記憶そのものだった。母親を含めて、会えなくなったひとは数えきれないほどいるのだけれど、『会いたい』という言葉にぴたりと当てはまるのはやはりそのひとしかいない。
「あたしが生きている理由でもあるから、話すよ」
「それに彼女を亡くしたのは環さんぐらいの年齢だったから、聞いてほしいのかもしれないね」
「怖い話になるけど、いい? 気持ち悪くなったらすぐ言ってくださいね」
あたしと真鈴との間にある思い出を、包み隠すことなく語った。あたしが会いたいひとは8歳からの友達。夏の間だけ会える、特別な存在。心の中を見透かしたようなことを話すけど、漢字すらすべて反対に書く不器用な女の子。この街にない楽しい場所を巡って、わくわくする思い出を数えきれない程作った。だけど、14歳の時に、その尊い存在は身体のかけらを残しながら、消えてなくなった。
「ごめんなさい、辛いことを思い出させてしまいましたか」
「いえ、別に。生きる理由を聞かれたら答えるのは当たり前でしょう」
「生きる……理由?」
「あたしはあの子の死から伝えられたんです。会いたいと、もがき苦しむ方を救えと」
「……強いんですね。莉緒さんは。私なら怖くて逃げ出したくなっちゃいます」
「逃げ出したいという気持ちは持っててもおかしくないよ? あたしの感情が死にすぎてるだけだからさ」
悲鳴をあげる身体を眠らせる薬を刺す。地面に融合した身体を引き剥がす。傷ついた肉体が、会いたいひとが待つ場所を目指していけるように。言葉にすれば、神様がやる仕事みたいだ。だけど、あたしは血液の中に特別な抗体があるだけの、ただの感情の死んだ女だ。普通の人間であれば、辛い過去を思い出す仕事など進んでやりたいと思わないし、トラウマに触れるたび発狂するのが正常な精神の反応だろう。
「なんで莉緒さんにこんなことを聞いたのかというのはね。」
「また、黒瀬先輩に会いたいんです」
病室の片隅に置かれたパイプ椅子に座りこんで、物思いにふけっていると、環さんから質問の真髄を投げかけられた。彼女はきっと、『大好きだから!かっこいいから!』『こんなに元気になったから!』なんて、はつらつとした声で語りだす。そんなあたしの予想とは反対に、環さんから訴えかけられる感情は、せつなさや寂しさに辿り着く前にひどく怯えているようだった。
「でも、怖いんです。先輩から返事が返ってこなかったり、会いたいという気持ちを拒否されたりすることが」
「忘れ去れているかもしれないと思うだけで、泣き叫んでしまいそう」
あたしの左手を、彼女のか弱い手で握られる。これだけ回復できたのなら少し強い力で握れるはずなのに、せつなさに痛めつけられていることがわかる。すがるような仕草が、彼女は役者を名乗っていても普通の女の子のようだ。本当は症例の手には素手で触れてはいけない決まりになっているが、この際は関係ない。そんなの、感情が死んだ私ですらわかることだ。
「……莉緒さん、私はどうすればいいの……」
この病気を発症する方々の大半は、症例が想いを寄せている相手も同じように『会いたい』と思っていることが非常に多い。重症化を免れた症例以外は、退院後に面会をすることも多い。ただ、国を隔てていたりとか、相手も入院中のような場合などはこちらが調整に入ることが多い。今回はそのルールには当てはまらないけれど、環さんの心は想像以上にデリケートだ。このちいさな心と身体だけでは面会を叶えることは難しいだろう。
「お母さんは黒瀬先輩を知っているの?」
「知らない。部活のことあまり家でしゃべらないから……」
お母さんとの関係はあまり良好ではないということを知っていたが、予想は当たった。家族経由でやりとりができれば、あたしたちが介入するよりも手っ取り早い気もする。なんでも。あたしたちの立場はあまり世の中で認知されておらず、警察や医療スタッフの権限を用いて、関係者に話を持ちかけたところで信用してもらえないことのほうが多い。
「……ごめんね。すぐには答えられない」
「そっか、舞台に上がれるぐらい元気にしてもらったのに。ワガママばかりだよね」
「もういいです。忘れてください」
「折角あたしなんかに打ち明けてくれたのだから、忘れることはない。あたしだけの一存でどうにかできる問題じゃないけれど、なるべく叶えられる方向にしていきたい」
ふわふわした言葉の中で誠意を見せるしかなかった。あたしじゃなくてきっとカレンや親父だったらきちんと受け答えできることもできたと思う。今まで積極的にひとと深く関わってきたことがないつけがまわってきた気もした。
「きっと叶わない願いだけど、こんな想いを聞いてくれるひとに出会えてよかった」
「莉緒さん、助けてくれてありがとう」
環さんはまっすぐな言葉は、あたしの心臓を勢いよくひっかいてくる。
治療を終えたあの方も、今日退院をしていったあのひとも。ひとしく日常生活に戻っていくのなら。きっと環さんにも幸せになってほしい。多方面の部署に相談しないといけないことだから、面倒であることには変わりないけれど。とにかくやるしかない。
☆☆☆
環さんと面会をした後、あたしはとぼとぼと医療部の長い廊下を歩いていた。
この病気に対して抗体のないスタッフは重苦しい防護服を着て、症例にいたわる言葉をかけながらケアをしている。あたしのような緩い感染対策で患者の処置や面談ができるのは、カレン、神崎先生、カウンセラーの水野さんだ。
私たち以外のスタッフ以外が、誰もが宇宙服のような重装備を纏っている。
曇ったゴーグルの向こう側から症例の状態を確認して。身体中に刺された管を抜いて、暴れ出してもやさしく宥めて。あたしには到底できない仕事だ。必死になって向き合っている姿を見かけるたびに、尊敬と感謝の気持ちを忘れないようにしている。
「莉緒! こんなところ!」
「親父、久しぶりだな」
医療部の入口から出ようとすると、親父がフェイスシールド越しに話しかけてきた。親父とは家族といえど、今は別々に住んでいるので久々に顔を合わせることもある。今日のように現場がなく、仕事場で遭遇すれば挨拶をして、時間が空いていれば話し込むこともあるけれど。ここ数日間、父は何故か経理課の手伝いで缶詰をしていたようだ。過労が溜まっているのか、ゴーグル越しに覗く目元は少し老け込んだように見える。
「……莉緒は悩んでいそうな顔をしているな。どうしたんだ?」
「……えと、」
「こんなにざわざわしている場所で話すことは苦手だろう? 仕事はもう終わったから、奥のスタッフルームに行こう」
防護服姿の補正もあってか、なんだかその背中がいつもより大きいように感じた。幼少期から親父に愛されてないと思ったことはない。だけど会えないことが寂しかった時期もある。でもなんだかんだ言ってこの歳になって感謝している。こんな可愛げのない娘を男手ひとつで育ててくれたし、真鈴とめめばーちゃんとの日々があったのは、親父のおかげでもあるから。
「最近救急で呼ばれることはなかなかないのに、病棟でうろうろして。どうしたの」
「環七菜子さんに呼ばれた。面談がしたいって」
「何々?傷口がなかなか治んないとか、師長さんが意地悪とか、神崎先生早口すぎて何言ってるかわからないとか、病気とか入院生活のこと?」
「違う。調整。先輩に会いたいんだって」
「な!なんだってえ! あんな女優さんの卵が好きな先輩って、もしかして芸能人?」
「ミーハーになるのはやめろよ。しかも、あの子は女子高の生徒だよ。そして憧れのひとが異性だって考えも古いし、男同士でも女の子同士でも愛し合う時代なのだから、遠回しに懐古を投げつけるのはやめろ」
「ご、ごめんな……」
あたしの突然の強い言葉のマシンガンに、親父の大きな背中が一瞬で縮む。ミーハーというよりかは中年男性特有の絡みがうざったくて仕方なかった。親父はこほん、と、咳ばらいをすると、黙り込んでしまった。強い言葉を口走ってしまったけど、相談を持ち掛けたかったことは変わらなかった。
「何か力になれることはあるかな……」
「莉緒がちゃんと誰かのために悩んだり考えたりするなんて、私は感心したよ」
「悩んでなんかない。困惑したから、親父に相談しただけ」
「そういう時に私を頼りにしてくれるのは、父親としても上司としてもうれしいぞ。環さんが退院するあたりには決着をつけられるように、私からも掛け合ってみるよ。」
親父はあたしの背中をぽん、と、優しくたたいた。こんな形で激励されるのは学生時代振りで、なんだか恥ずかしくなってきてしまった。実の父親に対してもこうなってしまうのだから、あたしはよっぽど人間と感情を交し合うスキルが欠落しているんだろう。
「恥ずかしがり屋なのは子どもの頃から変わらないよねえ」
「うるさいなあ、もう。よろしくね。」
親父の手にあるPHSがけたたましく鳴り響くと、慌てて通話ボタンを押した。きっとまだ忙しいだろうし、これで一休みの時間はお終いになるだろう。短い時間だったけれども、こうして親父にぽつりと気持ちを打ちあけられてよかった。
「任せときな! なんかあったら電話してくれよ!」
こんなに温厚な親父からあたしという娘が生まれてきたことが信じがたい。遺伝子という因子は存在しているとしても、やはり別々の個体ということを思い知らさせる。
なんだか今日は脳が一段とうるさくて、甘いものが食べてきたくなってしまった。あとでカレンと一緒に駅前のケーキ屋さんにシュークリームでも買いに行こう。医療部に戻る親父に手を振り、ひとりエレベーターホールへ歩きだした。