第17話:指定納品と、職人の火種
第17話:指定納品と、職人の火種
王都ベルクンドを包む初夏の熱気は、午後を過ぎると乾いた土埃とともに街中へ澱のように沈殿していった。
王立貴族階級学校の講義終了を告げる重厚な鐘の音が鳴り響くと同時に、貴族の生徒たちは夜のサロンや派閥の集まりの話題に花を咲かせながら、豪奢な馬車が待つ正門へと群れをなして歩き出していく。
その華やかな喧騒の波に逆らうようにして、ライル、アルド、セシルの三人は校舎の裏手――旧厩舎の錆びついた鉄扉の陰へと滑り込んでいた。
「……セシル。例の件、冒険者ギルドへの打診はどうなった?」
制服のネクタイを緩め、汗ばんだ首元を拭いながらライルが小声で尋ねる。
セシルは周囲の雑木林に人の気配がないことを鋭い視線で確認してから、いつもの分厚い手帳を開き、眼鏡のブリッジを押し上げた。
「話は通してきましたよ。下部支部の買い取り窓口――あの無愛想な受付嬢です。彼女に『境界エリアで採取した大角兎や泥毒蛙の魔石を、石炭街のガド工房へ直接回す指定納品枠として卸せないか』と持ちかけました」
「受付の姉ちゃん、なんて言ってたんだ?」
アルドが革靴を脱ぎ捨て、平民の作業用厚底ブーツへと履き替えながら身を乗り出す。
「最初は『学生が生意気な真似を』と冷笑していましたよ。『Eランクに上がったばかりの子供が、商工ギルドの真似事など片腹痛い』とね」
セシルは羽ペンの尻で手帳の数値をトントンと叩き、口元に商人らしい冷徹な笑みを浮かべた。
「ですが、クライン商会の過去の流通記録と、現在の魔石枯渇による石炭街の操業停止件数を具体的な数字で突きつけました。さらに『うちのパーティは重傷事故を一度起こして以降、境界エリアで無傷の討伐を連続で成功させている』というギルド台帳の実績を叩きつけたところ、最後は舌打ちしながらも奥の担当官から認可印をもぎ取ってくれましたよ」
「へっ、さすがは商人の息子だな。あの鉄仮面みたいな受付の姉ちゃんを丸め込むとは大したもんだぜ」
アルドが感心したように笑う。
「丸め込んだわけではありません。ギルドにとっても、専属の腕利き鍛冶屋が燃料不足で潰れるのは、所属冒険者たちの武器防具の供給が止まることを意味しますからね。彼らにとっても渡りに船だっただけの話です」
セシルは手帳のページをめくり、二人に現実的な条件を提示した。
「ただし、条件は二つあります。一つは、ギルドを仲介するため、売却益から一割の手数料が引かれること。もう一つは、納品する魔石の『品質基準』です。第一層浅瀬のスライムや角兎の濁った小石など、ガドの巨大な製錬炉では炭の足しにもなりません。必要なのは、境界エリアに棲む大角兎以上の純度を持つ赤黒い魔石……これを、週に最低五個です」
「週に五個……」
アルドが首筋をボリボリと掻き、顔をしかめた。
「一昨日に二頭狩ったが、あれをあと三個か。休耕地でスライムを小突いてた頃と比べりゃ、とんでもねえノルマだな。しかも放課後のわずかな時間で集めるとなると……」
「ですが、見返りは十分すぎますよ」
セシルは眼鏡の奥の瞳をギラリと光らせた。
「指定納品枠として認められれば、手数料を引かれても、純銀貨で週に四枚から五枚の確実な手取りになります。加えて、ガド工房の炉の火が維持されるため、私たちの鎖帷子の修繕費や刃の研ぎ直し費用が常に三割引き。……何より、街の腕利き職人に恩を売ることができます。この混乱期に、独自の補給路を確保できる価値は、銀貨数十枚に匹敵しますよ」
「……よし。なら、迷う理由はないね」
ライルは力強く頷き、制服の上着を脱いで頑丈な革のベストに着替えた。
「放課後の限られた時間で、境界エリアを巡回して大角兎を確実に仕留める。……ただし、絶対に無茶はしない。第二層の暗緑の領域には足を踏み入れず、境界線の外縁だけで仕留め切る。アルド、セシル、それでいいかい?」
「応よ! 身体は休耕地の丸太でバッキバキに鍛え直したからな! 早く森へ行こうぜ!」
「ええ。日没までの勝負です。急ぎましょう」
三人は背負い袋を担ぎ、南門の荷物預かり所で武器と鎖帷子を受け取ると、夕暮れの近づく魔物の森へと駆け出した。
王都の防壁から西へ三キロ。
第一層最深部――通称『境界エリア』。
樹冠の隙間から差し込む西日はすでに赤みを帯び、腐葉土の地面には巨木たちの長い影が幾重にも重なり合って、視界を深い黄昏の色に染めていた。
境界エリアの大気は、今日も重く湿っている。西側に横たわる『第二層(暗緑の領域)』から吹き下ろしてくる冷たい風には、獣の生々しい体臭と、皮膚の表面をチリチリと焼くような濃密な魔力の圧迫感が混ざり合っていた。
「……ライル。どうですか」
湿った岩肌の陰で身を屈めながら、セシルが低く鋭い声をかけた。
その左腕は依然として厚手の布で胸元にしっかりと固定されている。急激な運動はできないが、右手には刺突に特化した『鋼鉄の短装剣』が静かに握られていた。
前衛のアルドは、ドワーフ製の鋼鉄の直剣を両手で構え、周囲の濃い下草に視線を走らせている。
その鎖帷子の腹部には、今朝ガドに編み直してもらったばかりの真新しい鋼のリングが、夕暮れの木漏れ日を浴びて鈍く光っていた。
ライルは立ち止まり、大樹の幹にそっと右手を触れさせ、静かに目を閉じた。
(……風を、力で捕まえようとするな)
ライルは自らの呼吸を落とし、意識を周囲の大気と同化させるように広げていく。
休耕地での地獄のような反復練習の成果は、確実にライルの感覚を変えていた。
以前のように、第二層から漏れ出る濃密な魔力のノイズに圧倒されて頭痛を起こすことはない。荒れ狂う大気のうねりを「ただの背景の雑音」として意識の底へと沈め、その表面をわずかに揺らす「異質な波紋」を探していく。
だが――ライルの額に、じわりと冷たい汗が滲んだ。
(……やっぱり、簡単にはいかないな)
視界を遮断しても、頭の中に明確な地図が広がるわけではない。
大気中の魔力濃度が高いため、まるで濃い霧の立ち込める湖の底を手探りで歩いているような、ひどく曖昧で不確かな感覚だった。
風の波紋が、周囲の巨木の枝葉にぶつかって幾重にも乱れ、跳ね返ってくる。どれがただの風のざわめきで、どれが生きた魔獣の息遣いなのか、その境界線は依然として極めて曖昧だった。
(……でも、何かいる)
ライルは眉間に深い皺を寄せ、神経を極限まで尖らせた。
皮膚を撫でる大気の温度。微かに混ざる、獣特有の脂の匂い。
「……アルド、セシル」
ライルは目を開けることなく、途切れ途切れの声で告げた。
「どうした、見えたのか?」
アルドが小声で尋ねる。
「……はっきりとは、わからない。位置も、距離も、まだ霧の向こうみたいにぼやけてる」
ライルは小さく息を吸い込み、感覚を言葉に変換しようと努めた。
「でも……右斜め前の茂みの奥。たぶん、三十メートルか四十メートルくらい離れたあたりに、大気が不自然に淀んでいる場所がある。……そこに一つ、何かが潜んでる気がする」
「右斜め前ですね」
セシルが手帳の地図にペン先を当て、小声で確認する。
「それと……もう一つ」
ライルの表情が、さらに険しくなった。
「左奥の、斜面のあたり。……距離はもっと遠いかもしれない。でも、右側の気配とは、大気の揺れ方の波長が全然違うんだ。……やけに重くて、嫌な圧迫感がある。二頭……いや、もっといるのかな……そこまでは、断定できない」
ライルにとって、これが現在の限界だった。
何頭いて、どんな魔獣で、何メートル何センチの位置にいるのかを正確に言い当てることなど、今の未熟な感知能力では到底不可能だ。ただ「右と左に、それぞれ異なる異質な気配が潜んでいる」という、不穏な予兆を掴むのが精一杯だった。
だが、セシルはその曖昧な情報を聞くや否や、眼鏡の奥の瞳を鋭く細めた。
「十分すぎる情報ですよ、ライル」
セシルは手帳に素早く二つの印を書き込んだ。
「右斜め前と、左奥の斜面。……挟み撃ちの配置です。大角兎は縄張り意識が強い魔獣ですが、侵入者を感知した際は、互いの突進コースが重ならないよう、直角に近い角度から挟み込む習性があります。右の気配が通常の個体なら、左奥の『重い波長』は……おそらく、群れの古株か、大型の変異種でしょう」
「挟み撃ちかよ……。厄介だな」
アルドが鋼鉄の直剣を握り直す。
「各個撃破を狙います」
セシルの指示は冷徹だった。
「大角兎の突進は直線的です。二頭同時に突っ込まれれば防ぎきれませんが、時間差を作れば対処できる。ライル、左奥の重い気配に向けて、あらかじめ大気を揺らして牽制を入れられますか? 相手の突進のタイミングを一瞬でも遅らせるだけでいい」
「やってみる。……土魔法で足元を乱すか、風で木々の枝を激しく揺らして警戒させる」
ライルが頷く。
「よし。アルドは右斜め前の個体に全神経を集中してください。昨日休耕地で叩き込んだ『踵を軸にした半身の回転』です。正面から角を受け止める必要はありません。空振りさせ、体勢が崩れた瞬間に首を叩き割る」
「応よ! 今度こそ、鎖帷子に擦り傷一つつけずに両断してやるぜ!」
作戦は決まった。
曖昧な感知から、セシルの知識で戦況を推測し、アルドの剛腕とライルの魔法で役割を分担する。
少年たちは身を屈め、腐葉土の斜面を慎重に進み始めた。
ガサリッ!
静寂を破り、右手のシダの群生が激しく爆発した。
飛び出してきたのは、ライルの予感通り、赤褐色の体毛を持つ大角兎だった。
長さ四十センチに及ぶ漆黒の角を突き出し、分厚い腐葉土を後足で蹴り飛ばしながら、猛烈なスピードでアルドの正面めがけて突進してくる。
「来やがったなッ!」
アルドの表情から雑念が消え失せた。
休耕地で樫の丸太を担ぎ、何千回と繰り返したスクワット。セシルに何度も「踵が浮いている」となじられ、泥にまみれて叩き込んだ重心移動。
アルドの両足は、まるで樹木の根のように腐葉土の大地を深く掴んでいた。
突進が激突する寸前――。
アルドは右足の踵を軸にして、独楽のように鋭く、滑らかに半身を回転させた。
ヒュンッ!
大角兎の漆黒の角が、アルドの身にまとう鎖帷子のわずか数ミリ外側を空しく切り裂く。
突進の勢いを完全に空振りさせられ、前のめりに体勢を崩した大角兎の無防備な首筋。
そこへ向けて、アルドの全身の回転運動と、ドワーフの鋼鉄の重さが完全に一体となった直剣が、大上段から容赦なく振り下ろされた。
ズガァァァンッ!!
骨を粉砕する重い破壊音が森に木霊した。
一頭目の大角兎は、悲鳴を上げる隙すら与えられず、首の骨を叩き折られて地面にめり込み、そのまま絶命した。
「一頭、撃破ッ!」
アルドが息を吐き、すぐさま剣を引き抜いて体勢を立て直す。
鎖帷子には、傷一つ増えていなかった。
だが、安堵の時間は一秒たりとも与えられなかった。
ドォォォォンッ!!
左奥の斜面から響いてきたのは、大角兎のそれとは信じられない、大地を激しく揺るがす重低音だった。
「なっ……!?」
ライルは咄嗟に振り返り、息を呑んだ。
倒木をまるで枯れ枝のように粉々に粉砕しながら姿を現したのは、通常の大角兎の倍近く――小さな子牛ほどもある、巨大な赤黒い影だった。
頭部から生えているのは、一本の角ではない。太く捻じ曲がり、禍々しい魔力の燐光を帯びた『二本』の漆黒の角。
皮膚はもはや毛皮というより、泥と樹液が長年の魔力で変異し、甲殻のように硬質化した分厚い装甲に覆われていた。
「『双角の大角兎』……!?」
後方のセシルが、息を呑んで叫んだ。
「第一層最深部の変異種の中でも、数年に一度しか現れない希少個体です! 皮膚の硬度は牙猪以上、二本の角による突進破壊力は軽装歩兵を一突きで粉砕します!」
ライルが事前に風で牽制を入れたことで、出現のタイミングこそ数秒遅れたものの、その巨体が放つ圧倒的な殺気は、先ほどの一頭目とは桁が違っていた。
ライルが感知した「やけに重くて嫌な波長」の正体は、この規格外の化け物だったのだ。
「ギシャァァァッ!!」
双角の大角兎は、赤く濁った瞳でライルをロックオンすると、丸太のように太い後ろ足の筋肉を爆発させた。
砲弾のような突進。空気を力任せに押し潰しながら、二本の漆黒の角がハサミのように左右に開かれ、ライルの胴体を挟み込んで両断しようと迫る。
(速い……! 正面から受け止められる質量じゃない!)
アルドの剛腕をもってしても、あの質量を受け止めれば剣ごと身体を圧殺される。
「ライル、跳べェッ!」
アルドが叫び、横から割り込もうと腐葉土を蹴った。だが、突進の初速が速すぎて、アルドの足では到底間に合わない。
ライルは逃げなかった。
恐怖で全身の毛穴が開き、心臓が早鐘を打つ中、ライルは腰を深く落とし、右手の『軽量鋼の片手剣』を水平に構えた。
(……落ち着け。休耕地での模擬戦を思い出せ)
激突まで、あと四メートル。三メートル。
迫り来る二本の漆黒の角が、ライルの視界を真っ暗に覆い尽くそうとする。
「生活魔法――『土』!」
ライルが放ったのは、風ではなかった。
双角の大角兎の、踏み込んだ『左前足』のわずか数センチ手前の地面。そこに、拳大の硬い石の突起を、全魔力を込めて瞬間的に隆起させたのだ。
かつて泥毒蛙の戦いで学んだ教訓。
魔獣の突進は、力で押し返すことはできない。だが、最大加速に乗った巨体にとって、足元のほんの数ミリの狂いは、自身の質量と重力による致命的な自爆を生む。
バキィッ! と、大角兎の鋭い爪が石の突起に激突した。
「ギッ……!?」
左前足を激しく挫かれた大角兎の巨体が、慣性の法則に従って前方へ前のめりに傾ぐ。二本の漆黒の角が地面を深く抉り、その巨体がガラ空きの腹部を晒しながら、ライルの頭上を飛び越えるように宙を舞った。
(今だ……!)
空中に投げ出され、無防備になった赤黒い腹部。
ライルは前へと踏み込み、腰の捻りと同時に、軽量鋼の片手剣を一閃した。
「生活魔法――『風』」
剣が最速のトップスピードを描くその瞬間、峰の後ろへ極小の気流を解放する。
シュンッ――!
真空を切り裂く高音とともに、風の助力を得た鋼の刃が、空中を舞う大角兎の腹部を、分厚い皮下脂肪ごと滑らかに切り裂いた。
ズバァァァッ!
鮮血の雨が腐葉土に降り注ぎ、双角の大角兎は地面に激突して数メートルも転がり、激しい痙攣ののちに沈黙した。
「……はぁっ、はぁっ、はぁっ……」
ライルは残心を保ったまま、ゆっくりと剣の切っ先を下ろした。
右肩に痛みはない。足腰の関節にも、無理な負荷はかかっていない。
土魔法による足場の崩しと、風魔法による刃の加速。二つの生活魔法とドワーフの鋼が、寸分の狂いもなく噛み合った完全な勝利だった。
「……すげえ」
駆け寄ってきたアルドが、倒れた巨体を見下ろして呆然と呟いた。
「おいおい、ライル……。あんな化け物を、一人で、一撃で仕留めちまいやがったぞ……」
「見事です、ライル」
セシルもまた、安堵の息を吐きながら歩み寄ってきた。
「力でねじ伏せるのではなく、相手の自重と慣性を利用して自滅させ、最小限の力で急所を断つ。……まさに、私たちが求めていた『低コストで確実な狩り』の完成形ですよ」
セシルは腰の短装剣を抜き、巨大な死骸の胸元を器用に切り裂いた。
肋骨の奥から取り出されたのは――通常の大角兎の倍以上はある、深紅の輝きを放つ大粒の魔石だった。
「……素晴らしい純度です」
セシルが眼鏡の奥で目を細めた。
「これ一つで、通常の魔石三個分以上のエネルギーがありますよ。ガドの工房の製錬炉なら、これ一つで丸一日、火を焚き続けることができる。……これぞまさしく、私たちの求めていた『火種』です」
「やったな、ライル!」
アルドがライルの背中をバンと叩いた。
「これで今週のノルマは、初日でほぼ達成じゃねえか!」
ライルは血塗れの剣を布で拭いながら、夕暮れの空を見上げた。
樹冠の隙間から見える空は、茜色から深い藍色へと移り変わろうとしている。
(僕たちの力で……街の火を守れる)
王宮の兄たちがどれだけ見栄のために魔石を燃やそうと。
自分たちがこの手で森から奪い取ったこの赤い石は、確実に、明日、石炭街の冷えた炉に本物の炎を灯すのだ。
その静かな確信が、ライルの胸の奥に、どんな称賛の言葉よりも温かい誇りをもたらしていた。
「さあ、急いで解体して王都へ戻りましょう」
セシルが手帳を懐にしまい、手際よく魔石と角を麻袋に収めた。
「ガドの爺さんの驚く顔が、今から楽しみですね」
三人の少年たちは、ずっしりと重い獲物を背負い、夕闇迫る境界の森を後にした。
その足取りは力強く、泥にまみれた彼らの背中には、確かな冒険者としての風格が漂い始めていた。
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