さよならの日に降る雪―――⑥
「明日なんて、信じられないよね」
「はい……台詞が飛んじゃったりしないか気にしています」
本番の前日、先輩は私が劇中でつける髪飾りを作っていた。本当は衣装合わせの日までに間に合わせたかったそうだけど。ごめんねと謝りながら勉強と稽古の合間を縫って作業してくださっている。既製品でももちろんうれしかったのに、こうして作ってくれるのだから。嬉しさが百倍増しに膨らんでいく。
「大丈夫だよ。環は誰よりも頑張ってきたんだもの」
「それは先輩じゃないですか?」
「そんなことはない。最大限を出せても、まだまだ完成度は8割程度な気がして」
さっきから先輩と目が合わない。手元を動かしているのだから当たり前だけれど。先輩の性格的にふと手を止めて、アイコンタクトを取ってくれるのが自然なんだけどなあ。こうして、そばにいてくれるだけでうれしいのに、視線が合ってほしいなんて。やっぱり私は大きくなってもわがままばかりだ。
「勉強のせいにしているだけなのかな。いつも舞台を終えるたびに、後悔するんだ」
「明日が最後の舞台だと思うだけで、ずんと気持ちが沈んでいってしまう」
「……そうですね。私も先輩と最初で最期の舞台になってしまうなんて、考えたくないです。」
先輩は沈黙を保ったまま、造花の先につけた紙縒りに金色のピンを突き刺す。言葉なく手招きをしてきたので、そばに駆け寄った。先輩のしなやかな指先が、私のこめかみを掻きあげる。どきんと鼓動が強くなった。
「あれ? ちょっと大きすぎかな?」
「そんなことないと思います」
「左がいい?右がいい? 観客から顔が見えないとあんまりだよね」
「先輩が決めてください」
今日のリハーサルとは違った緊張が身体中を巡り、呼吸をすることすら躊躇ってしまう。早く花飾りを突き刺して、恥ずかしさから開放してほしかった。だけど、むず痒いようなときめきもこれで最後。もう少しだけ身体を寄せていたいのはなんでだろう。相反した気持ちが私の胸の中心でマーブル模様を描いていく。
「ばちんってするよ。痛かった言って」
「はい」
ばちん。と、前髪を留める音がすると、先輩の手は私のこめかみから離れていった。一歩一歩ゴールを目指していくようで、一秒一秒過ぎていく。時計が動くだけだった毎日を、こんな風に思えるのは先輩に出会うことができたからだ。……私はきっと先輩に対して、憧れよりもちょっぴり強い気持ちを抱いているのかもしれない。
「わあっ……」
「どう? かわいいでしょう」
手鏡をひっくり返すと、桃色、黄色、白色の花飾りが私の顔色を華やかにしてくれた。これは衣装のひとつで、物語の鍵になる大切な小道具でもある。劇中の冒頭では、婚約指輪を手に入れられなかった王子が、ローザに似合う花飾りを作っていたというシーンもある。
「私はまた環と舞台をやりたいんだ」
「医学生ではあるけど、研修とかが忙しくなる前までなら、なんかしらの形で役者は続けられるかなって」
後輩は普段とは違うニュアンスで私に語りかけた。一緒に覗いた鏡の向こう側の先輩の瞳はとても真剣だ。刺してくれた髪飾りの隣には、ひとつぶのしずくがついている。それらの言葉に心が震えて、ひとりでに涙がこぼれていく。本当にこんな高飛車な私に対して送られた言葉とは信じられない。そっとリフレインをするように先輩にその言葉の意味を尋ねる。
「じゃあ、明日が終わりじゃないかもしれないってこと?」
「そうだよ」
「私も先輩とミュージカルを続けたかったんですよ。この夏が終わっても」
「気持ち、一緒だったんだね。うれしいな」
「……先輩とは少ししか一緒に過ごせなかったけど、本当にいろんな気持ちをいただきました。受験を決めた時から憧れていた先輩が、こんなに可愛がってくれるなんて思いもしませんでした」
なんだか告白しちゃってるみたい。折角涙が乾いていきそうなのに、みるみる顔じゅうが熱くなっていく。言葉で大きさを表せないぐらいの幸せがこの胸を包み込んでいくのに、明日を迎えたら先輩としばらく会えなくなるせつなさも残る。
「続けていけるように、頑張るからね」
「はい、先輩」
先輩がくれた花飾り。そして花束のような素敵な言葉。明日が最後の舞台になるかもしれない、という重圧から解き放ってくれた。素晴らしい舞台になる。そんな魔法をかけてくれた先輩がこの瞬間にくれた色とりどりの感情。どれひとつ手にとってもその色は綺麗で、心というスペースを飛び出していきそうだ。だからこそ、ひとつひとつを大切に、こぼさないように握り締めて進みたい。この手の中で、歌声の中に――――――……。
「床めっちゃ汚いじゃん。こんなんじゃ明日優勝できない」
「閉門まであと少し時間もありますし、掃除してから帰りましょうか」
リハーサル直前はバタバタしていて、大道具の搬出後にする掃除をうっかり忘れていた。
窓辺から夕日が消えた教室からは、私たちの足跡だけが残っている。この場所にありがとうを伝えるために、私たちは掃除をしてから帰ることにした。
☆☆☆
『明日も、明後日もこうしてともに歌おう』
『はい、あなた』
大舞台の緞帳が目の前に落ちても、さよならは伝えなかった。だって、また会える日まで頑張っていけばいいから。都大会に進めたことを当たり前のように喜んで、部活から帰る時のようにいつもと何も変わらず手を振って挨拶をした。
夏が過ぎて、秋が過ぎて、冬が来ても。校舎の中で先輩の姿を見なくなってからも。根拠のない約束を信じ続けた。私と演じる次の舞台を楽しみにしながら、先輩が頑張っている姿を想像した。忙しいと思うから、メッセージを送ることも手紙を書くことも我慢した。
「先輩の努力が報われますように、そばに居続けられますように」
流星群が接近するたびに、先輩とまたお芝居ができますようにと祈った。電車をはしごして学問で有名な神社に行っても、自分のことは大して祈らなかった。手と手を重ねる先には、いつも先輩との笑顔があった。センター試験の日は、先輩の足元が悪くならないようにと、窓いっぱいにてるてる坊主を飾った。
現実を思い知った日は、皮肉にも私の誕生日だった。ここ連日、めずらしく雪が終わりがなく降り続けている。珍しく首都圏のほとんどの電車が止まり、授業も部活もお休みになる。
暦の上では二次試験は終わっているようだ。そろそろ先輩の進路が決まるころだろう。折角の誕生日に暇を持て余し、1日中ごろごろとベットの上に寝転がっている。夕方頃に突然スマートフォンが着信音とともに震えると、画面がすずの名前を表示した。
「……あのね、実は七菜子に伝えたいことがあるの」
「うん」
「伝えようか悩んだんだ。きっと落ち込むだろうって」
「明るいニュースではない、聞きたい?」
「うん。」
「……黒瀬先輩、秋田の大学に行くんだって」
生ぬるい布団の中でひとりでに心臓が鳴った。立ち上がる力など残されていないのに、身体をゆっくりと起こした。聞き間違えじゃないのかと、すずの絞り出したような声にもう一度確認を取る。
「えっ、東京じゃなくてもこの近くじゃないの?」
「ううん、私立には受かったけど奨学金をもらえなかったから、秋田の県立に行くらしい」
「え、なんで? 先輩に直接聞いたの?」
「直接ではないけど、部長から聞いたからたしかな情報ではある」
……先輩、妹さんが沢山いるからだ。医大はとんでもないお金がかかるから、ご両親を思って遠方の大学も出願したのだろう。先輩はやさしいからと、その理由は考えなくてもわかっているはずなのに。
「ごめん、電話切っていい? また明日、部室でね」
「……うん」
電話を切ると、誰もいない部屋で先輩の名前を叫んだ。先輩がくれた気持ちは嘘ではない。私を悲しませるために言葉を届けたわけでもない。先輩の希望が叶わず、私の願いが届かなかった。ただ、それだけのことなのに、胸の奥が摺りつぶされたかような痛みが走った。
それから何時間だろう。頭の奥がじりじりと痛くなるまで、私は泣いていた。
再び身体を起こして窓辺を眺めると、雪はすっかり止んでいる。
今日が誕生日だったことを思い出しながら、力なき身体で部屋を出て階段を降りた。
みんなが飾りつけしてくれた部屋も、私の目にはモノクロの世界に見えた。
ママが作ってくれたハンバーグは味がしなかった。パパがくれたプレゼントだって封を開けないまま。ゆうとが作ってくれたマシュマロ入りのココアは、口をつけずに冷えていく。
生きる意味なんて言ったらまだまだ大げさだけど。
真っ暗な海を照らしていた灯台が一瞬で消えてしまったようだった。
☆☆☆
結局、今まで先輩から連絡が来ることは一度もなかった。
卒業式の日はママがなかなか部屋から出てこない私を心配し、ドアの向こうから呼ぶ声が聞こえた。すずや同級生から、『卒業式に行けばきっと最後に話せるから』という提案もあったけれど、へそを曲げたまま部屋から出ようとしなかった。
―――――先輩に私が今もお芝居が好きなことを伝えるためには。この部室を飛び出して、舞台女優を目指していくしかない。ただがむしゃらにして、弱音に鞭を打ってオーディションを受け続けていた。だけれど、なかなか結果に恵まれない日々が続いていた。
次の舞台ですずが主役に選ばれても、いつも私の気持ちに耳を傾けてくれたし。やつれていく私に、ママがあたたかいご飯を作ってくれた。寂しさなんて感じる必要なんてないはずなのに。だけど、先輩を思い出す度に心がひび割れていく。そんな日々を重ねる中で帰り道を歩いていると、コンクリートが勢いよく足を固めるように纏まりつき、浅い呼吸が止まりそうになったところに。
莉緒さんの翡翠色の瞳が見えた。
学校の中で将来が見込まれる生徒だと有名になっても、やはり精神は弱弱しいままで。生きている意味って、難しくてわからない。だけれどこの手を伸ばせば、生きながらえる。残されたわずかな力で、黒のグローブを確かに握りしめた。
「ううん、きっと私は怖かったのかもしれない」
「先輩に”さようなら”を伝えることが」
「約束したその日で終わりにさせたかったのかもしれません。」
スノウ・ライトの戯曲はとても有名で、病室の中でカレンさんが上手に歌ってくれた。昔を思い出しながら回復してきた力でデュエットしてみたけれど、やっぱり肺活量も全然落ちてしまったし。きれいなガラスみたいな思い出だけど、あの頃に戻ることはできないことを思い知らされる。
「先輩とやらはなんで可愛がっていたお前に連絡をしなかったんだろうな」
「……きっと環さんが思うよりも、何とも思ってないわけじゃない。きっとご自身もてんやわんやの中で、何て伝えたらいいのかわからなかったのでは? 大切なひとだからこそ。」
「そうやって言えばかっこいいけどな、お前がコミュ障であることには変わらねえぞ」
「うっるさいなあ! カレン、さっき歌上手って言ったの嘘。」
こうやってしっかり時間を割いて話したのははじめてだけど、このお二人もなかなかいいバディとしてお仕事をしているようだ。真っ白な部屋に隔離されて、思い出の海を往ったり来たりする毎日だったけれど、にぎやかなその声を聞いているとこっちまで楽しい気分になってくる。
「あんまり大きな声で騒ぐと身体によくないよね。ごめんね、環さん」
「もう少し傷口が落ち着くまで、入院していないといけないからね。あたしたちはこの辺でお暇しておくよ」
「また話したくなったら看護師さん経由でいいから呼んでな! あと子守歌聞きたいとかでもいいからな」
「あははっ、眠れないときはお願いするかもしません」
本当はもう少しお話をしたかったけれど、忙しいからだろうと引き留めることはしない。また患者さんを助けに車に乗ってどこかに出かけて行ってしまうのだろう。おふたりやこの中で働くスタッフの皆さんは、私はまったく違う世界を生きているけれど、そうした存在に出会えたことも回復へと繋がった。
この建物の中はとても静かだ。あのふたりを除いて。だけれどこの場所は嫌いじゃない。ぎろり見つめる無数の瞳もないし、照らすか陥れるかわからないスポットライトもない。止まらない動悸を無理に押さえつける必要はない。
荒れ果てていた心の波を休めていくような毎日が淡々と続いていく。
「だけれど、ちょっと寂しくなっちゃったかなあ」
ガラスの画面の中では、部員のみんなの写真が色鮮やかに映し出されている。けっきょく1年生の子を教える前にこんなはめになってしまった。上級生になったすずがそわそわとしているものだから、時々電話で話を聞いてあげてるし。ママやパパは早く面会をしたいと主治医の先生にお願いしているそうだ。
早くみんなに会いたい。こうして笑顔になる日もあるのだと、早く伝えてあげたい。――――――じゃあ、先輩は? こうして身体中を痛めつけてしまうほど、止めることのできない感情の正体ってなんだろう?
「黒瀬葵さん。」
先輩の名前は消毒液の匂いに溶けていく。ねえ、この傷口を突然カメラで取ってメールで送り付ければいい? そうしたら大粒の涙を流して私を心配してくれるかな。それともメッセージを送っても返事が来ないことに失望して、また具合を悪くするかもしれない。
「会いたいよ……」
言葉にできない想いは、入力画面の上で点滅を続けた。どうやって伝えればいいのかと考えれば考えるほど、じりじりと心がもやに包まれていく。いくつか候補を考えて保存しておこうとしても、指先が勢いよく震え出してしまう。ーーー身体が元気になっても、このままじゃ前に進めない。そんな躊躇いがこもるベットの中に横たわって、静かに眠りについた。




