さよならの日に降る雪―――⑤
演技には正解がない。習い事も勉強も、根気強く取り組んだことのない私には、主役を演じることがここまで大変だと考えてもみなかった。
「できてないわけじゃないんだけど、違うんだよねえ」
「感情を出しすぎても声が上ずりすぎちゃうから、そこ意識して」
「ちょっと右側に踏まないと、ここからすずちゃんが踏みだせないよね」
「もう少し経験があればなあ……」
先輩方の意見は私の未熟な心と身体に突き刺さった。最初は包み隠すことのない指摘を耳にし、震える手を押さえつけることもあった。だけど、日に日に出来ていく傷こそが演技を磨いていくものだから、と、私はひとつひとつその注意に耳を傾け、少しでも良くなるように努力を続けていった。
「七菜子ちゃん、演技はうまいけど協調性がないよね」
「あそこのハモるところだってもう少し声を小さくすればいいのに」
「……じゃあ、直接七菜子に言えばいいじゃない」
「あたしが言えるわけないじゃない! 一幕しか出ない脇役がなんの分際で……」
「たしかに七菜子はちょっと調子に乗り出すと止まらないところだけど、人の意見を聞かない子ではないから」
「……直接言えないからすずに言ったのに」
台本やら水筒やらを詰め込み、部室から出ようと準備をしていると、階段の向こう側ですずと同級生の子が話をしている声が聞こえる。きっとその子は私を妬んだりしているわけじゃない。考えすぎだとは思うのだけれど、1年生の私が主役を演じることによって部室に不穏な空気が流れているような気がした。
「あっ、七菜子! 一緒にクレープ屋に行こうよ!」
「ううん、太っちゃうからいい。また今度ね」
「ちょっとぐらいいいじゃん、まってよー!」
今日はひとりぼっちで帰りたい日だった。昇降口を出てからも、すずの足音が追いかけてくる。少し遠回りをしながら逃げた。
普段通らない道の途中で赤いミニトマトの実が成っている。きっとベジタブル部が育てたものかな。夕日を受けてきらりと輝くミニトマトの粒が、宝石のように見えた。
誰かの意見を聞くのももちろん必要だけど、こんな風にありのままの輝きを見つけて、肩の力を抜いてやってみたいという本音を心の中で潰す。
「あれー! 環。こんなところにいたの?」
「先輩じゃないですか。今から帰るんですか?」
「そうだよ。久々に一緒に帰ろうよ」
先輩は今日までの1週間、全国模試の勉強のために部活を休んでいた。
ひとりで帰るためにこの道に来たはずなのに、先輩となら嫌じゃない。ささやかな偶然にささくれの立った心が癒されていく。先輩が私の方を見るとふわりと石鹸のようなオーデコロンが鼻の中で揺れた。どきどきして耳が赤くなってるの、気が付かれているかな?
「なかなか一緒に稽古ができなくてごめんね。最近はどう?」
「もう全然ダメですよー。なんでこんなペーペーのまま主役を引き受けちゃったのかな」
「みんなが環のローザを見たかったからだよ」
「わかってはいるんですけど、なかなかうまくいかなくて」
校門を出たあたりで、ぽつりぽつりと先輩に気持ちを打ち明けた。憧れ続けている先輩に愚痴を言うなんて、できないと思っていた。だけど、私に向けてくれるまなざしがやさしくて、うなずく声があたたかくて。感情がひとりで言葉となって飛び出してくる。
「私自分で言うのもなんですけど、お嬢様育ちなんですよ。」
「小さいころからわがまま放題で、うまくできなきゃ癇癪起こして。」
「でも、大きくなるにつれてその感情の正体はさみしさだったのかもしれないって」
「私をかわいがってよ、かまってよ。弟ばっかりじゃなくてって、伝えたかったのかもしれません」
コンクリートの上で私の足がぴたりと止まる。先輩は落ち込んでいる私をどんな表情で見つめているのか。うつむいていた顔を上げると、じっと私を見つめながら相づちを打ってくれていた。
「ちょっと、座ろうよ。環が好きないちごミルクおごるからさ」
「え、だって先輩、明後日模試じゃないの?」
「そうだけど、今は環の話を聞かなくちゃいけない」
そんな真剣な言葉を渡してくれたら、そばを離れられない。甘えるように肩を預けたいのか、ただときめいているのか、わからないまま。私は公園のベンチに腰を落とした。
「私の話ばかりじゃつまらないから、先輩の話も聞かせてください」
「私も環と似たようなところはあるよなあ。んと、同じ長女だよ」
「たしかにそんな感じですね。部活でもみんなをさりげなくまとめたりするところとか、お姉さんぽいなって思ってました」
「そうかい? 割りと自由にやってる感じだけどね。妹は3人だよ」
「あら! そんなにいるんですか……」
ゆうとの受験が終わってから、家族仲もそんなに悪いわけではないけれど。先輩の妹として生まれるのも悪くない。神様、どうか来世はよろしくお願いしますと心の中で祈ってしまう私がいる。
「親父は医者だよ。開業するつもりだったけれど、なかなか家計が大変で病院をやめられないみたいだ」
「ええ、そうなんですか。先輩も医者になりたいんですか?」
「そう言えばそうだね。部活も中途半端にやらせてもらっているけど、一応医学部を受けるつもり」
先輩の真剣なまなざしは、いつか遠くに旅立ってしまいそうだった。でもその場所には追いついていけない気がして、志望校とか詳しい話を聞いたりはしない。私が先輩の話を聞きながらいちごミルクを飲んでいると、先輩が不意に本音を打ち明けてきた。
「本当はさあ、舞台のことを学びたかったんだよね。」
「だけど、私を取り巻く環境がなかなかそれを許さないのよ」
さらさらと流れる風。先輩のへの字に曲がった眉毛がちらりと見える。先輩の表情はいつも凛としているか、やさしいかのふたつだった。こうして悩んでいる表情は見たことはない。はっと小さな息を飲むと、先輩の次の言葉を待った。
「医者になりたくないって言ったらそれは嘘ではないよ。だけど、医者になることが私の全てかって問われたらそれは違う気がするんだ」
「……それはどういうことですか」
「ふらふら自由に旅をしてみたいのかも。こうして演技をしたり、舞台を作ることから医者になる夢につなげていって、その逆も然りで……。」
「ごめんな、うまく言葉にできないや」
「ふふふっ。器用なんですよ、先輩は。目標がひとつだと、見詰まってしまう感じなんですね」
「そう! だからね、部活で息抜きができるから勉強を頑張れる気がするんだよ」
数日前から、先輩の下瞼にクマが増え始めている。先輩は夢を叶えるために尋常じゃない努力をし続けている。私は生まれてこの方、家族以外のひとを励ましたことはないけれど。これでいいのかな、と必死に探しながら。先輩の夢が叶いますように、と、この言葉を口にした。
「その考え方、とても素敵です。先輩の思うように進んでいってください」
「普通医学部受ける子は春に部活やめてるんだよ! こんな暴走自転車だけど、環は見守ってくれるの?」
「はい。だって、先輩と一緒に演じてみたいと思って入部を決めたんですから。」
「そっか、うれしいよ」
先輩は子犬みたいな顔をして笑った。何でもない一日のような気がしたけど、先輩の見たことのないたくさんの表情を知ることができた。すずをはじめとした同級生は、私が機嫌を悪くするとおどけた顔でふざけてきたり、冗談だよと背中を強く叩いてくる。それも悪くないけど、私の心がまっすぐに欲しいと思ったのは先輩そのものだった。
夕凪が吹き抜けるまで私たちは他愛のないおしゃべりを続ける。このまま時が止まって欲しいと思った。だけど、止まったままじゃ一番きらきらの舞台には辿り着けないよね。他の上級生と比べて、先輩と会える時間は少なかったけれど。そのかけがえのないひとときがエンジンのように私の心を奮い立たせてくれた。
☆☆☆
先輩はその次の週から、金曜日だけ稽古に来るようになった。暦の上では夏になり、これからは後半のシーンを詰めていくことになる。気温が上がった最近はどうしても汗をかいてしまうから、先輩が来る前を見計らって勢いよく制汗スプレーを全身に吹き付けている私。その姿を見てすずはゲラゲラと大笑いしている。
「あんた、そんなにかけたら逆にバラくさくなるよ」
「だってだって! 汗が匂うんじゃないかって心配になるじゃんよ!」
「別に臭くなんてないよ? 心配しすぎだって。」
「すずはこの気持ちをわかってくれないのねー!」
すずはこうして私の心をそっと解き放ってくれるけど、やっぱり舞台の上は戦場だった。どんどん季節は進んでいくけど、うまく治せていない悪い癖も沢山ある。もっと声も美しく出せるようになりたい。練習を重ねるたびに、台本や楽譜に書き込みが増えていく。
「静粛に!」
「そろそろ通し稽古はじめるよ」
部長の号令と拍手が響くと、部員一同は教室の中心に集合した。今日はあのシーンからだからと、先輩とアイコンタクトをして立ち上がる。まだ舞台の上ではないけれど、私たちはしっかりとした足取りで部室の中心に向かって歩いていく。
ガールズトークで満ち溢れる部室が一気に静まり返る。20個を超える瞳が、ぎろぎろ、じろじろと、違う生き物のように動いている。都大会の舞台では、この瞳が単純計算でも2倍以上になる―――やっぱり少し怖い。でも、確かな志をもって役者を目指したのだという決意を確かに握る。
まばたきをひとつすると私の目の前には先輩しかいない。ローザの目には自分を思い出してくれた、最愛の夫の姿だけが映っている。あなたを演じることでこの心は強くなれると信じて、その手を取る。
『思い出してくれたのね、あなた』
『ずっと寂しい思いさせて、ごめんね』
台詞のはずなのに、まるで先輩が私に伝えているみたい、なんて錯覚してしまう。感情が昂りすぎて、ローザと私の心の調律がダブらないように。ううん、これは演技だからと振り切るように一度先輩に背を向けた。
『覚えているかしら?出会った日に一緒に歌った曲』
『ああ、もちろん!』
『……一緒に歌おう!!』
先輩と手を重ねあうと、せえの合図で歌い始める。歌うことってこんなに楽しくて、どきどきするんだっけ? 悩みや苦しみを織り交ぜると、こんなに綺麗な音色になるなんてはじめて知った。こんなに力いっぱい声が出せる瞬間に出会えるなんて思いもしなかった。
リハーサルの日まで会えないけど、どうか。本番では最高のローザで舞台の上に上がっていますように。先輩やみなさんの努力の結晶が観客の方々に届きますように……。
私たちだけの場面があっという間に終わると、先輩の手は離れていった。
寂しいとは思わなかった。私たちはきっと辿り着ける。そんな確信が心に生まれたから。部員たちの拍手を聞くと、先輩はとてもやらかい顔で微笑んでいた。……後輩としてじゃなくて、役者として認めてくれたのかな。ローザの影が剥がれ落ちると、私は微笑み返す。
「よかったよ。七菜子ちゃん」
拍手をすり抜けるように、先輩はすぐそばで伝えてくれる。もうその言葉だけで、ゴールできた?なんて己惚れてしまう。だけど、私たちが目指しているのはもう少し先だから。先輩との思い出をお守りにして進んでいこう、と思えた大切な瞬間だった。




